飯田線にいた半流線形電車(合造車)③ | 伊勢守の鉄道博物館

伊勢守の鉄道博物館

一応、鉄道博物館を名乗ってはいますが、偏りがあります(汗)
2018年11月4日より現役(?)に復活することにしました。


クハユ二56形と晩年に共に活躍した車両にクモハユニ64形がいました。この車両も元を糺せばモハユニ61形として誕生した車両でありました。





1983年3月 豊橋

833Mとして発車待ちの姿。
豊川まで一往復して最終の辰野行1227Mで飯田線北部に向かう運用になってました。



1983年3月 豊橋機関区
クハユ二56011

この車両と同時に製造されましたが戦時中で電機品が入手ができず、3両製造されて3両とも制御車代用という惨めな形での登場になりました。
1944年にモハユニ61001のみ電装され、名実共に電動車となることができました。このことが3両の運命を大きく左右することになります。

戦後、横須賀線に新車としてデビューした70系が投入され始めると、電装されたモハユニ61001は先に登場していたモハユニ44形と共に横須賀線を出されて一人富士電車区へ異動になります。
富士配置時代にモハユニ61形からモハユニ44形に編入してモハユニ61形は形式消滅します。1953年6月1日のことです。

1956年には富士から大糸線を担当している北松本へと転属になり、1961年3月に両運転台化改造されクモハユニ64形へと名前がまた変わりました。
大糸線では密着連結器から自動連結器に取り替えられ、荷物輸送に貨車の牽引として運用されていました。飯田線でクモニ13形もそのような経緯がありました。その後、黒部ダム建設が開始されると大糸線の北大町駅が資材運搬に拠点となり、新たにED60形が配置になると荷物運用だけとなっていきます。

1969年9月に赤穂線電化開業に転用する為、新前橋電車区からクモユニ81003が転属してきて交代する形で岡山に転属となります。その際に吹田工場でロングシート化と増設された運転台の貫通化改造をうけます。



1979年5月 上片桐

岡山配置時代にはこのような姿が出来上がっていたと思われます。赤穂線や宇野線で使用されていましたが、ここでもクモユニ81と選手交代となります。
1975年に3ヶ月ほど福塩線を担当する府中電車区へ貸し出しされてもいます。
1977年に飯田線入りを前提にしたものなのか、静岡へと転属します。ここでは大船工場へ検査で入場する車両の牽引車、および入換用としての役目でした。

飯田線入りして最初の工場入場検査を受けてスカ色になるかと思いきや、浜松工場のミスでそのまんまの姿で出場。そのおかげでモノクロではありますが、ぶどう色のクモハユニ64を撮影できました。
久しぶりに旅客営業に就いているぶどう色の電車を見ました。





1983年2月撮影 伊那松島
クモハユニ64000+クハ68412ほか

スカ色になったのは1981年の検査出場からで、この姿での現役は2年弱の短い期間でした。この時に運転士側の前面窓がHゴム化されています。
生れ故郷の横須賀線の衣装を最後に纏ったのは、最後の花道ともなったことでしょう。

車体だけはクハユ二56011、012とほぼ同じですか、電動車であるので床下機器はまるで違います。細かい点ではパンタグラフがあるので通風器の数と位置が違い、前面も関東形の特徴である箱サボ受けが無く関西式の引っ掛け形が付いています。また運行窓が最後まで2桁の大きさでした。
時代を遡れば、クモハユニ44形だった時までは後ろ側にパンタグラフがありましたが、両運改造で前側に移設されています。





宮田-赤木

クモハユニ64000+クハ68412ほか



ペタしてね