マルコ 1:9-11 <イエスの洗礼> 並行マタイ 3:13-17、ルカ 3:21-22

 

マルコ 1 (田川訳)

そしてその頃イエスがガリラヤのナザレから出て来たのであった。そしてヨハネからヨルダンで洗礼を受けた。10そしてすぐに、水からのぼると、天が裂け霊が鳩のように自分の上に下りて来るのを見た。11そして天からの声があった、「汝はわが愛する子、我汝を喜ぶ」。

 

マタイ3

13その時、イエスがガリラヤからヨルダンへ、ヨハネのもとへとやって来て、ヨハネから洗礼を受けようとした。14ヨハネはイエスを妨げて言った、「私こそあなたから洗礼を授けていただかないといけません。あなたの方からわたしのところにお出でになるとは」。15イエスは答えて彼に言った、「今は許せ。我々はこのようにすべての義を満たすのがよろしいのだから」。その時ヨハネは彼に許した。16イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がった。そして見よ、天が開け、彼は、神の霊が鳩のように下りて来て、自分の上に来るのを見た。17そして見よ、天から声が言った、「これは我が愛する子、我、この者を喜ぶ」。

 

ルカ3

21そしてすべての民が洗礼を受け、イエスもまた洗礼を受け祈っていた時に、天が開け、 22聖霊が鳩のような形をして自分の上に下って来て、また天から、「汝はわが愛する子、われ汝を喜ぶという声がする、ということがあった。

 

ヨハネ1

29翌日ヨハネはイエスが自分のところに来るのを見るそして言う、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。30私の後からある人が来る、と私が言ったのはこの人のことだ。この人は私より前になった。私よりも先の者だったからである。私もこの人を知らなかった。だが、イスラエルに明らかになるために、その故に私は来て、水で洗礼をさずけているのだ」。32そしてヨハネは証言していった、「私は天から霊が鳩のように下ってくるのを見た。そしてこの人の上にとどまった。33私もこの人を知らなかった。しかし水で洗礼をさずけるようにと私を遣わした給うた方が、その方が私に言われた、霊が下って来てその人の上にとどまるのを見たら、その人が聖霊で洗礼をほどこす人だ、と。34そして私は見てこの人が神の子だと証言したのだ」。

 

 

マルコは、イエスがガリラヤのナザレから出て来て、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとしている。

マタイは、結果としては洗礼者ヨハネから洗礼を受けるのであるが、ヨハネは洗礼を受けようとするイエスをとどめたとしている。

しかし、ルカはイエスが洗礼を受けたとしているが、洗礼者ヨハネが施したものであることを示す直接的な記述はない。

 

マルコ1

そしてその頃イエスがガリラヤのナザレから出て来たのであった。そしてヨハネからヨルダンで洗礼を受けた。

 

マタイ3

13その時、イエスがガリラヤからヨルダンへヨハネのもとへとやって来て、ヨハネから洗礼を受けようとした14ヨハネはイエスを妨げて言った、「私こそあなたから洗礼を授けていただかないといけません。あなたの方からわたしのところにお出でになるとは」。15イエスは答えて彼に言った、「今は許せ。我々はこのようにすべての義を満たすのがよろしいのだから」。その時ヨハネは彼に許した。

 

ルカ3

19四分領主のヘロデは兄弟の妻ヘロディアのことについて、また自分がなしたあらゆる悪事について、ヨハネによって糾弾されていた。20そしてすべての悪事に更にこのことを加え、ヨハネを獄に閉じこめた

21そしてすべての民が洗礼を受け、イエスもまた洗礼を受け祈っていた時に、…

 

ヨハネ1

29翌日ヨハネはイエスが自分のところに来るのを見るそして言う、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。30私の後からある人が来る、と私が言ったのはこの人のことだ。この人は私より前になった。私よりも先の者だったからである。私もこの人を知らなかった。だが、イスラエルに明らかになるために、その故に私は来て、水で洗礼をさずけているのだ」。

 

 

マルコはこの段落の始まりを、kai egeneto、直訳は「そして生じた(以下のことが)」という書き出しで、「イエスの洗礼」伝承を始めている。

この言い方は、ヘブライ語アラム語の文の発想をそのままギリシャ語に持ち込んだもので、段落の始まりを示すだけで、ほとんど意味をなさない程度の軽い句である。

 

七十人訳にも多く出て来る表現だが、意識して七十人訳を真似たわけではなく、アラム語が母語のマルコにとっては口癖のような言い方だったのであろう。

マルコにおけるイエスの洗礼は、マタイやルカのように、洗礼者ヨハネの前にイエスの奇跡的誕生物語の後に登場するわけではない。

 

洗礼者ヨハネの「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」伝承に続いて、「イエスの洗礼」伝承が始まっているので、将来キリストとなるイエスの登場という趣旨にはなっていない。

 

洗礼者ヨハネが活動していた頃、「そして生じた」「その頃に」(kai egeneto en ekeinais tais hEmerais)、「ガリラヤのナザレから来たイエスが」(Elrhwn iEsous apo Nazareth tEs garalilaias)、「そしてヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた」(kai ebaptisthE hypo iOannou eis ton iordanEn)という事実を述べている。

 

マタイやルカでは、聖人伝承化されたイエスの誕生物語や成長物語の後にイエスの洗礼の話が登場するので、無意識にキリスト化されたイエスを前提に読み込むことになる。

 

マルコは、「ガリラヤのナザレから出て来たイエスが」、洗礼者ヨハネの洗礼を受けたと述べているだけある。

 

マルコにおいて「イエスの活動」はまだ始まっていない。

マルコにおける「イエスの活動」は、12「荒野の試練」を経て、14「福音の宣言」をもって始まる。

マルコにイエスが処女マリアから生まれた話はない。

つまり、マルコとしては、イエスはこの時までガリラヤのナザレに居たのだが、活動を始めるにあたって「ナザレを去って出て行った」という趣旨になる。

 

マタイにある、イエスが処女から生まれ、ベツレヘムでヘロデからの迫害からエジプトに逃れた、のちナザレで成長した、という話ではない。

 

ルカにある、住民登録のための旅程にエルサレムの馬小屋で処女から生まれ、過越しごとに故郷のナザレからエルサレムに通っていた、という話でもない。

 

マルコにおけるイエスは、ガリラヤのナザレで生れ、その地に居て、成長し、活動していた人間であり、そこを出て来て、ヨハネから「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」を受けた、と言っているのである。

 

 

マタイは、マルコの「ガリラヤのナザレから」の「ナザレ」を外して、単に「ガリラヤから」としている。

どうやらマタイはイエスが「ナザレ出身」であることをあまり知られたくないようである。

 

マタイでは、マルコとは異なり、イエスがヨハネから洗礼を受けに来たのではなく、イエスはヨハネから洗礼を受けようとしたのであるが、ヨハネの方からイエスが洗礼を受けるのを妨げようとした、としている。

 

洗礼を施す側と洗礼を受ける側では、洗礼を施す側が明らかに上位である。

 

マタイでは、その主従関係が逆転しており、ヨハネ自身がイエスから洗礼を受けなければならない立場であると告白する。

 

マタイは、イエスがヨハネのもとに来たのは、ヨハネから洗礼を施してもらうためではなく、ヨハネにイエスの洗礼を施させてあげるために来た、というのである。

 

しかも、ヨハネがイエスに洗礼を施すことは、「すべての義を満たすため」であるというイエスの言葉に従がって、ヨハネはイエスに洗礼を許した、という話になっている。

 

つまり、マタイではイエスは初めからキリストになることを自覚しており、ヨハネが洗礼を施すのも、イエスが洗礼を受けることも、「義を満たすため」、要するに「旧約の律法に従がうため」であるとしているのである。

 

 

ルカでは、「イエスの洗礼」の前に、「洗礼者ヨハネの逮捕」伝承を置いており、「洗礼者ヨハネ」の項では、イエスの洗礼のことを記しているのに、「イエスの洗礼」の項でははっきりと「ヨハネから洗礼を受けた」とする記述を明示していない。

 

イエスの洗礼前に、ヨハネが逮捕されているのであれば、ヨハネがイエスに洗礼を施すことは不可能である。

とすれば、イエスは民と一緒にヨハネの弟子たちから洗礼を受けたことになる

 

ところがルカの「洗礼者ヨハネ」の項では、キリストの出現を16「ヨハネが皆に答えて言った、「私はあなた達に水で洗礼をほどこすが、私より力ある方がお出になる。私は、その方の履物の紐をほどくほどの資格もない。その方はあなた方に聖霊と火にて洗礼をほどこすであろう。」と予告している。

おそらくこの部分はマルコを写しているだけであろう。

 

マルコでは、「ヨハネの投獄」は、「イエスの洗礼後」の話であり、「荒野の試練」を経た後のことである。

マルコは、洗礼者ヨハネの逮捕と殺害の経緯を6:14-29(並行マタイ14:1-12)で詳しく取り上げている。

 

ルカが「洗礼者ヨハネ」の話に続いて、「洗礼者ヨハネの投獄」の項を置いたのは、「洗礼者ヨハネ」に関する伝承を一緒にまとめておこうとしたのだろう。

 

その結果ルカでは、洗礼者ヨハネの活動に関して矛盾が生じることとなった。

イエスの洗礼前に投獄されたはずの洗礼者ヨハネが、7:18~では、まだ自由に活動していたことになっている。

しかし、ルカ9;7-9では、すでにヨハネは首を切られて亡くなっていることになっている。

ルカに従がえば、ヨハネは、イエスの活動が始まる前に、逮捕され、拘禁されていたが、イエスの活動中に釈放され、再逮捕され、首を切られた、ということになる。

 

史実的には、ヨハネは死海東岸の岩山にある要塞マカイロス(Machairos)の牢獄に投獄され、釈放されることなく、そこで殺害されたものと思われる。(ヨセフス『ユダヤ古代史』18・118-119)

アンティパスの宮廷はガリラヤ湖南岸のティベリアスの町にあり、マルコの話もおそらく創作伝承。

 

ルカとしては、イエスがヨハネから洗礼を受けたという事実になるべく触れたくなかったのだろう。

 

ルカにしてみれば、イエスは絶対的な救済者である。

その先駆者に過ぎないヨハネから洗礼を受けるということは、イエスをヨハネの下位に置くことになる。

しかし、イエスが洗礼を受けたという事実を無視するわけにはいかない。

 

それで、「すべての民」(hapanta ton laon)とは定冠詞付き「民」であり、字義通りに読めば、例外なく「イスラエルのすべての民」という意味になる。もちろん、現実ではありえない。

おそらく、世の中の多数の人々の意味であろうが、「すべてのユダヤ人」が洗礼を受けているのであるから、ユダヤ人である「イエスもまた洗礼を受けた」という事実を指摘するだけにとどめたのであろう。

 

 

ヨハネ福音書にいたっては、「イエスの洗礼」という事実については、まったく言及せず、マルコ1:10にある洗礼者ヨハネの証言だけを取りあげている。

 

洗礼者ヨハネをイエスの先駆者と解釈するキリスト教の都合上、ヨハネがイエスの上位にあることを示すような伝承に関しては、様々な解釈や脚色が加えられ、伝承されていったのだろう。

 

 

マルコの伝える「イエスの洗礼」物語でも見られることであるが、重点はイエスがヨハネから洗礼を受けたという事実ではなく、その場面で「イエスが聖霊を受けた」こと、その際「天からの声を聞いたことを語る」、ということに置かれている。

 

マルコ1

10そしてすぐに、水からのぼると、天が裂け霊が鳩のように分の上に下りて来るのを見た。11そして天からの声があった、「汝はわが愛する子、我汝を喜ぶ」。

 

マタイ3

16イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がった。そして見よ、天が開け、彼は、神の霊が鳩のように下りて来て、自分の上に来るのを見た。17そして見よ、天から声が言った、「これは我が愛する子、我、この者を喜ぶ」。

 

ルカ3

21そしてすべての民が洗礼を受け、イエスもまた洗礼を受け祈っていた時に天が開け、 22聖霊が鳩のような形をして自分の上に下って来て、また天から、「汝はわが愛する子、われ汝を喜ぶという声がする、ということがあった。

 

ヨハネ1

32そしてヨハネは証言していった、「私は天から霊が鳩のように下ってくるのを見た。そしてこの人の上にとどまった。33私もこの人を知らなかった。しかし水で洗礼をさずけるようにと私を遣わした給うた方が、その方が私に言われた、霊が下って来てその人の上にとどまるのを見たら、その人が聖霊で洗礼をほどこす人だ、と。34そして私は見て、この人が神の子と証言したのだ」。

 

 

マルコの「そしてすぐに」(kai eutheOs)はマルコの口癖で、文字通りに「すぐに、直ちに」という意味ではない。

マタイは、「すぐに」と文字通りの意味に解している。

 

ルカも「洗礼を受け祈っていた時に、天が開け…」と続けているので、マルコの「そしてすぐに」をマルコの口癖とは思わず、文字通りに「祈っていた。そして、その後すぐに、…」という意味に解している。

 

マルコでは、「天が裂け」(schizomenous tous ouranous)、「霊が鳩のように」(to pneuma hOsei peristeran)下りて来る。

「自分の上に」(eis auton)下りて来るのを見た、とあり、「見た」(eiden)の主語は三人称単数形の動詞であり、「イエス」を指す。

マルコの「天が裂け」(schizO)は、普通開くはずのない天が突如として開いて分かれるイメージの語。英語では、sprit。

 

マタイでは、「天が開け」(aneOchthEsan auto hoi ouranoi)、「神の霊が鳩のように」(to pneuma tou theou katabainou hOsei peristeran)下りて来る。

「自分の上に」(ep auton)下りて来るのを見た、とあり、やはり「見た」(eiden)の主語はマルコと同じく三人称単数で、「イエス」を指す。

マタイの「天が開け」(anoigO)は、ドアか窓のように天が開いたり閉じたりするイメージの語。英語では、open。

 

ルカもマタイと同じく、「天が開け」(aneOchthEnai ton ouraon)としているが、「霊」に関しては「聖霊が鳩のような形をして」(to pneuma to hagion sOmatikO eidei hOsei peristeran)とある。イエスが「自分の上に下って来る」のを「見る」のではなく、不人称的三人称単数で、そのようなことが「あった」(egeneto de)という句で書き出している。

ルカでは、イエスが誰から洗礼を受けたかについては書かれておらず、イエスが洗礼を受けたという事実が描かれているだけである。

 

ヨハネでは、「イエスの上に霊が天から鳩のように下って来る」(to pneuma katabainon hOsei peristeran ex ouranou)の「見た」(tetheamai)と証言するのは洗礼者ヨハネである。

 

マルコ・マタイにおける「見た」(eiden)の主語を洗礼者ヨハネと読んだり、洗礼者ヨハネもイエスとともに見た、と解釈するのは、マルコやマタイにヨハネを読み込んで、聖書を矛盾なく解釈しようするものだろう。

 

マルコ「霊が鳩のように下る」(to pneuma hOsei peristera katabainon)、

マタイ「神の霊が鳩のように下る」(to pneuma tou theou katabainon hOsei peristeran)、

ルカ「霊が鳩のような形をして下る」(katabEnai to pneuma to hagion sOmatikO eidei hOsei peristeran)、

ヨハネ「霊が天から鳩のように下って来る」(to pneuma katabainon hOsei peristeran ex ouranou)とそれぞれ微妙に表現が異なる。

                                               

マルコは「霊」(to pneuma)、マタイは「神の霊」(to pneuma tou theou)、ルカは「聖霊」(to pneuma to hagion)、ヨハネは「霊」(to pneuma)

マルコは「霊」を特別扱いしていないのに、マタイは「神の」を付加し、ルカは「聖なる」を付加している。

マタイは動詞の位置が違うだけで、ほぼマルコを写している。まだマタイにはマルコを尊重しようとする姿勢が覗える。

 

ルカは、マルコが単に「鳩のような」と「鳩」に例えているに過ぎないのに、「のような形の」(sOmatikO eide)という句を加え、実際に「鳩のような姿かたち」をした「聖霊」が下ったことにしている。

ルカは、イエスがヨハネから洗礼を受けたことは消そうとしているのに、「霊」を受けたことに関しては、マルコより神格化し、具象化しようとしている。

 

ヨハネはマルコを見ながら写しているわけではないが、「霊が鳩のように下る」(to pneuma katabainon hOsei peristeran)というマルコの言い方が頭に残っていたのであろう。

 

「天の声」に関しても、それぞれ微妙に異なっている。

 

マルコでは、「汝はわが愛する子、我汝を喜ぶ」(sui ei ho huios mou ho agapEtos en hO eudkEsa)という「天からの声」(phOnE ek tOn ouranOn)がある。

「天の声」は二人称で「汝は…、汝を…」と呼びかける。

マルコのイエスはそれまで「神の子である」という自覚を持っていなかったのであるが、この時初めて「天からの声」が「わが愛する子」と呼びかけた、ということになる。

 

マタイでは、「これは我が愛する子、我、この者を喜ぶ」(houtos estin ho huios mou ho agapEtos en hO eudokEsa)と「天から声」(phOnE ek tOn ouranOn)が言う。

「そして見よ」(kai idou)と呼びかけ、「天からの声」は三人称でイエスに「これは…、この者を…」と呼びかける。

マタイでは、イエスは自分が神の子であるということは初めから分かっていることなので、「そして見よ」と見ている人に呼びかけ、「天からの声」が、イエスは「神の子」であると宣言した、ということになる。

 

ルカは、不人称的三人称単数で、「そういうことがあった」(egeneto de)という句で書き出しているので、単に天から、「汝はわが愛する子われ汝を喜ぶ」(su ei ho huios mou ho agapEtos en soiEudokEsa)という声がする」ということがあったという事実を伝えているだけである。

ただしルカは、マルコの関係代名詞(hO)を二人称代名詞(soi)に直し、より自然なギリシャ語なるように修正してくれている。

 

「天からの声」は二人称で「汝は…、汝を…」と直接イエスに呼びかけるが、この時始めてイエスは自分が神の子であることを自覚したわけではなく、ルカはマルコをそのまま写しているだけ。

ルカのイエスは、生れる前から「神の子」であることが予告されて、誕生し、「神の子」として成長する。

 

ヨハネでは、洗礼者ヨハネがイエスの上に「私は天から霊が鳩のように下ってくるのを見た」と証言し、「イスラエルに明らかになるために」、私は見て、「この人が神の子だ」と証言したのだとあるだけで、ヨハネに、イエスが洗礼を受ける場面は登場しない。

ヨハネは、イエスが自分のところに来るのを見るだけである。

 

 

イエスがヨハネから洗礼を受けたという事実以上の出来事、つまり「聖霊が鳩のような形でイエスの上に下る」こととか、「天からの声が語る」ということは、実際にイエスが体験したことというのではなく、キリスト教団による脚色であろう。

 

生前のイエスは自分をメシアやキリストと信じて活動しているのではない。

イエスをキリストとする信仰はイエスに由来するのではなく、イエスの弟子たちに由来するキリスト教信仰である。

 

イエスは自分を「神の子」と詐称したとして、冤罪により殺害された人間である。

福音書にあるイエスの言葉で、イエスを「神の子」あるいは「キリスト」であることを前提としている言葉は、すべてイエス後のキリスト教団が実際のイエスの言葉に手を加えているか、創作してイエスの口においているかのどちらかであろう。

 

聖書がイエスの言葉であると伝えているから、実際にイエスが語ったことであると無条件に信じるのは、イエスの真実の姿を知りたいのであれば、止めた方がよいように思う。

 

それは聖書正典信仰と同じであり、聖書無謬性を信仰しているのと大差ないように思う。

 

イエス・キリストの新たな理想像を聖書から構築しようとすることは、自分が信じたいイエス・キリストを信じるよう自分を洗脳することと同じように思える。

 

それも信仰の自由ですから、自己責任でご自由に、ということでしょう。

 

閑話休題。

 

 

「霊」の表徴として「鳩」が用いられたのは、なぜか。

 

WTによると

*** 洞‐2 517–518ページ はと ***

はとはその温和で穏やかな外見と気質のために,“鳥類の羊という評価を得ています。ユダヤ人の男子に付ける名として,昔も今もヨナ(ヨーナー)という名に人気があるのはそのためです。(ヨナ 1:1)この鳥は伴侶に対する献身的な態度とその愛情のゆえによく知られ,求愛の際には互いに頭を寄せ合って,あたかも愛人同士が口づけをするかのように,相手のくちばしを自分のくちばしの中に入れます。ですから,シュラムの乙女の愛する羊飼いが用いた,「わたしのはと」という言葉はふさわしい愛情の表現でした。(歌 5:2; 6:9)その乙女の目は,はとの温和で穏やかな目に例えられています。(歌 1:15; 4:1)彼女のほうは羊飼いの目を,乳の池で水浴びする青みがかった灰色のはとに例えましたが,この愛らしい直喩は,目のほのかに光る白い部分に囲まれた,暗色の虹彩を表わしていたようです。(歌 5:12)はとは水浴びが好きで,水源の近くに営巣することを好みます。

この憶病な鳥は脅かされるとおののき(ホセ 11:11),野生のはとはしばしば谷に巣を作りますが(エゼ 7:16),カワラバトは岩棚の上,また断がいや岩の多い峡谷の穴に巣を作ります。(歌 2:14; エレ 48:28)はとは飼い慣らされると,専用のはと小屋に飛んで帰りますが,大きな群れを成すはとの翼の下側の白い部分は,移動している雲のように見えます。(イザ 60:8)イスラエルでは,かなり大きなはと小屋が幾つか発掘されています。

はとは強い翼を持ち,食物を探しながら長距離を飛ぶことができ,大半の敵から素早く逃れることができます。(詩 55:6‐8)しかし,人間にはかなり信頼を示し,網を使ったなや仕掛けに容易に捕まる傾向があります。このため,愚かにも最初はエジプトに,後にはアッシリアに信頼を託した背教したエフライムは,網に捕らえられる「単純なはと」に例えられました。(ホセ 7:11,12)イエスはおおかみのような反対者に注意するよう弟子たちに警告した際,「はとのように純真」であるばかりでなく,「蛇のように用心深く」あるようにとも助言しました。―マタ 10:16。

イエスがバプテスマを受け,そののち神の聖霊によって油そそがれた時,その聖霊は「はとのような形をとって」現われましたが,それが目に見える仕方でイエスに下って来るさまは,止まり木に近づこうとするはとが舞い降りるさまに似ていたと思われます。(ルカ 3:22; マタ 3:16; マル 1:10; ヨハ 1:32‐34)はとの純真さという特徴からすれば,それはふさわしい象徴でした。―マタ 10:16。

エルサレムの神殿で商売に精を出していた者たちがはとを売っていたことからも分かるように,はとは犠牲のために用いられましたが,ここで言う「はと[ギ語,ペリステラース]」とは,モーセの律法に出て来る「やまばと」や「若いいえばと」を指しているのかもしれません。―マル 11:15; ヨハ 2:14‐16。

 

WTによると、いろいろと含みはあるようだが、人を信じやすく、脅されるとおののき、罠にかかりやすい「純真さ」と生贄の「犠牲」の象徴として相応しいという解釈のようだ。

 

 

キリスト教世界においての解釈は、いろいろあるようだが、調べたものをいくつか紹介しておく。

 

「鳩」の表象にイエスの召命意識を見出そうとする解釈として、H・ザーリンの著、H.Sahal,Studien zum dritten Kapital des Lukasevangeliums,Uppsala,1949がある。

 

「鳩」が象徴的な意味に用いられる場合は、旧約では「神によって選ばれたものとしてのイスラエルの民」を意味する(ホセア11:11、詩68:14,74:19、イザヤ60:8、雅歌2:14,5:12,6:9、第四エズラ5:24-27)

 

従がって選民イスラエルの象徴たる鳩がイエスの上に下った、ということは、イエスを真のイスラエルの受肉者となした、ということを意味する、という解釈である。

 

この「召命意識」をさらに強調した説。A.Feuilet,Le symbolisme de la colombe dans les recits evangeliques du bapteme,Rechurches du Science Redigieuse 46,1968.p.524-544

 

A・フェイエによると、「鳩は天から下りて来るのだから、いかに象徴的意味であろうとも、それをそのまま、イスラエル民族と同一視するわけにはいかない。

 

雅歌では、「鳩」の表象だけでなく、「神の花嫁」という表象も、イスラエルに対して用いられているのだから、この二つをまとめて、選民イスラエルを示唆的に思い出させるのが、鳩の象徴である。「鳩」がイエスのもとに下りて来た、というのは、イエスが鳩の形で現れたイスラエルを花嫁として持つ、という意味だ」と解釈している。

 

イエスは洗礼におけるこの幻視幻聴体験によって、イスラエルに対する責任感、召命意識を持つにいたったのだ、というのである。イエスは、自分に与えられた課題として「鳩」、すなわち「神の霊によって愛される新しいイスラエル」を形成すべき責任に目覚めたのだ、と解釈している。

 

他にも、イエスの洗礼物語の鳩に、象徴的な意味を見いだそうとして、古代オリエントの神王の即位神話に求めるもの(H.GunkelやH.Gressmannなどの宗教史研究)などがあるそうだ。

 

しかしながら、イエスの洗礼物語では、「霊」が「鳩ように」と比喩として語られているだけで、何か別の表象であることを示唆する表現は見当たらない。

「霊」は「風」とも訳され、「目に見えない空気の動き」を表わす語でもある。

目に見えない「霊」を可視化しようとして、「鳩のように」と表現されたものであろう。

 

雅歌2:12の「鳩の声」をタルグムでは「聖霊の声」と書き改めているという。

前1世紀ごろからユダヤ教では、「霊」を「鳩」の比喩として用いられていたようである。

 

マルコが採用したイエスの洗礼伝承も、その影響を受けているのだろう。

洗礼者ヨハネ物語と同様にイエス洗礼物語も洗礼者ヨハネ教団由来の原伝承に、キリスト教化要素を加えて再編集されたものであろう。

 

 

「天からの声」は、旧約の引用文と言われるが、直接の引用ではなく、解釈的引用である。

旧約引用として、詩篇2:7、イザヤ42:1、創世記22:2、出エジプト記4:22-23が指摘されるが、詩編2:7は、「汝は我が子なり」という部分だけが一致する。

ただ、これは神が王を子として宣言する、という詩文であるから、生前のイエスに直接適用できるわけではない。

 

イザヤ42:1は主の僕の歌の一部であるが、七十人訳「ヤコブは我が僕、わたしは彼を支える。イスラエルは我が選びし者、わが魂は彼を受け入れた。わたしはわが霊を彼の上に授けた」より、ヘブライ語本文「わが心はわが選びし者を喜ぶ。わたしはわが霊を彼の上におく」の方が近い。

 

イエスの洗礼物語において共通しているのは、「喜ぶ」という動詞と「わたしはわが霊を彼の上におく」という点である。直接の引用ではなく、イザヤの「主の僕」を「イスラエル」から「イエス」と解釈して適用したキリスト教を前提とした解釈である。

 

創世記22:2でイサクの焼燔未遂物語で、「汝の愛するひとり子」という表現が出て来るが、イサク=イエス、イサクの犠牲=イエスの十字架を類型として読み込んだキリスト教護教主義信仰であろう。

 

出エジプト記4:22「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」。これは「わたしの子」という表現が共通しているだけで、イエスの洗礼物語における天の声とは無関係に思える。

 

 

「洗礼者ヨハネ」の項で、ヨハネは「火」の洗礼を予言していたであろうことは指摘したが、「霊」の洗礼を予言しなかった、と言えるかどうかは実は微妙である。

福音書は「霊」の洗礼はイエスに属するもので、ヨハネに属しているとは書かれていない。

 

しかしながら、「洗礼者ヨハネ」物語も「イエスの洗礼」物語も、洗礼者ヨハネ集団の伝承をキリスト教化したものであるなら、Q資料の「聖霊と火による洗礼」もヨハネ教団の預言をキリスト教団が拝借したものかもしれない。

 

確かにキリスト教団で行なわれていた洗礼は「聖霊による洗礼」と考えていたが、必ずしも初めからキリスト教団の専売特許だったとは言えないのかもしれない。

 

「十二族長の遺訓」という旧約偽典がある。

そのレビの項18章には「(終末のメシアたる新しい祭司は)聖者たちに生命の木から食べさせ、そして聖なる霊が彼らの上にとどまるであろう」とあり、ユダの項24章にも同様の文が見られる。

 

終末時の神からの賜物として、聖霊が下るというのは、キリスト教だけのものではなく、マカベア時代以降のユダヤ教にも見られた信仰であった。

 

「十二族長の遺訓」は、死海文書でも大きな断片が発見されており、クムラン教団に属するエッセネ派教団に属していた人物か、属してはいなくても思想的にエッセネ派に非常に近い人物が関係しているものと推定されている。

 

洗礼者ヨハネも初期のユダヤ人キリスト教団もエッセネ派に非常に近い人物たちである。

彼らが終末論的な祝福として「聖霊」の洗礼を予言し、対応する罰として「火」の洗礼を予言していた、ということは十分考えられる出来事である。

 

あるいは、「霊」=「風」という当時の概念から考慮すると、ヨハネは「聖霊」ではなく、単に「霊」と「火」による洗礼を予言していたと考えることもできる。

つまり、祝福としての「聖霊」ではなく、「風」と「火」による処罰としての洗礼をヨハネは伝道し、予言していた、ということも考えられる。

 

旧約の中では、「風」も「火」と同様に神の審判を象徴する表象となっている箇所がある。(イザヤ29:6、30:37以下。エレミヤ23:19他)

 

ヨハネ教団の予言をキリスト教団がキリスト教の洗礼に対する予言に適用し、「風」=「霊」に「聖」の字を付加し、「聖霊」として、キリスト教団が取り入れた。

そして、キリスト教の洗礼は、「聖霊」を受ける洗礼であると解し、キリスト教団が洗礼により、「聖霊」を授ける専売特許を持つとする権威にしたのかもしれない。

 

ヨハネ教団が行なっていた「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」活動と「霊と火による洗礼」という終末予言活動に、キリスト教団が「聖」なる思想を付与した。

そして、キリスト教団の儀式に取り込み、神の祝福による「聖霊」による洗礼とし、反対者たちには神からの処罰として「火」による洗礼を終末預言として取り入れたのかもしれない。

 

しかしながら、これも「聖霊による洗礼」はキリスト教団が始めたものであるという解釈を前提にしており、ヨハネ教団とは一線を画しており、キリスト教的解釈かもしれない。

 

終末時に神の霊が下るという思想は、ペンテコステの際、ペテロがヨエル2:29の預言成就という形で、キリスト教会の誕生に適用されており、ユダヤ教時代から聖霊が神信仰信者に下る、という思想は継承されていたものと思われる。

 

最初期のペテロ教団では洗礼者ヨハネ教団の、「罪の赦しにいたる悔い改め」と「霊」の洗礼という思想を結び付けて、洗礼をキリスト教に取り込んで儀式化していたのであろう。

 

マルコは「水の洗礼」と「霊の洗礼」を切り離して、イエスの洗礼に「霊が下る」ことに焦点を当てている。

 

それは、十二弟子たちによる初期キリスト教団(=ペテロ教団)は、洗礼者ヨハネ教団と同じく「罪の赦しにいたる悔い改め」を語り、洗礼を実行していた。

しかし、マルコによるイエスはもはや「罪の赦しにいたる悔い改め」には言及せず、「罪を許す権威」と「イエス」を結びつけて語っている。(マルコ2:1-3:6参照)

 

マルコは、実際には「水の洗礼」でしかないものを、「霊の洗礼」と称して、キリスト教化したペテロ集団を批判したかったのかもしれない。

 

ペテロ教団は、洗礼者ヨハネ教団の「水の洗礼」を「霊の洗礼」と称して「罪の赦しにいたる」とキリスト教化したが、イエスの「霊の洗礼」はペテロ教団の説く「罪の赦しにいたる洗礼」とは違う。

マルコのキリスト教においては、イエスの生き方こそ、「霊の洗礼」であり、ペテロ教団の説く「霊の洗礼」とは、根本的に別次元のものである。

 

そう言いたかったために、元来は「霊の洗礼」も「火の洗礼」もどちらもヨハネ教団の予言であったにもかかわらず、「水の洗礼」を「ヨハネ教団」(=「ペテロ教団」)のものとし、「霊の洗礼」を「イエスの洗礼」とに分離させたのかもしれない。

これから生じるイエスの出来事、イエスの生き方こそ、「霊の洗礼」なのだと。

マルコのイエスは、洗礼をほどこさないだけでなく、口にすることもない。

イエスと聖霊についてすら、伝承に直接言及する以外は関係づけられることもない。

 

マルコにとっては、「霊」や「洗礼」という概念や儀式は重要なものではなく、イエスの洗礼による「天からの声」との交流を序曲として始まるイエスの活動こそ、「福音」の始まりを告げるものなのであろう。