私のたまに見ているブログに、
シナリオライターを目指している人が書いてるのがある。
シナリオ学校に通っており、
イケメンの書くシナリオは美人にうけている、
とか、
三十過ぎて夢を追っている俺って…、
のような自嘲気味なことが書いてあったりする。
私の友だちにも似たようなのがいる。
本業はあるが、ライターを諦めきれず、その道を模索している。
作家とか、脚本家って、人聞きはかっこいいかもしれんが、
本気でやったら、けっこうツライ職業だなあ、と思う。
出世までが難儀なのもさることながら、
なったらなったで、いろいろな迷いも生じてこよう。
野沢尚のような大作家が自殺しているくらいだからな。
石川淳最晩年の随筆集『夷齋風雅』。
(「夷齋」は石川淳の雅号。1988年刊。石川淳は前年末に没している。)
巻頭の一文のタイトルは「忘言」。
石川淳は
荘子の「忘筌」を引き、これに論難をふっかけることで
一種の作家宣言を行っている。
「忘筌」というのは、
魚を捕ったら、捕った仕掛け(筌)は忘れるがよろしい。
同じように、意を得たら、そのことばをわすれるがよろしい。
という義で、
禅や茶道でも重んじられている句である。
茶室に「忘筌」と書かれた額が掛かっていたりする。
石川淳は、かく述べる。
「ワナの仕掛と同様に言は捨ててかへりみないのださうである。
それでは言の立つ瀬があるまい。
ここはいささか荘子にさからふことにする。」
「ことばの世界に踏みとどまるのは、なにをかくさう、当方が売文の徒だからである。
荘周(=荘子)は文を商売にしてゐなかつた。
この師匠はことばを忘れてのんびり悟ことができた。(中略)
後人はサトリを忘れてことばの仕掛にあそぶことができる。
それでも、忘言の声が消えたわけではない。
このいざなひは酒よりもつよい。
ことばにあそびながら、うつかりことばを忘れかねないだらう。
これは危険なワナである。」
危険って、やっぱりことばに拘るほうが危険な気がしますが。
「何故ならいつも 言葉は嘘を孕んでいる」 copyright 椎名林檎
荘子も、だから、ことばこそを「筌(ワナ)」に譬えているわけだし。
ことばという「筌」を持って、追いかければ追いかけるほど魚は逃げていく。
「筌」は仕掛けて待つ。魚が捕れたら取って食う。
「筌」はまたつくり直す。
それが荘子の意図するところ。
「筌」をジッと見つめていたのでは辛くなるばっかりだろう。
でも、石川淳もそれは重々承知であったはずだ。
すでに、この四十年ほど前に、小文『太宰治昇天』で、
太宰治の「小説を書くのがいやになった」という書きつけに寄せて
「がんらい小説というものはいやいや書くものである」
と吐露しているくらいだから。
石川淳は、この文を
「悟つてはできぬ商売因果なり」
という俳諧で結ぶ。
なんだかんで言って、石川淳も、
作家というのは悟りからいちばん遠い職業であることを認めている。
だから、我々は作家の苦心をチラと思いつつ、
その馥郁たる香を嗅いで盃を置くのが賢明なのである。
しかし、石川淳、88歳に及んでも、
林檎の言語観より、まだ青いのが可愛いというか。