2週間ほど前に苦労して書いた最高の出来の記事を,わたくしのこの右手が他の記事と誤って消してしまったので,忙しい合間を縫ってもう一度UPしようと思い,ここにやってきている。
先日,三森ゆりかさん (平成22年の講演からをご覧になりたい方は左の名前をクリックしてください。)がこちらにおいでになり,「これからの日本に必要な『言語技術』の有効性」というタイトルの下,講演をしてくださった。
先生は現在,全国から講演の依頼で引っ張りだこで,大変お忙しい日々を送っておられる。
とても知的でシャープな印象の素敵な女性だった。お子さん達も優秀で,お一人はお医者様,もうお一人は物理学の研究者をしているそうで,子育ての面でも非常に参考にさせていただきたい方であった。(ご自身のお子さんの子育ても,大成功されているがゆえに,お力のあるお言葉)
講演会の前には,県下でも有数の進学校で知られている高校生に,実際,言語技術を教える模擬授業を行ってくださった。
対象学年は2学年理系(わたしの僕たち私たちと同じ)で,
授業の前に,
「理系に文学はあまり関係ないと考える人?」という質問をされ,
多数の生徒が手を上げていた。
それから,
「医学部に進学をしたい人?」という質問で,
15名ほどの生徒が手を上げたところ,
「(言語技術を身に付ける上で)文学など,分析的にものを読む訓練をすることは,数学の証明問題のようなものだから,論理的にデータを元に読んでいくのだから,文系よりも理系の方が向いている。」と言われた。
医者であれば,様々な文章,特に患者さんの様子を的確に観察し診断していく能力が問われるのだから,言語技術を身に付けることは将来の職業にもきっと役に立つことであると述べられた。
教材は,
ヴルズラ・ヴェルフェル作の
「灰色の畑と緑の畑」(岩波少年文庫)で,
生まれも育ちも全く異なったフワニータという同じ名前の少女の話であった。
事前に生徒たちに読んできてもらい,
教師側が,概要を質問していく形で授業が進められていく。
単語で答えるのは日本人だけで,主語をつけてきちんと文章で答えるようにと指示があった。(これは普段から私も子供たちに注意していることだ。
以心伝心は君たち仲間内にはありうるかもしれないが,わたしと君たちとの間には通じない場合が多いから,必ず言葉で,文章で応え説明をしてくださいと。)
私が授業を受けた感想は,
常に頭を使い考える,受け身でない授業であることだ。
先生から,次々に質問が投げかけられ,生徒たちはその質問に応えようと(一つでない答え)どうにかして言葉を紡いでいたように思う。
教材の原書は,Die Grallen und gruren Felder(ドイツ語)で,日本語のタイトルと全く同じであった。
物語は,言語技術を身につけさせる上で,
とても良い教材となりうると三森さんは述べた。
言語技術とはどういうものかを言えば,
「自分たちで読んでいく方法」「行間に何が書かれているかを読む」ということを学ぶとともに,批判的・分析的に読んだり表現したりすることであるようだ。
三森さんが,日本人に言語技術の有用性を主張されるのは,ご自身の生い立ちに起因する。
ジャーナリストのお父さまのお仕事の関係で,中学校から高校までほど6年間ドイツに住まれていた。ドイツではインターナショナルスクールに在籍し,教育を受けていたらしい。
そこでの母語教育(国語教育)の日本との違いにとても驚き苦労したとおっしゃっていた。
高校3年で日本に帰り,
東京の私立の進学校である学校に編入して,
授業を全く受けていないのに,最初の定期考査の国語のテストでクラス一番になったということだ。
三森さんが編入した高校は,名門高校だったらしく,
そこで授業も受けていないのに国語の点数が高得点採れたということは,
その時の高校の国語の授業が,テストにはあまり関係ないものであったのではないかと,はっきりとはおっしゃらなかったけれども,そういう意味を含ませて述べられていた。
その後,現役で推薦で上智大学のドイツ語学科に合格し,そこで学ばれるのだが,結局,上智も受験勉強があまり必要なかったということではないだろうか?(これは私で余談)
どの言語であれ,特に欧米の国の外国語が多少堪能であれば,合格できる有名大学が,日本には多数存在するということではないだろうか?(これも余談)
そのドイツと帰国後の日本での学校教育,お受験のご経験から,1984年に東京で個人教室を始められ,1990年からはつくば言語技術教室(茨城県つくば市)でドイツの作文技術教育を参考に日本人対象の言語技術教室を始められた。
文章を分析し議論して弁証法など方法論を学ぶことは,ドイツではすべての教科でなされていて,ドイツだけでなく,同じように多くの国が言語技術を子供たちに身につけさせているということだ。
批判的に分析的にできないと,将来の仕事の成功・不成功にかかわるということが,国際社会では通念となっているが,日本だけが違うと言われていた。
言語技術とはグローバルスタンダードの言語教育で,修辞学(レトリック)などは北米・南米・オセアニア・アジア(日本を除くインド・パキスタン・マレーシア・シンガポール)・中近東・アフリカ諸国で行われている。
スペインではドンキホーテ,
ドイツではゲーテやシラーといったように,
その国の代表作家および作品を,必ず学校で長い時間をかけて学ぶ。
頭をどうにかして使いながら,言葉を操る。
文学をとても大事にする。言語技術の進んだ国は,文学を大事であるとする傾向にある。
文学こそ大事であるとする感覚が大事。
現在多くの日本人が海外に行って仕事をしているが,
日本人のビジネスマンの多くが,海外のパーティでは仕事以外の話ができないとの悪評がある。旧制中学時代(75歳以上でしょうか?)の日本人が海外で仕事をしたときは,とても評判が良かったらしい。
中学・高校では,ものを考える人をつくることが大切だと先生はいわれた。
このような持論をいうと,
一番反発するのが,国語の先生であるそうだ。
どの国でも一番重要なのが国語の先生であり,
一番優秀で,子供達から尊敬を受けるのも,国語の先生であると言われた。(ぶっちゃけ,三森先生のことを,現場を知らないくせに上から目線で気分悪いと述べていた国語の先生がいた模様です。海外の大学で学んだ経験のある私は,先生の言うことがスッと入ってきて,共感する部分が多かったのですが・・・。)
日本はと言えば,
子供達に一番尊敬され,慕われているのは,
「体育」なのではないかと言われた。(厳密に言えば,部活動の顧問なのでしょうが)
体を鍛え,競技するスポーツの技術が上がり,
大会で良い成績を収めることができるのであれば,
目に見えて現れる進歩の姿に,誰もが評価するでしょう。
しかし,言語などその他の教科に関して,
つまり頭の中の技術の進歩は,
目に見えないからゆえに評価され辛い。(ここは私見)
目に見えない部分が大事と言いながら,実際子供たちが目に見える部分に心を奪われている間,それを否定できない大人,一緒になって持ち上げてしまう大人がいるのも否めない。(ここも私見)
最後に,
先生が言われたわたくしの印象的な言葉を書き留める,
母語が大事。
自分の答えをきちんと述べる人が大事。
「分からない」ということを放置しない。
何がどうわからないかをきちんと述べられるようにする。
知性と教養を育てる言語技術。
(日本語できちんとした言語技術を学ばないでおいて)小学校英語反対!
(母語ですらまともに話せていない人に,外国語を強いるようなことをしても知的成熟,言語技術の向上はないとのことではないでしょうか?これも私見)
私とあなたの意見は違う。しかしその理由を明確にすること。
生徒がきちんと文章でものが言えるようにする。