いったい子供たちの心はどうなってしまったのか?
これまで,ことさら問うこともなく,当たり前のように感じ,認め,分かっていたつもりの子供たちの心が分からなくなってきている。
「いじめ」「引きこもり」「キレる」「虐待」「親・子・人・自分殺し」などなど,筆舌に尽くしがたい異常な出来事が日常化している現象をどうとらえればよいのか。子供たちを前にして大人たちは言いようのない不安の中で立ちすくんでいる。
そして,この不安は,
「本当に子供は変わってしまったのか?」「そもそも心は本来どう作られるのか?」といった問いへとつながっていく。
ところで,「こころ」は昔から「大器晩成」とか「器の広い人」といったように,よく「器」に例えられるが,それはそれなりの訳があるように思われる。
一つは,土台から人の手で積み上げられながら作られていくことである。もう一つは,その形や在り様は,素材の質と作り手の考えや思い,双方を取り巻く環境に大きく影響されるということである。
このような視点で,「こころ」を見立てると,次のように表現できよう。その人なりの「こころ」という器(人格)は,母親という人の中から気質とともに生まれ出てきた時から,多くの人とのかかわりあいの中で,成人(人と成る)と呼ばれる時期までにおおよそ作られていくといえる。
では,具体的に「こころ」の器とはどのようなものなのか。これまで多くの心理学の研究で明らかにされたことを踏まえながら,器の土台から順に見てゆくことにする。
① 器の土台『基本的信頼感覚』(誕生からヨチヨチ歩きのころまで)
赤ちゃんに最初から与えられている求める力(泣く)と,お母さんの(授乳)という自然で素朴な幾度も繰り返される行為で作られる感覚である。
しかも,生きていく上で最も大切な「この世は,辛く苦しくても,助けを求めれば生きてゆけるし何とかなる」という身体全体で味わい身に付けていく感覚である。この感覚があるから人は「とりあえず大丈夫」と思いながら人との間で日々生きていけるのである。
さらに,この時期には,自分にとって大切で特別な人を心に宿していくという力も身に付け始める。当然ながら,その最初の人とは土台を作ってくれた人なのである。人見知りは,悪いことではなく,むしろ特別な人を宿し始めた成長の証といえる。
こころの器の土台は,特別なことをするわけではなく,身体を抱えられながら生をつむいでいく何気ない日常の営みの中でできるのである。この日常がそがれた劣悪な中では人は,人も信じれない「不信感」という感覚でできた穴の開いたもろい器を作ることになる。