7人の人妻に恋をして…このミニ小説は現在版(私が主役)と歴史秘話版を交互に掲載しています。今回は書き下ろしの「石川五右衛門」「桂小五郎」「空海(弘法大師)」の3話どす。。。


★~⑬…石川五右衛門り罪名は不義密通


 石川五右衛門といえば天下の大泥棒として有名だが、では何を盗んだかは定かではない。そして処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」と辞世の句を残したその中の「世に盗人」を泥棒と勘違いされているのです。これは当時の犯罪では10両盗めば首が飛ぶと同じくらいに罪が重たかった「不義密通」も罰金10両で払えなかったら首が飛ぶという人妻泥棒だったのです。つまり、「世に人妻の種は尽くまじ」が本当です。

 この五右衛門は豊臣秀吉が建立した方広寺の大仏の門前で「石川屋・大仏餅」という餅屋を営んでいた。この大仏は奈良の大仏より大きく、また日本一の梵鐘(国宝・国家安康」もありました。店の前の街道は伏見街道で京から伏見港、そして三十石船で大阪へのメイン道路で賑わい「大仏餅」は伊勢の名物「赤福餅」よりも有名でした。つまり、大金持ちなのに泥棒なんてものはしません。

 店は伏見街道正面上がるにあり、この正面とは大仏の正面になることから名づけられている。番頭、手代、職人、丁稚、女中などの50名の大所帯が住める店舗兼屋敷で裏には鴨川があり、ここから餅米や小豆を高瀬舟で運んでいた。五右衛門は丁稚から20年以上勤めた職人には「のれんわけ」をしている。いまでいうチェン店のようなもので京都市内にはもう6軒の大仏餅○○店があり、どれも繁盛していた。

 そして7軒目の「のれんわけ」の決まった職人には店を与えていたが、まだ職人も丁稚も雇える身分ではなく嫁をもらって二人で店をきりもりする仕組みになっていた。そしてその夫婦の仲人は五右衛門だったが、ある娘が妻となったその瞬間にその妻がほしくなるという五右衛門の性癖というか、もって生まれた病気だった。妻にすれば結婚と同時に店の開店と環境の変化に身も心も疲れ果てるのは先の6軒の新妻も同じ…五右衛門はそれを見越して毎日のように店に現れ何かと世話をしていたから妻と五右衛門が仲良くなるのはそう時間もかからなかった。

 ところが7軒目の店長でもある伊之助はこれまた「やきもち」で妻と五右衛門の仲を疑い監視していたら、案の定五右衛門から本店に行くように命じられたその日に妻との密会の現場を見つけてしまった。頭にきた伊之助はそのまま北町奉行所に駆け込んでいた。その日の内に任意で五右衛門は取り調べられていたが、五右衛門は自慢のごとく7名との不義密通をあっさり認めていた。

 五右衛門にすれば不義密通の相場は10両ですから70両だせば釈放されると信じていた。しかし、奉行所の判例では不義密通一件につき10両は数多いが、7件の判例はないから下手な判例を出せない。しかも瓦版がこの不義密通を大きく報じているから奉行所も罰金では収まらないと死罪を宣告した。

 処刑の場所はこれまた皮肉にも五右衛門の屋敷のすぐ裏の六条河原で店から小豆を煮る、大釜を持ち出し、ここに五右衛門を入れて釜茹でにしたのです。そして、辞世の句に、

「石川屋 釜の小豆は 尽くるとも 世に人妻の 種は尽くまじ」


★~⑪…桂小五郎は7日7晩で人妻7名を妊娠させた


 勤皇の志士の桂小五郎というのは「逃げの小五郎」とか「人妻殺しの小五郎」と京雀の間では有名な噂になっていました。桂といえば芸妓の「幾松」との愛が歴史的には有名だが、その小五郎が幕府や新撰組から追われて丹波の出石まで逃げたときのことです。

 京から山陰街道(国道9号線)を北へ、最初に匿ってもらったのが亀岡の庄屋の屋敷だったが、庄屋は勤皇の志士の大幹部を酒でもてなし村の若い娘を接待係りにしていた。が、小五郎はそれを丁重に断ったが、庄屋はその娘の好みが合わないのかと次から次へと娘を部屋に差し入れてきた。それでも断るというからもしや「男色」かとおそるおそるたずねたら、小五郎は、
「いゃ~実はわしは人妻が好みで…」

 それを聞いた庄屋は村中の人妻を頭の中で考えて比較的若い百姓の妻を小五郎に差し出すと小五郎は喜んで一夜をその人妻と楽しんでいた。そして庄屋は次の隠れ家に予定されている園部の商家に使いをだして小五郎の人妻好みを伝えていた。その園部では酒の席から選抜された人妻が小五郎にお酌をしていたから小五郎は上機嫌で「明治政府が出来たらこの園部の村は年貢を免除する」という書状を庄屋に渡していた。

 そして次の隠れ家も次の隠れ家も連日若い人妻の接待でようやく8日目で目的の出石に着いていた。その間に7人の人妻との愛だが、もっとすごいのが、その人妻とのたった一度のHですべて妊娠したという。それもすべて男の子であるというが、これはその村の庄屋の大作戦で真実はわからない。

 そして明治政府になって桂小五郎は政府の高級官僚になった。その後7つの村の年貢は約束通り免除になった上に桂小五郎の子供とされた7人の男子は明治政府のエリート官僚に就職したというめでたいお話でした。ちなみに明治政府では小五郎は「木戸 孝允」だが、それより前にはHNを10種以上変えているという、私もペンネームをしばし変えて、さらに人妻が好きということで桂小五郎の血を引いていると思っています。


★~⑥…空海(弘法大師)のラブホテルは羅城門


 平安京の入り口には羅城門があり、その両脇に国寺の東寺と西寺が同じ規模同じ五重の塔で競い合っていた。羅城門の外は洛外で畑や田んぼばかりの農村地帯が広がっていた。その村は唐橋村といって主に九条葱を栽培していた。葱の農家ははそれぞれ屋号を持ちその屋号の「葱伊」の一人娘に志津がいた。

 その志津に東寺の管主の空海(弘法)と西寺の管主の守敏(しゅびん)が一目惚れをしてしまったから、元々犬猿の仲だったこの2人は負けるものかとあらゆる手を使って取り合いになった。志津の父親の伊助は西寺に野菜や米を納入している関係で志津の相手は守敏に決めた。

 一方の恋に破れた空海はそれでも志津のことをあきらめなかったばかりか人妻となった志津の色気に前よりさらに好きになっていた。志津を嫁にした守敏は1年ほどは志津を可愛がっていたが、これも根からのケチでやきもちなのか志津の買い物や外出を厳しく監視していた。この守敏は酒癖も悪く、酔えば妻に暴力もふるっていた。これは現在にも通じる話で「釣った魚に餌はいらない」と思っていたのだろう。

 空海はそれを見透かしたかのように連日のごとく愛の文(ラブレター)を弟子に持たせて志津に手渡していた。そしてある夜、羅城門で密会の約束までしてしまった。羅城門というのは一ヶ月ごとに東寺と西寺が門番を置き交代で管理していた。門の2階は二十畳ぐらいの部屋になっているから、ここに寝具や行灯まで持ち込み本格的なラブホテルにもなっていた。

 しかし、これも守敏に知られることになり怒った守敏は羅城門に駆け上がり弓で空海を狙って矢を放ったが、矢は空海を庇おうとした志津の首に刺さってしまい志津はそのまま死んでしまった。この志津の死は不義密通とされ葬儀もだされず門外の横に穴を掘られて土に埋められてしまった。

 それを聞いた村民はこの地に地蔵を祀り、小さいながらも祠も建てられている。その地蔵の首には矢のあとが残っているということからこの地蔵を「矢負地蔵」とも「矢取地蔵」ともいう。この祠は今も羅城門址の片隅にあります。



 妻を寝取られ、妻を殺した守敏は都人から笑われ、妻殺しといわれてからは何をしても上手くいかず西寺は廃墟になってしまった。一方の空海は21日の月命日には老若男女が訪れていた。その西寺の現在は巨大の金堂の礎石だけが残っています。歴史を問わず、妻を大事にしなければ妻は空海や私のようなオトコに取られるというありがたいお話でした。ちなみにこの小説は史実には基づかないものどす。。。これに近い真実はここに書いています。↓


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画像①は、羅城門の横にある「矢取地蔵」…②は、今も栄える東寺…③は、妻を寝取られた守敏の西寺址…④は、この小説を書いている音川伊奈利


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