両親が怒り見下し相手にしない存在だとしても、しかし哀れに思う。 | クソイナカ…周囲はほとんど既知害ばかり

両親が怒り見下し相手にしない存在だとしても、しかし哀れに思う。

クソイナカ原住民を憎み続けているのは、あいつらは生まれつき恵まれていて、縁故で公務員になったり農協に勤めたりしてるから。また仲間内に入ってしまえば、どんなに世間並みに見てみっともない存在だとしても、かばってもらえるというので、ぬくぬくとみっともなく生き続けているから。もしかしたら生涯苦労しない生き方、というものかもしれない。だから私たち家族を見下していた、という部分もあったのかもしれない。生まれついての優越感、というのはどうも嫌だ。でもあいつらに勝ってるなーとかあったりして、でもそれが連中にとっては気に入らないのかも。


よくわからんな。


親戚一同は生まれの時点で恵まれてなかったり。長男でなかったり、また何より産業がない地域の生まれだから、高校を出たらすぐに仕事に就くために都会に出なければならなかった。こういうのって結構つらいだろうなー。都会に出たら、自分の不遇がすぐにわかってしまう。周囲みんな同じような状況なのだけど、でも同じ人間なのに、うまれついて恵まれている人間がいて、そいつらみたいな幸せな人生は、頑張っても得られない、とうっすらと気づくのでは?ここで「仕方ない、身の程に応じた幸せというのを求めて」と納得できるならいい。でもかつてワタシがクソイナカ原住民に抱いた妬みのような感情を、あの人たちも抱いていたとしたら?

という心の隙?あきらめだったり、生まれて初めて与えられた優越感だったり、こういうのでS価G会が、不幸かもしれない人間を吸い寄せたのではないか?

あの人たちと付き合いはあまりなかった。というか両親が付き合うな、といっていた。正直言うとあの人たちと関わりたくない。でもなぜかキーキーと罵れない。クソイナカのあいつらは罵倒できるだろうけど。

あの人たちには、S価しかないんだよな。だからもしもワタシが否定したとしたら、やっぱりあの人たちの小さな幸せをワタシが蹂躙しちまうんだよな、って。

S価しかない人生、って確かにあるんだよなあ。


誰でも幸せの量は等しいなんてウソだ。でもあまり恵まれた家庭に生まれたわけではないワタシは、今現在結構幸せだよなー、というような人生だ。他人より幸せの量は多いのかもしれない、というような。

でもやっぱりあの人たちって幸せの量が少ないような気がする。へんなこと書いちゃったね。

罪滅ぼしみたいに募金しちゃってる。あと他人から幸せだ、って思われるようなことが怖くて、後ろめたくてできない。だからちょっとショボイ次元でいいか、って。ダンナもいろいろあったつうしなあ。周囲が不幸な人が多くて、でも結構恵まれてる、ってのはきついらしいねえ。いや世間並みに見れば中の下くらいだとしても、不幸な人に囲まれていた期間の感覚にこだわるっていうか。

ものごとにがっつけないんだよね、結局。あとある一定以上の幸せを求めてなくて、それを突破しそうになるとすぐ逃げる。小さい時分に、いい服着せられそうになったとき、すごく後ろめたかった。いや七五三だけどねw

これを一生引きずっていきてくんだよな。