たけだのブログ

たけだのブログ

からだの一部が考えていることが、
ぷつぷつ浮き出てきたときに、
すくいあげて、かろうじて形になったものたち。

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人を観察することと、
人の気持ちを想像することと、
思いやりを持つことの間には、
それぞれ全く色の違う壁のようなものがあると思っています。

私はずっと「人を観察すること」が好きで、もうこれは趣味の範囲だったので、
わりと得意になりました。

続けるうちに、自分のなかになんとなく「人の型」みたいなものができてきて、
「こういう人はこういうのが好きだろうな」とか
「この人はこう見えて、案外あつい人だろうな」とか
なんとなく、人の気持ちを想像できるようになりました。

きっと今まで出会ってきたいろんな人の「型」が
ぽたぽたとどこかに溜まっていって、
それをある程度整理できるようになったのかなあと思います。

ただ、
そこから「思いやりを持つこと」っていうのがすごく難しい。
ここにきて初めて、自分が歩み寄る必要があるからです。

ただこちらからじっと、眺めているだけではいけない。
眺めて溜まった水たまりを、好きなように仕分けするだけでもいけない。
あぐらをかいたり、寝転んだりするのではなく、
きちんとした格好をして、きちんとした姿勢で、
向き合う必要があるからだと思います。

それにしても、
小学生のころからずっと聞かされてきた「思いやりをもちましょう」というのは、
どうしてこんなに難しいでしょうかね。

今ここでこうしたらそれが結果として「思いやりをもつ」ことになるのだろう、とは分かっていても
それが上手にできない。
それなりに私なりに様々な思いはあるのですが、
相手を思っていることが、上手に伝えられない。
私が思っているかたちが正しいか分からない。
分からないから、怖い。


それってなんでだろう、と考えてみて、
このタイトルになりました。


ブリーチされた髪の毛ってどんな気持ちなんでしょうか。

もとの自分が殻だけ残したまま、中身がごっそり抜き去られるんです。
それで知らない人が代わりに入ってくる。
そりゃあもう、びっくりすると思います。

私が髪の毛だったらすごくいやです。
ほとんど変わっていて、でも形式としては「私」を保ったものが、
まわりから「いいねー」なんて言われたら、
どうしたらいいかわからないような、はがゆい無力な気持ちになると思います。
痛むし傷つくし、荒れるのも分かる。

髪の毛に気持ちはない(私はそうは思わないけれど)とされるけれど、
結構リアルに想像できるような気もします。

私は髪の毛ではないけれど、髪の毛ではないからこそ
リアルに想像できることもあるんじゃないでしょうか。

自分と違うものだからこそ、客観的に見られることも増えるし、
思いやりの方法も、客観的に判断できる気がします。

でも、これが人だと難しい。
人間が自分も人間のまま、おんなじ人間の気持ちを考えることだからです。
「わたし」を徹底的に排除するのは人間を排除してしまうことにもなってしまうし、
とたんに色んなものの境界がぼんやりしてしまう気がします。

おんなじだから、むずかしくなっちゃうことって
他にも結構あるんだろうなあと思います。


酔っぱらった頭で考えている文章なので、
ちょっと話がつながっていないかもしれませんが、
またもうちょっと固まったら、
続きを書きたいとおもいます。


人が喜ぶ一歩先を歩くって
むずかしいなあ。

嫉妬。

最近この感情によくぶつかることが多いのか、なんとなく日々の輪郭がぼやけています。

TwitterやFacebook、本やテレビを見ては、私もああなりたいと思います。

溢れかえるメディアは、私にとってひとつの大きな「嫉妬の起爆剤」だったりします。


具体的にどんなことに嫉妬しているのかというと、それはすごく小さなことで、



こういう文章書きたい、だとか
そんな人と繋がれていいな、だとか
コメント数が多くて羨ましい、だとか
なんとなく愛されキャラだな、だとか


だとか だとか だとか。


嫉妬という感情って、言葉通りすごく女女しいですよね。

女っぽいとか男っぽいとかについては、色んな考え方があるからむずかしいけれど、

私はからりと肯定的に嫉妬のメメしさを受け止めています。

普段はさばさばしているね、と言われる自分にも、こういうところがあるんだなあとなんだか安心できる感情でもあります。

(そういえば、嫉妬とshitの関係ってなんだかおもしろいよね。)




嫉妬の後ろ側にはたぶん、不安が体育座りでもしてるんだろうと思っていて、そちら側にぐるりと回って向かい合ってみると色んなことが見えてきます。


私は、人の才能とか雰囲気とか、持っているものとかに嫉妬することが多いのですが、それは同時にすごく尊敬している部分でもあります。

嫌いな人に会いたいし話したい。
苦手な人ほど気になります。
バカにしたいと思う人ほど、どこかで尊敬しています。


前までは、そういう複雑な感情を持て余して、余計に身動きがとれなくなってしまっていました。


でもそのままでいるのもマズイなぁと思い、このごろは複雑な感情ほど素直に受け止めるようにしています。

嫉妬とか怒りとかいわゆるマイナスの感情って、こんがらがった糸のかたまりみたいなものだと思っていて、ちゃんとした手順で解こうとすれば、案外するするいったりします。


ただそれに必要なのは、ほどいてやるぞ、という覚悟と、途中で面倒になってハサミを使って誤魔化してしまわないようにする落ち着きだと思います。


嫉妬の感情をほどく手順。



まず、嫉妬していることを認める。


誰の、どんなところに、嫉妬しているのか考える。


どうして、嫉妬しているのか考える。


じゃあ、あんたはどうしたいのよ?と自分に聞いてみる。


えっと…と自分なりの答えを出す。


ここら辺で一度、感情をむき出しにしてみる。


で、どうしたいんだっけ?ともう一回聞いてみる。


今度は深呼吸してから答える。


なんとなくすっきりする。


すっきりすることに驚く。


ほおおぉ、とひとしきり感動する。感動はちゃんと声に出す。


覚えておくために、見えるかたちにする。






今のところは、こうやって向かい合っています。




みなさんは、どうしてますか?


だれかに嫉妬してますか?
今日の、今日のダーリンを読んで思ったことを、書いておきます。

記事へはこちらから
(2がつ7にちの、今日のダーリン)
http://www.1101.com/home.html



すごく素敵だと思ったので、はじめて糸井さんに感想を送ってみました。


感想送るのって、実はけっこうどきどきするものなんですね。

せっかくなら、文字で書きたいと思いました。

えんぴつ持って、右手を動かしたいと思いました。


きっと心から伝えたいと思ったら、人はいちばんシンプルなものに還るのかなあ、とか思いました。



恥ずかしいけど、送った感想をそのまんまのっけておきます。






こんばんは。糸井さん。



今日の今日のダーリンは、ほんとにそうだ、と思いました。

わたしはあまのじゃくなので、「~しようよ」と言われると「嫌だ。」と思ってしまいます。

そんなこと思わせないうちに、素敵な気分にしてくれるものが素敵だと思います。

そして、そういうものが、いちばんつくるのが難しいんだろうなあ、とも思います。

自然に任せるか、
反対にものすごく考えるか、
中途半端じゃ生まれないんだろうなあって、思います。

話はちょっと変わりますが、
昨日、中古のブランドもののお店でスキップしているおばさんに会いました。

大事そうに買ったバックを抱えていました。

わたしのなかでも、嬉しい気持ちがじんじんしていました。



そのまんま、思いっきり嬉しがるのも、嬉しくさせるんだなあと、思いました。



たけだ さとみ
今日は、目をつぶる方の夢のはなしをします。

年に1回とか、限られた回数で、みる夢があります。
それは毎回同じ内容で、夢の中でぼんやり「ああ、これ前もみたなあ。」と思います。

今よりもずいぶん幼いころに見ていたけれど、今はめっきり見なくなってしまった夢があります。



小学生のころ、1年に1回見ていた夢。

上下左右、どこまであるのか分からないクリーム色の世界で、カーテンのようなものがふわふわとゆれている中を、私は地に足つけずにすすすと進んでいます。

進むというか、じょじょに上っていく、というかそんな感覚に近いのだけど。

雰囲気はきれいなのだけど、私が進む道の左右には、ディズニーで出てくる7人のこびとが
何かものすごい音を出して鉄をたたいていて、

カーン
カーン
カーン

という不快な、心臓をえぐるような音が鳴り響いている。

そのまままっすぐ進むと、カーテンがひらひらしている先に誰か女の人がいることに気がつく。


顔はもやがかっていてよく分からないんだけど、たぶんきっとものすごく美人で、

私は心のどっかで「あ、女神様だ。」て思うんです。ごく自然に。



畏怖とかそういう感情とどれくらい近いかわからないけれど、それはそれはものすごく怖くて、
わあ会えて嬉しい!とかいう気持ちは全くない。


そう思っているうちに、その世界は私の足元からひびが入り、
今度はどこもかしこも真っ暗な世界を落ちていきます。


ひゅーーーっとすごい速さで落ちていくうちに、遠くに赤い屋根の小さい家が見えて、



それで目を覚ます。


汗びっしょりで。
なぜだか泣いていて。


あの夢だけは、他の夢と何かが徹底的に違っていた。
いやにリアルで、なんだか大事なことを忘れてきているような変な焦燥感があり。


私のからだはいつもどおりで、時計とか、布団とか、ふだん見ているものもいつもどおりで、
だけどどこかでそれは嘘なんじゃないかと疑わずにはいられない現実との違和感。


あれはなんだったんでしょうね。


いつしか見ないうちに忘れていました。



今日見た夢もそれに近かった。

たぶん前にも2、3回見たことがあって、それの続きでした。


私は殺人だかなんだかの罪に問われている逃亡者で、これを書いているうちにどんどん記憶も薄れていっているのだけど、ずっと追いかけてくる人たちから逃げていた。


追われる、逃げる、という夢はわりとよく見るほうなんだけど、
今日の夢はなんていうか本当にリアルで。

ここで捕まってしまったら、コピーライターになりたいっていう夢も終わっちゃうんだな。とか
はやく時効になりますように、とか
そもそも何の罪を犯したんだっけ…とか

考えることも、行動も、おこることもすごくリアルで。

追いかける側の親玉が追い詰めている間、ばれないようにじっと座っているときの

じっと見つめていたひざだけが、くっきり残っていて。



ああいうの見ちゃうと、どっかにそうやって生きている自分がいるんではないかと思ってしまう。
何かがおかしいって思うのが、夢じゃなくて起き上がってからの現実でも感じたりする。


案外現実にもいろんなもやがかかっていて、
見えないようにされているんじゃないだろうか。とか

思ってしまうわけです。





向田邦子の「あ•うん」を読んでいる。

絶対好きな作家さんだろうと思いつつ、今まで手を出してこなかった。

なんだかまだ時期じゃないような感じがしていて、昨日本屋で「買おう。」と思ったとき、心の何処かでやっと時期が来たかーと思った。

それでいくと、まだ時期がきていない作家さんは他にも何人かいる。

早く読める日が来ないかなあ。

いせひでこさんの絵本を読める日が早くきて欲しい。



表紙を持ったときに、絶対当たりだ。てわかるあの感覚はなんなのでしょう。


たまにしか起らないけど、無性にわくわくするよね。



大宮エリーさんの個展に行こう。