最近「自分の人生は自由」という声や、
「何もしたくない」という声の、
両極を耳にする。

しかしそうした考えには共通して、
個人中心となる考えを感じる。

仮に自分で買った腕時計を、
「自分で買ったので、
捨てるのも自由」としても、
違和感があるぐらいなので、
「自分の人生は自由」と聞くと、
更に違和感を感じる。

それは社会人という意味だけでなく、
「自分」はモノと違い、
「自分」で選んで手にしたものでもなく、
「自分」という認識は生まれた後に、
数年たって初めて、
存在を認識する後天的なものであるから、
先に「自分」を認識する前に、
過去の流れから生まれた事実がある。

ゆえに「自分」は、
世から授かった存在で、
その命は、仮に殺人をしようとも、
日々意味を残し続け、
どう生きるかに関係なく、
過去の流れから、意味を問われている。

ゆえに、答える答えないに関わらず、
確実に意味を残す存在だ。

そして、より大いなる意味は、
常に見つけて貰うのを待つかのように、
あらゆる場所に存在し、
そして私欲ではなく、
人に与える幸せでしか、
より充実した意味を、
見いだせないのだろうと思う。