Ψ レモンは「爆弾」
宿題の読書感想文で困ってる人、いませんか。
素材を自分で選んでいいという場合は、、
梶井基次郎の「檸檬」(1925)なんかどうでしょう。
短いですよ~。
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意外に思われるかもしれませんが、これ、
三島由紀夫の『金閣寺』(1956)
(これについては
・「三島由紀夫の名作『金閣寺』:「猫=虫歯=美」で感想文(8)」を参照)
にもつながるんですね。
というのも、「金閣を焼かねばならぬ」という『金閣寺』のモチーフと、
書店の棚に積み上げた画集の上にレモンを置いた「私」がこう考える
『檸檬』のそれとは、たしかに似ていますし、
三島自身も梶井をたたえるエッセイを書くことで、
それを認めるかたちになっています。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、
もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として
大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。
「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう」
「悪い」んですよ、この人も。
『金閣寺』の「私」が「悪い」のと同じような意味で。
ただ『金閣寺』との違いは、爆破はあくまで空想で
実行したわけではないこと。
それどころか、丸善にレモンを置いたまま立ち去るんですから、
これはいわば<逆・万引き>。
一種の寄付ともいえますね。
おかげで、その後、京都丸善には
レモンを置いていく人が絶えなかったそうで……
「まんだらけ」さんもこういうお客にこそ来てほしいでしょうね……^^;
Ψ 「奇怪な悪漢」の私
というわけで、梶井基次郎さん自身はいい人なんでしょうけど、
『檸檬』という作品のモチーフには「悪」の要素がからんでいる。
ここに目をつけることが、
感想文への糸口の一つにはなるでしょうね。
そもそも作品の書き出しは、
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた」というので、
心身の健康を崩している「私」は、
肺尖(はいせん)カタルや神経衰弱がいけないのではない。
また背を焼くような借金などがいけないのではない。
いけないのはその不吉な塊だ。
以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、
どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。
という状態。
「不吉な塊」がキーワードになってますね。
「不吉」という言葉の背後には、
何をやらかすかわからないという危うさ、不穏さが漂うようでもあります。
このアブナイ青年が京都の街を歩くうちに目にとまる
さまざまなものが色彩鮮やかに描かれてゆき、
ついに出会うのが八百屋の店先に置かれていたレモン、ということになります。
もともと好きであった「私」は、
それを一つだけ買うことにします。
そして長い間街を歩いていると、
始終私の心を圧えつけていた不吉な塊が
それを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、
私は街の上で非常に幸福であった。
あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる……
それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
これはもうたいへんな、レモンの効用ですね。
「絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、
それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好(かっこう)も」
「不吉な塊」を霧散させてしまうほどのパワーがあった。
だからこそ、「爆弾」ともなりえたのでしょう。
Ψ 「感想」より「反省」を書く
さてここで、おさらいをしておきますと……
学校で評価される感想文は
作品を読んでの「感想」というよりは、
「自分の生活を反省する」作文なんですよね。でしたね。
ですから、登場人物の行動について、
「自分にはこんなことはできない」のではないかとか、
あるいは性格的に「自分にはこんなところはないか」
と反省し、
その上で、「これからは自分もこうしよう」という
前向きの決意表明にもっていく……
というのがベストです。
これを『檸檬』にあてはめると、どうでしょう。
主人公の行動について道徳的な善悪を考えるのもアリですが、
ちょっと苦しいかな?
では、ほかにどんな方法があるか。
一つは、レモンのもった効力について「自分なら……」を考え、
「これからは自分も……」というところへ
もっていくこと。
もう一つは、「自分なら……」は棚上げして、
描写されてゆく雑多な事物や風景の絵画的な華麗さ、
あるいは病的さについて、スゴイと思ったところを書いてゆく……
というのも一法かな。
まずはしっかり読み込んで、
自分に食い入ってくるポイントを見つけましょう。
なにしろ短いんですから。