久坂葉子という作家を私は知らなかった。
19歳で芥川賞候補になった稀有な才能の人だということを知ったのは、つい2ヶ月前のことだ。
YouTubeで何の朗読をしようか書物を探していたときに、ふと目にしたのが
久坂葉子の『女』という作品だった。
映像美が文章から分かる作家というのは、そう多くないと私は思っているが、この作品で最初から、その映像美を感じてしまった。
そして私は、久坂葉子を知りたくなった。彼女の作品には、フィクションである中にも、彼女自身が赤裸々に 投入されている。『女』の次に『愛撫』、『入梅』を読み、益々彼女の文章に魅了された。




久坂葉子は奔放な恋愛による自殺未遂を繰り返したと言われているようだが、おそらくは、ただ純真に【光】を見ていたかっただけなのではないだろうか。
人生の、生活の糧になる一番の光、
久坂葉子にとって、きっとそれは恋愛そのものであったのだ。
それしか自分を活かせなかったのかもしれない。そんな不器用が彼女の個性ではなかったか。
家族や仕事で何があっても、恋愛が
彼女の唯一の救いであり、光を見失う度に、自分ではどうしようもない絶望に、毎回後ろから突き飛ばされていたのだ。、と私は感じている。



『幾度目かの最期』と題した手紙を
久坂葉子は書き上げると、大晦日に
とうとう自殺を成功させてしまった。
21歳という未熟な年齢ゆえの大胆な残酷行動であったのかもしれない。
その手紙によると、30日に届くよう恋人に速達を出している。恋人からの
返事を待ったが、期待は虚しかった。



ここからは、私の推測に過ぎない。
31日、もう駄目だとは思いながら、
彼女は恋人の姿を探したのではないだろうか。もしかしたら、来てくれているのではないかと、、。神様は、彼に逢える最後のチャンスをくれるのではないだろうかと。飛び降りる前のホームで…。
いよいよ、来ないと思った瞬間に、
悲劇的にも電車がやってきてしまったのではないだろうかと、、。
私は、その瞬間の彼女を思わずにはいられないのだ。
そして、実は、その恋人は、
決して彼女に冷めてなどいなかったと
私は思っている。
激しい自由な感情を彼に向かわせ過ぎて、彼は翻弄され疲れていただけではなかったかと。彼女の求愛を
またか、、と思って、ちょっとした
お仕置きのようなつもりで、無視した
だけではなかったか、、。



もし、私の推測が合っていたならば、やりきれない。久坂葉子が自ら亡くなった時の彼の気持ちは、なんという残酷であろうと。
そして久坂葉子も、本当は彼に愛されていた事実を知ったならば、
自らが選んだ死は、悔やんでも悔やみきれないであろうと。

《幾度目かの最期 あらすじ》
19歳で芥川賞候補となり天才的な才能に溢れながら、その3年後の大晦日、この作品を書き上げて列車に身を投げ他界した久坂葉子の遺書とも言える最後の作品です。

繰り返す悲恋と恋愛への強い拘り、名門一家の家族であることの重圧、自身の才能への憂い、様々な葛藤と苦悶を抱えながら生への光を見出すことに必死だったであろう21歳の美しき久坂葉子を感じながら、どうぞお聴きくださいませ。