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生理前症候群のせいだ。
どすこい級のイライラがやってきて、まるで吹き矢のように、毒を盛った言葉をあちこちに吐いてしまった。そうやって、楽しい筈の結婚記念日を台無しにした日曜日。夫と息子は恐れをなして、いや、呆れてさっさと先に寝てしまった。
何だかぽつんとしてしまったので、一緒に開けようと買っておいたシャンパンの栓を抜いた。こうやって片肘付いて一人で飲む羽目になるなんて、なんてつまらない事だと思ったけど、うまく管理できない日もある。
結婚した当初、実家の母から「主婦は、家庭の太陽なのよ」と教えられた。太陽が雲に隠れれば、家庭も曇る。その言葉をいつも忘れずに、家族を照らしているつもりだ。だって、それが私の存在価値。
だから上手に振舞えなかった日は、自分を無価値な人間に貶めてしまった嫌悪感と、それからある種の敗北感を抱える事になる。
結局シャンパン1本なんて飲み切れず、案の定残してしまった。
私の家庭運営は、こんな事の繰り返しで、今まで家族には許してもらってばかりだ。でも、もしもある時、許されなかったら?想像するとその恐怖は計り知れず、家族を守る事は自分自身を守るという構図が出来上がる。許されないと思われるものには、絶対の距離を置く。それは、無価値で不必要な自分との距離でもある。
翌日の月曜日。鶏のシャンパン煮を作り、それは思いのほか美味しくできた。
プリン を買った。シンプルでデカイ、こいつは私の好物だ。
がっつり200ccの大物で、ひょっとすると、私を喜ばす為に誕生したのかもしれない。見目麗しい、このお姿。(写真はHPよりかっぱらって来た)
ハードボイルドなおじちゃんがこっち見てる。
そして、くらくらするほどの低音で囁くのだ。
「奥さん、オレを食べてみな」
あぁ、もう私は愛の奴隷・・・。
それにしても、と夫が言う。プリンの600円700円は高いと。
何をおっしゃるかと思えばアンタ・・・。私は全然高いと思いませんよ?
だって美味しいもん。いかにも丁寧に作られた味で、プリンに対する愛を感じずにはいられない逸品。
何の臆面も無く「下さい」と言えるわよっ。
それにこのガラスの容器はリターナブルで、持って行くと200円と交換しくれる。
こういう場合って、「交換」って言葉は適当か?まあいいや。
返しに行かなかったとしても、かなり使えるのだよ。
裏に目盛りが振ってあるから、タレを作るには便利だし、スープが1杯分余った時なんかには保存容器として活躍するしね。
まぁ、そういうプリン。
夫に茶碗洗いを頼むと、無茶苦茶なことをする。
洗った順に水切り籠に入れていくのだが、この順番がメチャメチャなのだ。
一番下にはコップが入る。我が家の普段使いは、DURALEXの強化ガラス製なので、まぁ良い。割れたり欠けたりしなければ、まぁ良い。
でも、スタッキングした状態で籠に伏せるのはやめて欲しい。
一生乾きませんから。
この上に茶碗類が乗っかる。これも良い。
別に源衛門だの柿右衛門だの、作家モノだの、古久谷だのを使ってるわけじゃなし。バラしちゃうけど私たち夫婦のは、100均で買った高級品で、割れようが落ち込む事はない。息子のは未だに1歳から使っているミッフィーのだし。
おかずも、普段使いは安価なものばかりなので、万一欠けてもそこは量産品、買い足せばよいだけだ。
でも、たまに益子焼きの重いのが乗るので、これはちょっとヤダ。
さて、これからが問題。この上に漆器の弁当箱が乗る。これが困るのだ。普段は秋田杉のまげわっぱのようなものを使っているのだが、夫が持ち帰りを忘れたときに登場するのが、この漆器の弁当箱。傷つけちゃイカンっつうの。
しかもこんなもんではない。この上に、テフロン加工のフライパンだの、7重構造の重めの鍋やらが乗る。いやいや、重さでは横綱級のル・クルーゼ(26cm直径)が乗っていたりすることもある。
土鍋って時も。
毎回、水切り籠には、絶妙なバランスで山のように食器が積まれる。もう、パズルかよ?みたいな感じ。それでも未だに一つも割ったことが無い不思議。漆器に傷も付けた事ナシ。欠けたりしようものなら、ここぞとばかりに文句を言うつもりなので、逆にちょっと頭にくる。
茶碗洗いを何だと思っているのだ。なに考えてるんだ。まったく、親の顔が見てみたいもんだ。
と言う訳で、家族3人、夫の実家に顔の見に行って参りました。
楽しかったですが、消耗しました。
たぶん、敵も同じと思います。
ええ、私、今、酔ってます。
コパンを肴に呑んでます。
今23時30分だけど、241㌍のコパン・バタートースト味をガツガツ食べてます。
焼酎のロックも4杯目で、フワフワしてます。
アハハハハハ・・・・・
行っちゃうよ!もう勢いで行っちゃうよ!バトンが二つも手元にあるから、この際、勢いで行っちゃうよ?
はい、漢字バトン。がははさんから頂きました。
☆好きな漢字を3つ
・町・馬・鸞
・「町」って書きやすいんですよ。バランス取りやすいって言うか。町山とか町田とか町子とかそんな名前が羨ましいくらい。漢字の持つ意味は、全然どうでもいいです。
・「馬」これぞ表意文字って感じで、いいですねぇ。
・「鸞」日本で使われている漢字の中で画数のもっとも多いものだそうです。書けません、読めません。もう、‘絵’状態。簡体字の網を潜り抜けたサバイバル感たっぷりで、とっても繁体字チック。
☆前の人が答えた漢字の持つイメージ
海 → 夏 (だって、ねぇ・・・そうでしょ?)
夏 → 海( だって、ねぇ・・・そうでしょ?)
風 → 凧 (だって、ねぇ・・・そうでしょ?)
☆次の人に回す漢字3つ
なし
☆大切にしたい漢字
特になし。強いて言えば、名前に使われている漢字。
☆漢字をどう思うか
よく出来た記号
☆好きな四字熟語を3つ
曖昧模糊 (音が好き)
魑魅魍魎 (よくこんなそっくりな字を揃えたなぁって感じ)
吉田栄作 (昔、付き合っていました、脳内で。つーか、四字熟語じゃないし)
☆次に回す3人とその人に合う漢字
もう回せない!イッコ、もう回せない!!
はい次っ!色バトン。部長から頂きました。
★自分の色に例えると
うーんなんだろう?分かんないです。
★自分の動物に例えると
あれ?色バトン・・・。
まぁいいか。
忠犬(人に忠誠を誓うタイプだと思います)
★自分を好きなキャラに例えると
あれ?色バトン・・・。
まぁいいか。
好きなキャラがそもそもあんまり無いので、ご勘弁を。
★自分を食べ物に例えると
あれ?色バトン・・・。
まぁいいか。
卵 (すっごいすっごい鶏卵が好きなんですよ)
墓石を卵型にしてほしいくらいです。
家族は、卵=イッコって思ってると思います。
固い殻を破れば、中からは柔らかく、プリっとした美味しいイッコが・・・とかそんな風に想像してくれても私はかまいません。
★次に回す人
回せない!イッコ、もう回せない!!
酔いもいよいよ回ってきましたので、もう寝ます。
朝、シラフで読み返すと、激しく後悔するんだろうなぁ。
生花は、枯れた時が捨て時って分かるけど、枝モノは?
どんなタイミングで捨てればいいの?
こいつは、去年の年末に買ってきたもの。
一向に枯れない。むしろ元気に生きている。ストーブを焚いた真冬には、黄色く、可憐な花も咲かせた。(どうやら黄梅?違うかな?)花が落ちると、今度は写真ように葉を付け出した。自然なんだなぁ。人工的だけど、自然なんだなぁ。でも、家の中に自然が入り込むと、結構困惑してしまう。私は「ナチュラルな暮らし」の囚われ人ではないので、コントロールできないものには戸惑いを感じるのだ。人類が長い年月、自然破壊したものと同じ心理で、戸惑う。
ジャガイモや玉葱が収納場所で発芽したりなんかすると、そのまま成長して、果ては動き出しちゃうんじゃないかと想像してしまう。そして恐くなる。これが土の上だったならば、生命の息吹を感じて嬉しくなるかもしれないが、残念ながらここは台所だ。台所には生き物だったものや、植物だったものが溢れている。あくまでも「だった」ってところが重要なのだ。
飼っていた金魚が死ぬ。仰向けになって水面に浮かんでいる。こう言う物が恐くて仕方がない。どうしても触れない。あんなに可愛がっていたのに、手を可能な限り伸ばして、自分の目から一番遠い場所で、割り箸を使って水槽から出す。
この世に生きている私とは、もう全く交わらないものなのに、現実に目の前にその抜け殻がある。それは異空間から落ちてきたような存在で、正視できずにただ恐怖する。
台所で芽吹く玉葱は、生命とは切り離された存在であった筈なのに、生きている事を突きつけてくる。玉葱は、腐る以外の時間の進め方をしてはいけない。これは、死体が動くような恐怖なのだ。
それにしても、こんな恐怖はいつ植えつけられたものだろうか。子供の頃、トラウマになるほどの恐怖映画でも見た?スティーブンキングのように、死体でも見つけた経験でもした?
いろいろ考えてみても思いつくことなど一つもない。なるべくしてなった、としか思えない。
暖かさを歓迎する一方で、這い出す昆虫を毛嫌いする矛盾。肉が好きなのに、殺生を受け入れられない矛盾。
土や緑が絶対的に足りてない。生と死を真っ向から受け入れる土壌ができていない。生き物に不可欠な何かが欠如している。そんな私は、要するに、アスファルトで整備された住宅地の申し子なのだ。
本屋で雑誌を物色していたら、「すてきレシピ」があったので手に取った。
最終号とか書いてあるけど、廃刊なの?
内容もぱらぱらとチェックしたけど、なんとなく食指が動かなかったので、購入には至らず。
それにしても、栗原はるみは良く働く人だ。
料理はきちんと3食とも、何の手抜きもせずに食卓に並べているし、(しかもテーブルコーディネイトはきちんと)、掃除は隅々まで行き届き、花のあしらいも抜かりなし。とことん家族を愛し、家庭を守っているんだと言うことがひしひしと写真から伝わってくる。写真が誌面を飾るってとこ自体、一般の家庭の概念とは一線を画すけど、そんなことを差し引いたとしても、家のどこを切り取っても家族への愛情ビームが行き渡っている。
すごいなぁ・・・。
あれだけの仕事をこなすには、年中動いていないとダメだ。家事と言うのは際限が無いので、自分の納得できるところで適当に棒引きするものだが、彼女は常に「まだまだ」とどこかを磨いていそう。
誰よりも早く起きてピカピカにした居間に、のそのそと家族が起きて来る。整えたソファーは一瞬で乱れ、新聞紙と広告がバラバラに広がる。まっすぐ四角く吊るしたタオルは、だらしなく曲がり、洗面所の周りは水はねでびちゃびちゃに。家族が気持ちよく過ごせればいいのと思っていたのも、朝の最初の30分で崩れてしまう。
「ちょっとちょっと、掃除したばっかりなんだから!」とか言い出して、気が付くと小言ババァになりそうだ私なら。いかんいかん。「次に使う人のためにちゃんとしておく」と「せっかくキレイにしたんだから」、とは全く別モノなので気をつけなくては。
人の営みなんて常に構築と破壊が対になっていて、一定の所で保とうとしても全然うまくいかないものだ。
家の中も然り。汚す為に洗う。空にするために満たす。常にそんな感じ。対価を求めたりしちゃ、それだけでおかしなことになってしまいそうだ。栗原はるみは、そこらへんの事をきっちり理解しているのだろう。
健康的な生活とは、自転車操業的な仕事を礎にしているのだ。
イライラせずに、黙々と。
彼女を見て「偉い」とか「立派」とか感心するけれど、この「偉い」とか「立派」にはどこか突き放したようなニュアンスが含まれる事を否めない。膨大な労働力と気を配した結果なのだから、別にこうなろうとまでは思えない。だから、ちょっとでいいのだ。彼女の一片を、ちょっと真似させていただければ、それでもう充分なの。
タオルを新しいのと交換するよう、息子に頼んだらこのザマ。
この後、私に小言を言われる。
先日、WBCの決勝戦をテレビで見ていたら、ビジュアル用メディアのCMが流れた。小学生が未来の自分に問いかけている内容で、「僕は総理大臣になっていますか?」、「私は温かな家庭を持っていますか?」とか、そんな感じの事を言っている。
それを見た息子が、「僕なら、未来の僕は旅人になっていますか?と聞くなぁ」と言った。
息子の夢は旅人になることだ。働いてお金を貯め、英語を習い、地図を買い、素晴らしい靴と鞄を買って出発するんだそうだ。
「お母さんの夢は?お母さんなら未来の自分になんて聞く?」と言われたので、「えーと、幸せなおばあさんになること」って適当にごまかしたところで、画面は球場に戻った。
試合を見始めたときからずっと、ここにいる選手たちは、ある意味でとっても幸せだと思っていた。
だって一生を掛けて追い続けられる夢を持てること、それだけで奇跡的だもの。
これまでの人生で、夢中になれ得るものが見つけられなかった事へのワダカマリは、体内で既に石化している。
いつだったか母が珍しく落ち込んでいたことがあって、久しぶりに長電話をしたことがある。
その時、私は母にこう言った。
お母さんも若い頃、未来にいろんな希望や夢を持っていたでしょう?
その頃の自分に、恥ずかしくないような人生を送っていかないとね。
ごめん、お母さん。
あれは自分に言った言葉だったの。
10代の私がタイムマシンに乗って、今、会いに来たとしたら、ひどくがっかりするんじゃないかと思っていたから。
あの頃には就きたい職業があって、まだまだ曖昧なものだったけれど、確かに人生のベクトルはそっちに向かっていたはずなのに、時間を掛けて一つ一つ潰していったんだ、私は。
漫然と生きている自分に少しアセりを感じている。
なんでもない平坦な日常にこそ人生の醍醐味があると信じる一方で、次の四つ角こそは曲がってみたいと思っている。
まだまだだと言いながら、年の数だけ言い訳が増えてくる。
そして「また言い訳してる」っていちいち気が付く。
そんな堂々巡りを繰り返すばかりの最近の私。
息子の質問には、「未来の私は、夢が見つかりましたか?」って本当は答えたかった。
暦は弥生。
土曜日には、よく咲いた梅をいくつも見掛けたし、しみじみと春の訪れを感じながら、確かにうららかに過ごしたのに、昨日は一時、雪が降ってたよ、ここら辺は。
今日もすこぶる寒い。
こういう季節の戻りは本当にがっかりだ。
またお前かよ、みたいな感じ。
さて。
先日スツールを買った。前から良いのを見つけたら買おうと思っていた。
店で、こういうの結構好きだわって1脚があったので、すかさず購入。
しかも、破格の安さ。更にセール中で値引き有り。
あ、ちょっとニュアンスが違ったわ。
破格の安さだったから、すかさず購入したんだった。
とにかくお得お得。主婦の好きなお買い得。
淋しそうな風貌のスツールで、レジで「これはいつ頃に製造されたものなんですか?」って聞いたら、
「これはアンティークではないんです。そういう仕様になっているだけなんです」って言われた。
フェイクでした・・・。
でもいいの。
ステキねと思ったからそれでいいの。
この春、はじめての買い物。
淋しそうな風貌のアンティーク・スツール、但し贋作
↓
追記
またスキンを替えてしまった。
だって前使ってたもののテーマが 「美味しい小春日和[Oisix]」 だったと今、気が付いたんだもん。
小春日和なんて・・・初冬のものはさすがに使えません。
いつものように息子とイチャイチャしていると、「そろそろご飯作ってきて」って急に言われた。
あんなにたくさんドーナツ食べたのに、もうお腹がすいたの?
そしたら、息子は言った。
なんか、お母さんと仲良くしているのが恥ずかしくなるんだもん。
わっかるよ~!!お母さんも2年生くらいのとき同じように思ったよ。お母さんの膝に乗ってる時にふと学校の友達のことなんかを思い出すと、何だか急に恥ずかしい気持ちになって、その場から一刻も早く離れたくなっちゃうんだよねぇ~!!
分かる分かる。皆そう思うんだよねぇ。そうじゃなくちゃ困るんだよねぇ。でもさ、寝るときはちょっと別なんだよねぇ。一緒に寝れると超ラッキーなんだよねぇ~。
とか言ってなんだが盛り上がってしまった。
お母さんと一緒がだんだん恥ずかしくなってくる。でも夜の8時以降は、まだまだ一緒に居たいと思う。
これが2年生の親に対する心情って事で結論が出たので、私は料理をしに台所へ。
私が最後に母に抱きついたのはいつだろうか。
たぶん4年生の時だ。
2年生の時の担任が亡くなった知らせを聞いた数日後。数週間後だったかもしれない。
母の胸に抱きついて号泣した。
あの頃の私は、いろいろなことを既に胸に抱えていた。鬱屈としていて、とても苦しかった。
そこに舞い込んだ恩師の死の知らせ。袋小路に追い詰められたような感覚を覚えた。現場を愛した師は癌と闘い、教壇で倒れたと聞いた。
人は死ぬ。
私の荷物は発酵し始めたかのように、ますます抱えにくいものになった。
クラスの担任に呼ばれ、ある時二人きりで話したことがあった。
先生は懇々と語ってくれた。人はいつかは死ぬのだ。誰もが避けようも死ぬ。だから生きている人間は引きずられるものじゃない。大丈夫なんだ、普通のことなんだ。
そんな内容だった気がする。
先生は何も分かっていない。先生はカラ回りしている。
10歳の秋。
あれから30年近い年月が流れ、私は親になっている。
子供の表面的現象から、いったい何が理解できるのか皆目検討も付かない。
同じように、我が子に空虚な思いをさせる時はきっと来る。
あの時の周りの大人のように、私はきっと何もできないだろう。
でも、どんな時でも温かな食事だけは用意する。
いつもと変わらぬ家庭料理を、苦しむ息子の前に出す。
あの時の母のように。
今日作った鶏の香草焼きはおいしくできた。