前回に引き続き、高畑勲監督作品で印象深かった作品として、今回は本作を取り上げる。


1982年6月、27歳のOL・タエ子が休暇を取って山形の親戚の農家に農作業を手伝いに行き、そこで遠縁のトシオという農業青年と出会う。
タエ子がそこで様々なことを思い、考える時、決まって小学5年生=10歳のタエ子が顔を出し、物語はそのまま10歳のタエ子の時代である1966年へとシフトする。
そして再び山形での話が展開してゆく。

いきなり10歳のタエ子の話に移るという、多分に“意識の流れ”的物語展開が繰り広げられ、二重構造の物語は複雑な様相を呈する。
ストーリーはタエ子の意識のままに、「27歳の時代」と「10歳の時代」を自在に行き来する。
さながら2本の糸が複雑に絡み合うように、この作品は全体として、2つの映画が組み合わさったかのようにさえ見える。

ラスト、東京へ戻りかけたタエ子が、トシオのもとへ戻るところで終るために、そのままタエ子が農家に嫁ぐ結末ととられ、安易だという批判は劇場公開当時から随分あったようだが、それほど単純な話とはいえないのではないだろうか。

この映画はいわばタエ子の“自分さがし”の話であった。
ラストでタエ子がもう一度山形へ戻ったのは、トシオとの結婚のためなどではなく、自分ともっと向き合うためだったのではないか。
第一トシオはタエ子にプロポーズなどしていないではないか。

ばっちゃ(婆ちゃん)が、タエ子に「嫁さ来てけろ」と言い出したことで、タエ子は気候の良い時期にたかだか1週間ばかり農作業を手伝った位で、田舎を、農業を知った気になっていた、その浅はかさ、偽善性に気付かされたのだ。

いたたまれなくなって本家を飛び出すタエ子は雨中を彷徨い、トシオの車と出会う。
吐き出すようにトシオに語ったのは、小5の時の転校生・あべ君の話。
自分の偽善を見透かされていた、と自嘲するタエ子に、トシオはタエ子が思ってもみなかった視点からあべ君の当時の心理を、タエ子のことを好きで特別に思っていたからこそ、わざと悪ぶって強がって見せていたのだと説いてみせる。

「私は自分がトシオさんのことをどう思っているのか、トシオさんは私のことをどう思っているのか、初めて考えようとしていた。
私がいま握手をしてもらいたいのはトシオさんだった。…握手だけ?」


結局翌日うやむやの内にタエ子は帰京することになり、列車に乗り込む。
その時、どこからともなく10歳のタエ子が姿を現し、27歳のタエ子の腕を引く。タエ子は思い直し、次の駅で引き返す。

自分のこれからの人生についてもう少しじっくりと考え、もう一度、今暫く山形と向き合い、トシオと向き合ってみよう。

その先のことは視聴者の皆さんのご想像にお任せします。
監督の考えはそんなところではなかったか。

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我々視聴者が見落としてしまいがちな重要な点が本作にはあると思う。

物語中“現代”であるかのように描かれていた“27歳のタエ子の時代”というのは、実は、既に“1982年”という“過去”であったということだ。

27歳のタエ子が果物屋に立ち寄れば、背景にはYMOの「RYDEEN」が流れ、山形で親戚のナオ子が欲しがるのはpumaの運動靴である。

本作の劇場公開は1991年であった。
即ち、私含めリアルタイムで本作を見た観客は、この映画に、本来なら二重の「過去」をみたはずなのだが、そのことには気がつかない。

皆、27歳のタエ子=現在のタエ子だと思い込んでしまう。だが、「現在」のタエ子は36歳になっているはずなのである。

長姉・ナナ子の結婚相手が山形出身であったことから、27歳のタエ子は、10歳の頃あれほど憧れた田舎と縁が出来た。そしてトシオという青年と知り合う。
当時のナナ子と同じ年代になっている、現在のタエ子は、果たしてトシオのもとへ嫁いだのか。それは明らかにされてはいない。
我々観客はそれを予感し期待するのだが、そうだとしても27歳の時に即結婚でなくとも構わないわけである。農業の厳しい現実、冬の農家の様子、そうしたものとこれから徐々に向き合い、その後で結論を出す猶予は十分にある。

このラストシーンは、タエ子がトシオと向き合う入口にすぎないのではないだろうか。

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高畑勲監督は、「この映画はじつは「引用」を基本にした映画」と述べている。

特に1966年(昭和41年)という、10歳のタエ子の時代を表す上で、夥しい数の当時のヒット曲がそっくりそのまま「引用」されている。
これらの曲は、10歳のタエ子の時代を映し出すのみならず、時にタエ子の気持ちを代弁する。又、そういう形で歌詞の一部が「引用」されている。

例えば映画に出られなくなって意気消沈するタエ子が、『ひょっこりひょうたん島』の主題歌を歌いながら自分を元気付ける場面。

「♪…だけど僕らはくじけない 泣くのはいやだ笑っちゃお
進め~ ひょっこりひょうたんじ~ま ひょっこりひょうたんじ~ま ひょっこりひょうたんじ~ま~」


の歌詞はそのままタエ子の気持ちにシンクロする。
(ついでに言えば、母親と夕暮れの商店街を歩き去る後姿が三段階に遠ざかるさまは、『孤独のグルメ』の「孤独カット」の原型ともいえようか?!)

トシ夫が夢中になっている「農業」――ひいては百姓を表象するために「引用」された東欧の「百姓の音楽」。これも「引用」である。
これを聴いた観客が「あぁやっぱり田舎はダサいんだ」という偏見を吹き飛ばすために、監督によって周到に用意された曲なのであった。
ムジカーシュというハンガリーのグループによる曲が幾つか用いられている。


(TEREMTÉS/MUZSIKAS)

劇中・紅花摘みの場面で流れた、ブルガリア国立女声合唱団の「MALKA MOMA DVORI METE」、「DILMANO,DILBERO」も又同様である。

特に後者は

「 …キヨ子姉さんが悲しい言い伝えを教えてくれた。
昔はゴム手袋のようなものはない。
娘たちは素手で花を摘み、トゲに刺されて血を流す。
その血が紅(くれない)の色をいっそう深くしたというのだ。
一生、唇に紅をさすことのなかった娘たちの、
華やかな京女に対する怨みの声が聞こえてくるような気がした。…」


というタエ子のモノローグに見事に映えた。



27歳のタエ子が生きた時代=1982年と上で書いたが、実はムジカーシュもブルガリア国立女声合唱団の曲も、広まったのは1982年よりもずっと後のことだ。
従って、トシオがスバルR-2車内のカーステレオで、ムジカーシュをかけるのは本当は矛盾しているといえようが、そこは目をつぶるしかないだろう。

そもそもトシオがタエ子に語る農業への熱い思い。
有機農業に対することも、「田舎」の風景が実は人間と自然の共同作業によって生まれたものだという説明も、全て「引用」ということができる。

エンディング曲の「愛は花・君はその種子」
当時、引退後復活間もなかった都はるみが、演歌以外の曲を歌っていたのが新鮮だったが、実はこの曲も又、ベット・ミドラーの「ROSE」の「引用」である。見事に和洋折衷の曲調にアレンジされている。



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ところで何故「27歳のタエ子」が「10歳のタエ子」を伴う旅の物語になったのだろうか。

「10歳のタエ子」の時代=1966年(昭和41年)のほうは、原作漫画がまさしくその時代の「おもひで」の数々を描き出したからだということができよう。
東京オリンピックで大成功を収め、高度成長期の只中にあり、まだオイルショックによる景気の減速などなかった時代。庶民レベルでも豊かな生活を実感でき始めた時代であった。

私自身はタエ子よりもずっと後の世代で、給食から既に脱脂粉乳は姿を消し、電気鉛筆削りは最初から買ってもらえたし、ビートルズもグループサウンズも幼少期のリアルタイムの実感はない。そもそもジュリーがグループサウンズの出身だったことさえ後で知った。
だが、それでも10歳のタエ子のエピソードの数々に、自身の子供時代の記憶が完全にではないにせよ、大きくシンクロする。

パイナップルの果実を初めて食べた話は、自身が全く同じ経験をした。
硬い芯から仄かに薫る甘酸っぱい匂いに誘われ、思わず齧りついて吐き出した。外皮を剥いた跡には茶色い穴ぼこがあちこちに残り、それをよけて実にかぶりついてはみたものの、まだ熟れきっていない果肉は酸っぱく、缶詰のほうが遥かに美味く感じた。

度々出てくる商店街の描写も自身の記憶に息づく街の情景である。
特に本屋。大して大きくない店に、「小学一年生」などと大きな幟がはためき、付録が山ほど付いた「小学○年生」や「めばえ」などの雑誌群は、専ら店頭の木製平台に積まれ、その脇には黄色いスチール製回転書棚。そこには色とりどりの絵本がぎっしり詰まっていた。
子供向けの本や雑誌が、紛れもなく町の本屋の主役であった。

本作には出てこないが、原作には出てくる紙せっけんも女子の間では随分流行っていたし、隣のクラスとの対抗試合は、小学校ではなく中学校時代に、野球ではなくソフトボールをやった憶えがある。小学校時代のクラス対抗は専らドッヂボールだった。

スカートめくりもまだまだ流行っていたし、学級委員がまだクラスのみんなから敬意を抱かれていたのも同じである。

そして女子の生理の話。一方男子には精通の話がされた。
確か自分の場合は、小6夏の臨海学校で、皆で風呂に入った時に担任のベテラン教師が薄くなりかけた頭にタオルを乗せながら話していた覚えがある。その時、女子は女子だけで集められ、女性教師によって何やら話がされていた。

高畑監督の最新作、『かぐや姫の物語』においても、姫が初潮を迎える話が出てくる。
「女の子」が「子」から「娘」へと変わってゆく象徴的な出来事として、デリケートではあるが避けては通れぬ問題として描かれるのであろう。
本作の「生理の話」を、まだ知らぬ子供が見たら、親は説明に困ることだろう。その意味でも大人の視聴者を想定しているのかもしれない。

「 …青虫はさなぎにならなければ、蝶々にはなれない…。
さなぎになんか、ちっともなりたいと思ってないのに…。
あの頃をしきりに思い出すのは、私にさなぎの季節が再び巡ってきたからなのだろうか…。
…確かに就職したての数年前とは何かが違っている。
仕事でも遊びでも、私たちは男の子たちよりはるかに元気が良かった。
私たちは飛び立ったつもりになっていた。
しかし今思えば、あれはただ無我夢中で羽根を動かしていただけなのかもしれない。
…5年生の私がつきまとうのは、自分を振り返って、
もう1度羽ばたきしなおしてごらん、そう私に教えるためなのだろうか…。
…とにかく私は残り少なくなった山形までの時間を眠ることにした…」


山形へと向かう寝台列車の車中で、27歳のタエ子はこう述懐する。

山田太一脚本作品の中に『想い出づくり』という作があった。
若い娘3人が主人公だが、この中で、女性の婚期について「クリスマス・ケーキ」に例えるエピソードが出てくる。即ち24(歳)なら売れ時で、25(歳)になると売れ残りというのである。
今どきこんなことを言う人は誰もいなくなってしまったが、確かにそんなことが言われていた時代があった。
『想い出づくり』は1981年の作である。
27歳のタエ子の時代=1982年とほぼ同じである。
そういう意味では、1982年に拘るなら27歳ではなく24歳のほうが合っていたのかもしれないが、劇場公開当時1991年頃なら、確かに女性が結婚を意識し始めるのは27歳といわれていたように思える。

上の長い引用にもある通り、「さなぎの季節が再び巡ってきた」
それを大人になったタエ子に意識させるのに、27歳という年齢が必要だったのではないだろうか。
今日的感覚からすれば、それが30歳でももう少し後でも構わない気もする。だが、確かにそういう時代があった。

初潮を迎えるか迎えないか。そんな微妙な時期を1966年で。これは原作の時代設定がそうなのだから動かせない。
その上で、本作では大人のタエ子を登場させるにあたり、再び人生を見つめ直す年代にしよう。そのためには36歳では都合が悪い。やはり27歳だ。その結果、山形編が必然的に1982年になったのではないだろうか。

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過去の描写として、特に1966年のタエ子少女時代編の時代考証には細心の注意がなされ、私には残念ながら実感はないが、とりわけ『ひょっこりひょうたん島』をリアルタイムで観られていた世代の方には、当時にタイムスリップさせられる思いがすることだろう。
本作を見たお蔭で、『ひょっこりひょうたん島』に関心を持ち、数年後にNHK-BSでリメイク作が放映された時、随分熱心に観たものだ。

1982年についてもそれは同様である。
個人的にはどうしても鉄道に目がいってしまうが、実際、その方面での時代考証も又精度の高いものだと思う。(本作で作画監督を務めた近藤善文氏の最初で最後の監督作品『耳をすませば』の舞台が京王線ではなく京“玉”線、出てくる電車が正面は京王5000系で、側面が京王6000系というのはご愛嬌。『平成狸合戦ぽんぽこ』で三長老が乗ってくる電車のほうが寧ろ正確な京王6000系だったように思う。)

タエ子が通勤に使う、営団地下鉄(当時)丸ノ内線の真っ赤なサインカーブの電車(500形?400形?)、上野駅中央改札口の、上から数々の特急、急行列車の札が下がっている光景。
タエ子が山形へ向かうのに乗った夜行寝台列車は「あけぼの」という特急で、この列車は最後まで20系客車が用いられていたことで鉄道ファンの間では知られるが、1980年に24系24形客車に置き換えられている。その24系客車が推進運転で上野駅地平ホームに進入してくる。
夜明け前の山形駅に静かに到着する「あけぼの3号」。
牽引するのは電気機関車の重連である。両者の車長の違い、中間台車の違い。それらのシルエットの描き分けで、ED78とEF71の重連であることがわかる。

そしてラストシーン。
帰京するタエ子が乗り込むのはキハ20系気動車。車内の描写の中に排煙管の出っ張りの場所が出てこないのが惜しい。既に朱色4号とクリーム色4号のツートンカラーから、朱色5号1色の首都圏色に塗り替えられている。
タエ子は思い直して隣の山寺駅で対向列車に乗り換える。
そちらは電車。交直流急行形だが、455系か457系であろう。赤13号(ローズピンク)とクリーム色4号のオリジナル色にきちんと塗り分けられているのが嬉しい。

再びタエ子が高瀬駅に降り立ち、乗り込む路線バスもまた、複雑な塗り分けがなされ、日野自動車のプレートがついている。

今のように塗装の簡略化、単色化はまだまだ進んでおらず、手間暇かけて塗り分けられた鉄道車両やバスの何と多かったことだろう。

1982年という年は、東北方面の鉄道事情が一変した年でもあった。
東北新幹線が大宮暫定開業とはいえ、盛岡まで通じたのが同年6月23日。まさに27歳のタエ子が山形へ向かった時期とほぼ同じである。
「ロマンアルバム」を繙くと、高瀬駅でタエ子と別れたトシオが、もう一度会いたさに仙台駅まで車を飛ばし、そうとは知らず仙台駅で新幹線に乗り換えようと歩いて行くタエ子。そこへトシオが息弾ませて現れて、感動的な再会。…そんな幻のラストシーンが企画段階では挙がったそうである。
仮にそれが実現していたとすれば、27歳のタエ子は、開業間もない東北新幹線で東京へ向かう予定だったのか…?そんな想像をしてみるのも楽しい。

それもこれも本作が極めてリアルな情景描写を得ているためだ。

そこまでやるなら何もアニメーションの必要はなく、実写でやったほうが良かったのでは?
そんな批評も当時あったが、やはり実写では全く違ったものになってしまったことだろう。
特に山形の農家における登場人物の数の少なさ、少女編における白っぽい描写の数々、広田君との淡い初恋の思い出に少女のタエ子は道からそのまま天へと駆け上がり、心の高揚を表すかのように空中を浮揚し、そのままふわりと布団の上に舞い降りる。やはりアニメーションならではなのだと思う。

そして「27歳編」でどうしても触れておかねばならないのが、「プレスコ方式」という技法である。
予め声優に声を吹き込んでもらい、それに合わせてアニメーションを描き起こすという手法。
タエ子役の今井美樹と、トシオ役の柳葉敏郎を中心に、その表情、仕草が全てビデオ収録され、そこから動きのポイントを拾い出し、作画に用いられたという。
リアル志向のなせる技だったが、結果、筋肉の動きを表現するために、頬に皺が描かれ、特に主役のタエ子が27歳という若さであるにも拘らず、時折老け顔に見えたのが、製作の苦労が想像される割にはどうしてもマイナスポイントに思えてしまった。

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27歳のタエ子は果たしてラストシーンにおいて、10歳の自分と訣別したのであろうか。
もう10歳の自分なしでも、しっかりと自分と向き合って前を向いて生きていけるという意味が込められているのであろうか。
迎えにきたトシオの車に乗って、27歳のタエ子が立ち去った後を見送る10歳のタエ子とそのクラスメートたち。彼らの顔はどこか寂しげにみえる。

宮崎駿監督の『となりのトトロ』が、失われてしまった自然と人間の触れ合いから郷愁を誘うのに対し、『おもひでぽろぽろ』は、過ぎ去った時代の大衆文化への郷愁を誘う映画だといえる。
ここに描かれるのは、都市生活者の郷愁かもしれない。

そして、その郷愁は大人になった主人公に色々なことを思い出させ、生き方を見つめ直すきっかけを作り、その背中を後押しする役目を同時に果たしているように思われるのである。
決して懐古趣味ばかりの映画とはいえないと思う。

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『おもひでぽろぽろ』
1991年公開

監督・脚本:高畑勲
製作プロデューサー:宮崎駿
製作:徳間康快、佐々木芳雄、磯邊律男
原作:岡本蛍、刀根夕子
音楽:星勝

主な出演者(括弧内は役名):
今井美樹(タエ子)
柳葉敏郎(トシオ)
本名陽子(タエ子(小5))

寺田路恵(母)
伊藤正博(父)
北川智絵(祖母)
山下容莉枝(ナナ子)
三野輪有紀(ヤエ子)

飯塚雅弓(ツネ子)
小峰めぐみ(トコ)
滝沢幸代(リエ)
石川匡(スー)
増田裕生(広田)
佐藤広純(あべ君)

後藤弘司(カズオ)
石川幸子(キヨ子)
渡辺昌子(ナオ子)
伊藤シン(ばっちゃ)

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参考文献
プログラム
ロマンアルバム「おもひでぽろぽろ」(徳間書店;1991)
オリジナル・サウンドトラック解説

以上敬称略