バッシングされるセイラの真っ直ぐさ
『小公女セイラ』は、セイラへのいじめ、疎外、暴力を正当化する理由作りのためのドラマである、と言ったら言い過ぎでしょうか?
この作り手のスタンスは、ドラマ開始直前の番宣番組で既に垣間見ることができます。
セイラとミレニウス学院の生徒たちとの初対面の場面です。

セイラが真里亜のスカーフを結び直して、「このほうが素敵に見えるわ」と言います。
それに真里亜は戸惑いながらも「ありがとう」と答え、周りの生徒たちは「私にもやって」と口々に言い、感嘆してセイラを取り囲みます。
セイラの女の子らしいファッションセンスが周りをうっとりさせるという、この印象的なシーンに対し、番宣番組で被せられたナレーションは、


   その真っ直ぐさが災いして、時には周りの人たちを苛々させてしまうことも。


というものでした。
シーンとナレーションの不自然な乖離。
それが指し示すものは、セイラの真っ直ぐさが、このドラマではマイナスに評価されるのだという、視聴者に対する作り手の明確なメッセージでした。
しかも、その真っ直ぐさが問題にされるのは、セイラの時だけに限られます。
院長や真里亜が同じように真っ直ぐに我を通しても、周りから糾弾されることはありません。
それで非難されることもありません。
しかしひとたびセイラが、同様に真っ直ぐであろうとすると、たちまち彼女らからの攻撃を受け、いじめ、疎外の対象となります。
院長からは暴力さえ振るわれることもあります。
セイラの美徳とも言える真っ直ぐさ、正義感は、このドラマでは徹底的に嫌われているのです。


東海林まさみ---セイラの味方になりきれない親友
まさみは常にセイラの一番近くにいて、セイラの内面を一番知っている親友とも言える存在です。
また、「私あなたに一生付いて行くわ。あなたのためなら死ねるわ」と言うほどの憧れをセイラに抱いていました。
ところが彼女には、セイラが精神的に困ったとき、追い込まれたときには、大抵沈黙して傍観者になるか、逆にセイラの反対側の勢力に回り、セイラへの疎外に加担するという不思議な特徴があります。
この奇妙な役割は、このドラマ特有のものであって、その元となった原作のアーメンガードには殆ど見られないものです。
アーメンガードは、食べ物を差し入れするだけでなく、精神面のサポートや擁護もする本当の意味での親友でした。
特にアニメにおいては、陰湿ないじめからセイラを守る盾や緩衝材ともなっていました。
まさみのセイラに対する、この面での消極的な態度は、セイラの孤独感を一層高める効果になっています。


正義感を主張するセイラは必ず叩かれ、そして挫折する。


これは、このドラマで繰り返される法則のようなもので、「どんな逆境にあっても、常に前向きで明るさを忘れない」という、当初掲げられていたこの種のセイラ像は、既に虚像でしかありません。
8話でも、この法則に即したかのような、3話に近い構造でのセイラへの疎外、つまり、味方であるはずのまさみによるセイラへの非難的言動がありました。


きっかけは、父親の風采の上がらなさにコンプレックスを抱く真里亜が、見栄のために父親を授業参観に呼ばなかったことに起因します。
その父親を、授業が見える教室の窓まで、セイラが案内します。
その後演じられるシーンは、まさみのセイラ観を知る上で重要だと思われるので、かなり長い台詞なのですが、そのまま引用することにします。


真里亜がセイラを突き飛ばす。それをただ呆然と眺めるだけのまさみ。
真里亜 何なの! どういうつもり? 何で余計なことするのよ。
セイラ 申し訳ありません。せっかくお父様がいらしていたので。
真里亜 あたしが来ないでくれって頼んだの。余計なことしないで。
セイラ 申し訳ございません。でも、真里亜さん。
真里亜 何よ。
セイラ 間違っていると思うわ、私。
真里亜 はっ?
セイラ だって、あんなに素敵なお父様がいらっしゃるのに、なぜ来ないでくれなんて言うの? それはおかしいわ。私のように両親をなくした者からみればとても贅沢なことだわ。あんなに優しくて、真里亜さんを愛してらっしゃるお父様がいるのに、どうしてそれを隠そうとするの? それは間違っているわ。
真里亜 うるさいわね! あなたに何がわかるっていうの、私の家庭の。正義感を振りかざしてわかったようなこと言わないでよ。
セイラ それはそうかもしれないけど。
真里亜 最低ね、あなたは。本当に不愉快な人。(部屋から出て行く真里亜)
かをり 確かに、みんなそれぞれ色々あるからね。他人がとやかく言うのはおかしいんじゃない。
セイラ へ?
かをり 別に真里亜がお父さんのこと愛してないわけじゃないと思うけどね、私は。
まさみ セイラさん、自分がご両親をなくしているから、いるだけで幸せだろうというの、そんなのおかしい。それを言ったらおしまいだわ。
セイラ まさみさん。
まさみ みんな色んな思いがあるし、家族って真里亜が言うように他人がとやかく言うことじゃないと思う。セイラさんはいつだって正しくあろうとするのよね。それは素敵なことだし、偉いなって思う。でもね、あなたの正しさはいつでも一種類なの。それしかないの。でも、世の中人の数だけ正しさはあると思う。それを認めないセイラさんはとても心の狭い人だと思ったわ、私。一寸がっかりした。正しいのはあなただけじゃないわ、セイラさん。
セイラ そんな……、わたし。
まさみ うちの家族見てどう思った? 仲の良い家族? お母さんは私にそっくり? でもね、私、あの2人の子供じゃないのよ。私は養女なの。小さいときに両親をなくして引き取られた。もちろんそれを分かれって言ってないわ。でもね、セイラさん。人はみんなそれぞれ色んな事情を抱えてそれでも頑張っているのよ。
セイラ ごめんなさい。本当にごめんなさい。(残りの生徒全員、部屋から退出) 本当にごめんなさい。まさみさん。私どうしたらいいか。
まさみ ううん、わかってくれればいいの。でもね、セイラさん。お友達だから言ったのよ。
セイラ まさみさん。
まさみ お疲れ様。(部屋から出て行くまさみ、一人だけ残されるセイラ)


セイラの主張は、「真里亜を深く愛している父親を授業参観に呼ばないのは間違っている」という、ただそれだけのものです。
それ自体突飛で強引な主張ではありませんし、両親をなくし無一文の生活を強いられているセイラからすれば、自然な発言にも思われます。
これに対してオポチュニストのかをりの発言は、彼女らしい相対主義的なものですから、まだそれなりに納得がいきます。

ですが、まさみの誤解と認識不足による一方的な非難には、さすがに首を傾げざるを得ませんでした。
「両親をなくしているから、いるだけで幸せだろう」などと、セイラは一言も言っていませんし、「でもね」を連発しながら次々と放たれる言葉の羅列「あなたの正しさはいつでも一種類なの。それしかないの。」「それを認めないセイラさんはとても心の狭い人だ」に至っては、セイラの近くにいて、セイラのどこを見ていたのだろうと不思議な気持ちにさえなりました。


小沼日出子の不合理な非難を甘受し自分の非を認めるセイラ(2話)。
「お金が無いセイラには何の価値もない」とする真里亜の主張に、泣きながら許しを乞いそれを認めるセイラ(3話)。


使用人になって以降のセイラは、自分の正しいと思うことを主張することはあっても、その大部分が否定され、そ

して最後には相手の意見を受け入れ認めることのほうが圧倒的に多いのです。
それは、弱者となった使用人のセイラが、強者である院長や真里亜が信じる正しさを認めるという構造の中で何度も描かれています。
そして、やはりこのまさみの論理的でない一方的な非難にも、


   (カイトに向かって)私が間違っていたの、それを教えてもらったの。
   (ネミィ&ズミィに向かって、泣きながら)私最低だったよ。最低だった、私。私ってみんなを不愉快にさせちゃうのかなあ。大切なお友達にも嫌われちゃったかもしれない。消えてなくなってしまいたい。


といった具合に、まさみの思う正しさを「後ろ向きに暗い気持ちで」受け入れています。

セイラは決して自分の信じる正しさのみを認めるような原理主義者ではありません。

むしろ、その逆だと言ってもいいぐらいなのです。
まさみ自身はおそらく気付いていないのでしょうが、まさみの言葉自体が自分の正しさをセイラに無理に押し付けている自家撞着的な発言になっているのです。

そしてそこには、持てる強者=まさみから、持たざる弱者=セイラへの非難という構造のもと、かつての関係性が逆転してしまった一種の倒錯が認められます。
「お友達だから言ったのよ。」という言葉の持つ偽善性は全く暴かれることなく、ここでもセイラの正義感のみが中傷の対象となっていました。
何度も何度も繰り返しサディスティックなまでに傷つけられるセイラの正義感。
もう一度冒頭の文章を繰り返します。
『小公女セイラ』は、セイラへのいじめ、疎外、暴力を正当化する理由作りのためのドラマである、と言ったら言い過ぎでしょうか?