編者の窓

編者の窓

左翼運動研究が一段落してしまった現在、ごく普通の人々までもが、反国家体制犯として検挙され、治安維持法違反ということで、実刑を受けていた事実を重く受け止めて欲しい。『治安維持法検挙者の記録』の編者、西田義信が文献から抽出した事例を公開する。

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 本書を利用して、研究を行える事例を一つ紹介しよう。

 

高橋 平作
S59-351 s14,3,24 起訴猶予  訓導  コミンテルン党目遂(東京)

 

 たったこれだけのことだが、疑問がわく。
 この人物は「訓導」だから小学校の教師である。それが、コミンテルンのために、何かの活動を行ったのであろうか。
 『思想月報』の59巻の351ページを開いてみる。この人物は、豊島師範を出て、さらに日大夜間の法学部を卒業している。なかなかの勉強家である。
 犯罪理由として「コミンテルン、党目遂」となっている。これでは疑問は解決しない。
 本書の読者で、読者登録していれば、情報請求ができる。私のデータベースから追加で差し上げる内容では、「特高月報昭和14年1月号」の5ページに「身柄のみ一応釈放の上事件を検事局に送致」した記述があり、2ページにわたって、その内容が記述されていることが分かる。
 長くなるので、まず高橋平作の歩みを簡単に書いておく。

 

 

1927年3月

東京府豊島師範を卒業

その後、2,3の小学校で訓導をやりながら、日大史学科で学ぶ

1932年ごろ

 同大学講師の羽仁五郎の歴史哲学、古代史、幕末史の講義を聴講 唯物史観の正常性を信じるようになる。

卒業論文「武蔵野の地理的研究」

 卒業後も、この研究の完成のために研究を続ける。武蔵野の変遷の社会的意義を究明するために、マルクス主義文献を参考にする

1937年4月 

 世田谷区松原尋常小学校へ転任。このころには、マルクス主義を理解するようになっていた。

 

 この人物は、何の組織にも関係していないようで、どのような経緯で検挙されたかはわからないが、取り調べの結果「その受持児童に対し教壇より左翼思想の宣伝扇動に努めつつありたること判明」したのだそうである。
 この文に続き、1ページにわたって、「啓蒙教育に於ける主要なる事項次の如し」として、7つの項目が箇条書きになっている。全文を紹介したいのだが、長くなるので、国史に関する3項目だけを載せておこう。

「徳川幕府は…五人組制度を設け苛斂誅求に対する百姓の不平不満を押さへ幕府の維持を図った。」
「明治維新は…結局大金持(資本の成長)が出来て明治維持(ママ)となった。こういう社会の発展はフランスの大革命支那の辛亥革命と同じでわが国では革命といわずに維新と呼ぶ。革命は古い関係が新しい関係に変わる事でフランス革命は全部新しい関係に変わったが、支那と日本は古い関係が半分に凝っている。」
「勤皇の志士林子平は告示に憂いて『海国兵談』を著し幕府の忌緯に触れ罰せられた。… こういう偉い先生でも政府の意見と合わなければ罰せられる。」

 現在では、小学校の教科書でも、もう少し過激? かもしれない。まして、コミンテルンとは何の関係もないように見える。
 高橋平作は、起訴猶予になっているが、治安維持法違反で特高に検挙され、送検されているのだから、間違いなく、職を失ったはずである。
 長くなったので、この秘密は、次回に譲る。皆様も考えていただきたい。