井山名人が角番の一局でどんな碁を打つのか、誰もが固唾を飲んで見守ったことだろう。
勿論、当の井山名人が一番悩み、緊張したところであろうが、外野は外野であれこれとヤキモキするものである。


相手の山下本因坊の凄まじい力を見せ付けられては、ここら辺りが年貢の納め時などと無責任でナゲヤリな考えもチラつかないではない。
番碁は、必ず角番を迎えるものではあるが、その時々の心境がつまびらかになれば、これだけで立派な小説が出来上がりそうである。


今回名人戦第五局の井山名人の心境など分ろうハズもないが、いわゆる首を洗って、よく言われる自分の碁を打つというスタイルに徹しきろうというものではなかろうか。
ここに至って、自分の碁を持っているかどうか、確立しつつあるかどうかが着手を左右するものだろう。


アマチア低段者では、徹しきれる自分の碁など見当たろうハズもない。
ただ、そんな心境やそんな碁を打てる機会があれば、キット心臓が破裂するぐらいまで緊張はするが、後では楽しかったと振り返れそうなものではと推察するのではあるが・・。


真剣勝負の井山名人は、どんな心境だったのだろうか。
宮本武蔵や佐々木小次郎に思わず思いを馳せてしまうような名人戦第5局の始まりであった。

棋譜再生

先手番は、山下本因坊。
黒1,3,5は自信の布石か。
山下本因坊も最強の手で名人戦を闘い抜きたいという強い思いが溢れているようだ。


左上隅、ナダレ模様から黒17とかけついだ時、白18が作戦の分かれ目のような気がした。
当たり前の割り打ちかもしれないが、当然の黒19の詰めに井山名人は、軽く白20から22と裁き気味ながら、単に逃げるのではない攻めの切っ先も十分に含ませていた。


黒29は厳しい攻めの急所であるが、一本白30の覗きから白32、46となってみると模様を荒らしながらも攻めの姿勢を貫き、白60と攻防の接点に先行すれば、心境的には悲観する所ではない。


黒61と封鎖をしながら右辺の模様拡大を図り、井山名人が右上隅に白62と付けて新たな攻防の始まりである。


結局のところ、この碁は182手で白番井山名人の中押し勝ちとなった。
井山名人の捌きが冴えていたようではあるが、逆に山下本因坊にこれで決めてやろうというプレッシャーがあったのかもしれない。


名人戦七番勝負の角番の攻防は続くのであるが、できれば最終の第七局まで闘志溢れる捻り合いの攻防を見せてほしいものである。
謝女流本因坊の強さに感心したNHK杯であった。
10月16日(日)のNHK杯囲碁トーナメントは、もう2回戦である。
ともに1回戦を勝ち上がっての先手番、謝女流本因坊と後手番、高原周二九段の対戦である。


解説の小松九段によれば、二人共早見えだとのこと。
謝女流本因坊の安定した強さが垣間見えたような一局であった。

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高原九段は白の4手目を左下に締まらず左上の黒3に掛っていった。
そして掛かりだけで白8と左下に先行し、黒9の掛かりに二間高バサミである。


謝女流本因坊は、ここで手を抜いて左上隅を黒11切りから13とがっちり制した。
これで十分だという作戦か。
黒9の石の動き出しは当分保留し、上辺白14の割りうちに右上隅を15と締まって自信ありげだ。


そして白16の二間開きを横目に右下隅を黒17と掛かり白18の挟みに黒19の挟み返しも構想通りのようだ。
そして、黒27の下がりで黒29の気持ちのよいアテを利かし右辺を黒31と構えて、ゴ-イングマイウェー的。


更に黒33の肩付から右辺の黒模様を拡大して白に入って来いと催促である。


白は40から42と軽く裁こうとしたが、黒43のケイマが面妖な一手。
白44は切ってみろという誘いの隙であようであるが、謝女流本因坊は堂々と黒45から出切り戦いは辞さない。


白64の覗きも後の攻防を読みきりの黒63の押さえだったようで、右辺は黒の一手勝ち。
白の高原九段は取られても締め付けが利くので軽い気持ちだったようであるが、よくも短時間で攻防が読みきれるものだ。


ここの締め付けの流れが全局に響いていくのであるが、地合で先行した謝女流本因坊が左辺の白の盛り上がりも力強く牽制して逃げ切った感じであった。


高原九段が寄せで少し疑問手があったような小松解説者の口ぶりではあったが、謝女流本因坊のゆるぎない打ちぶりが光った一局だと感じたところである。
243手まで黒番1目半勝ちは、全く強い女流だと感心するばかりであった。
第36期名人戦第4局は、挑戦者の山下本因坊が2勝1敗とリードをした後、今期の名人戦の帰趨を左右する大事な一戦であった。
井山名人にとっては是非ともタイに持ち込みたいが、山下本因坊にとってもこの碁を勝って名人位に王手をかけたいところである。

棋譜再生

タイトル戦はどの一戦であれ、それぞれに重みはあるのだが、当事者よりも案外周りのほうが星勘定に敏感なような気もする。


囲碁は、勿論勝敗を争うゲームである。
名人位のような大きなタイトルがかかっていると、名誉と金が重くのしかかるように感じるのだが、この二人には少し違うレベルの争いの様にも思われた。


アマの低段のレベルから囲碁の話をすると、まず囲碁が少し分りかけてくるにつれ、面白さと共に勝ち負けにも大変拘るようになる。


初心者で三手の読みまでは行かなくて、夢中で指しているころは何も思わない。
考えられないのである。


が、やがて勝敗に拘りだすと少し考える癖がついてきて、こちらがこう指すとこのようにこられるのではと少し想像出来る様になる。
そのうちに、もう少し分り出し、自分の指した手に対して、こう来られたら困る手も分るようになる。


そのときにどうするかと言えば、まず相手が気づかないことを祈るのである。
そして、正解でない手をさしてくれれば、ほっとしてやれやれである。


こんな時期は意外と長い。
しかし、段々と相手も成長してきたり、強い相手と指すことになると、悪い手を打つと咎められ、とっちめられるようになる。


何度もとっちめられると、相手が間違うのを祈るレベルではやっていられなくなる。
当然に、色々な手を考え出して、それなりの対応を取るようになる。
また、取れるようになる。


アマの低段に毛が生えたぐらいで、私のようなレベルである。
ともかく碁が面白い。
勝ってもも負けても面白くなる時がそれであろう。


ここからは想像のレベルであるが、アマの高段者になれば、ある程度自由自在に碁が打てる。
勿論真剣のガチンコ勝負に立ち向かい頭を搾り出すことも、置き碁で相手を牛耳ったり、わざと負けてやるような芸当も出来るようになるだろう。


トップアマになれば、かなりの真剣勝負になるのだろうか。
しかし、いずれにしても生活がかからないのがアマのレベルである。


プロになると、当然に職業としての自覚と責務、野望がでてくるであろう。
だが、本当のトッププロになるまでは、それで飯を食うかどうかの差だけで、人間がすることだから心理的にはアマの領域と大きく変わらないような気がしないでもない。


ただ、少なくとも相手のミスを待ったり願ったりすることは少ないとは思うのだが。
そして、高段のプロは、常に最強手・最善手を求めて碁に接しているはずだ。


随分と前置きが長くなった。
タイトルを争っているトッププロ、しかも名人と本因坊である。
勝敗に拘りが無いはずはない。


しかし、この二日制の果てしなく長く、且つ凄まじい戦いの中で何を考えているのだろうか。
テレビで見ていても疲れ果てるような緊迫の雰囲気の中で、あれだけの集中力が続くのは、二人の物言わぬ対話があるからに違いないと思うようになった。


囲碁は一人でいくらでも研究が出来る。
だが、自分ひとりでの考えには限界があり、まして緊張感は醸し出すことが出来ない。


究極の緊張の中で、脳みそを搾り出した先にはどんな碁が生まれるのか、少なくとも自分と同等の囲碁界トップレベルの相手と精一杯の盤上の絵図を作ってみたい、そんな感じになっているのではと思うのである。


相手の力量を信頼しなければ、そんな投げかけなどできるはずもない。
しかし、この相手となら囲碁の風景が変わるのでは・・。


そんな機会と相手に恵まれた幸せの時間を、決して疎かにしたくない。
名人と本因坊の囲碁の波長が重なり合って出来た盤上の絵図が、そう語ってはいないだろうか。