おはようございます。

今日も楽しくお勉強あひるなんちてにひひ


PRCのことを中国と表記するのは抵抗がありますが、タイトルだけそうさせてもらいました。

「中国」の意味、知っててつかってるのかしらん?と思うのは…はい、私だけでしょうね(爆)


ねずきちさんとこで、目から鱗の「がってん」があったので、ご紹介キラキラ

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-999.html


以下転載----------------------------------------------------------

18世紀初頭の学者に、英国のトマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus)という人がいます。

マルサスは、1798年に、「人口論」という本を書きました。

その中で彼は、

「人口は、幾何級数的に増加する。
一方、食料の生産能力には限界がある。
だから人口の増加には一定の限界がある」

という論を発表しました。


彼の説によれば、世界の人口は20億人が限界で、それ以上は食糧生産高が間に合わず、人口は増加しない、ということになります。

ところが、特に戦後世界は、爆発的に人口を増加させ、いまやその人口は約60億人です。

なぜ、そこまで人口が増えたのかというと、実は、小麦がそのファクターになっています。

人類の食糧は、世界三大穀物と呼ばれる、コメ、小麦、トウモロコシです。

日本ではコメが主食ですが、欧米やアジアの多くの国々は、小麦です。

支那の人口は、いまや15億人に達しているといわれていますが、実は、戦前の支那の人口は、5億人程度です。

戦後、支那の人口はなんと約3倍に増えたのです
なぜ増えることができたのかといえば、それは食料が豊富になったからで、ではどうして食料が豊富になったかといえば、小麦の生産高が爆発的に増えたからです。

ちなみに世界の小麦生産量は約6億トンですが、このうち約1億トンは支那で生産されています。
そして支那は、そのほぼすべてを自国内で消費しています。輸出はほぼ、ゼロです。


ではなぜ支那の人口が、3倍にも増えたのかというと、実はそれは日本のおかげです。

実は、日本は、支那の清王朝の西大后が画策した義和団事件で、清国政府から賠償金を得、その賠償金の還元策として、広く華北の産業発展を目指すためにと、北京に華北産業科学研究所を創設したました。

その研究所がもっとも力を入れたのが、支那の農業振興のための研究です。

支那の貧困を救い、彼らに安定した食料を供給しなければ、次のステップとしての教育の振興に至れない。

なんと当時、華北産業科学研究所には、日本の東大、北大、九大などからとびきり優秀な人材を326名も送り込んでいます。

当時の華北地方は、洪水、日照り、イナゴの害といった厳しい自然環境の中で、農民たちがきわめて原始的な農業を営んでいたのです。

そりゃそうです。
人は火を使いますが、火を焚くために木々を燃やせば、森はあっという間になくなり、砂漠化してしまう。
だから華北は砂漠ばかりです。

日本は豊富な森林資源を持つけれど、これは単に日本が温帯地方にあり、高温多湿な国だからではありません。
国をあげて、植林事業や、日常的な森の手当を行ってきたからです。

現に先の大戦で日本は、森林資源の30%を失ったけれど、いまは完全に復活しています。
戦後すぐに、陛下自らが全国を回られ、お手植えで植林をしてまわられたからです。
陛下がお手ずから植林されるのです。
そりゃあ民間だって力がはいる。
(もっとも早く木が育ち、住宅建築に活かせるようにと、当時スギを大量に植えたおかげで、戦後日本では花粉症というやっかいなものまで普及したけれど、これはまた別の話です)

そしてまだ、大戦が始まる前の昭和13(1938)年、日本から、ひとりの人物が支那の華北産業科学研究所に赴任します。

日本を代表する穀物品種改良の大家、稲塚権次郎氏です。

飯塚権次郎氏は、明治30(1897)年の富山県城端町の貧しい農家の生まれです。

字の読めなかった彼の両親は、息子に惨めな思いはさせたくないと、無理をして息子を学校へ入れた。

優秀だった権次郎は、独学で東京帝大農科大学農学実科を受験し、みごと現役で合格し、卒業後、秋田県の農事試験場に勤務します。

ここで開発したのが、「雨にもマケズ」の詩で有名な宮沢賢治が「冷害に強い品種」と大絶賛した米「陸羽一三二号」です。

権次郎の偉いのは、単に新品種を開発するだけでなく、その普及にも奔走したこと。
おかげで、毎年冷害に悩まされた東北地方は、飢饉から救われています。

さらに冷害に強くて収量が多いだけでなく、もっと味の良い品種を、ということで権次郎が開発したのが「水稲農林一号」です。

これは現在のコシヒカリやササニシキ、秋田小町の親にあたります。

ちなみに韓国人も米を食べますが、禿山ばかりだった朝鮮半島でも人口が増えたのは、日本統治時代に、さかんに植林事業を行ったことと、稲塚権次郎が開発した農林一号の子供たちを、朝鮮総督府が半島で普及させたことによります。

要するに、朝鮮人が主食である米を腹いっぱい食べて人口を増やすことができたのも、稲塚権次郎の開発した米の品種があったからなのです。

さらに岩手県農事試験場に移った権次郎は、ここで小麦の研究を始めます。

そして苦心の末、昭和10(1935)年、「小麦農林10号」を誕生させています。

このことは以前、「小麦のお話」でも書かせていただきましたが、もともと小麦というのは、収穫期には高さ1M20cmくらいの大きさに成長する植物です。

これをたくさん収穫するために、15cm間隔くらいに詰めて植える。
そうすると背丈が高い分、地面の養分を大量に吸い上げるから、地味が枯れてしまって、何年かに一度は、土地が使い物にならなくなってしまう。

さらに小麦は、背が高くて大量の実をつけるから、頭が重い。
で、収穫期に台風などの風害があると、小麦が倒れてしまって、収穫できなくなってしまいます。

これらの諸問題を克服するために、飯塚権次郎がしたのは、小麦の品種を改良して、背を低くし、稔りが多くて収量が多い小麦を開発すること。

それで実現したのが「農林10号」です。

この小麦は、収穫期に高さ60cmにしかならない。背が低いのです。
しかも大量の実をつける。
だから、植える時も50cm間隔くらいに植えることが可能で、背が低い分、小麦全体の体積が小さくて、地面を枯らさない。
しかも倒れない。寒さに強い。

華北産業科学研究所に赴任した稲塚権次郎は、この小麦の子供たちを支那で普及させていきます。

農業というのは、土地に種を蒔けばほっといて収穫できるというような単純なものではありません。

途中で雑草を排除しなくちゃなんないし、変な虫が食わないように、防虫もしなければならない。
水の与え方も、それぞれ時期に応じて与え方があります。

権次郎は、自身で開発した農林10号の子供たちを、華北の人々に丁寧に育て方から伝授した。

やがて大東亜戦争が起こり、昭和20年8月、戦争が終わります。
日本は海外にあったすべての権益を放棄し、駐屯していた日本人たちも次々に日本に帰国します。

広大な研究用農地を持つ華北産業科学研究所も、まるごと支那に引き渡されることになった。

このとき、金陵大学で小麦の育種をしていた沈宗瀚博士は、施設の接収に来た際に、こう言ったと伝えられています。

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非常にいいものを作ってもらった。

私も方々歩いたけれども、こんな立派な試験場は見たことがない。

ほんとうにいいものをつくってもらった。

あなた方が許すことなら長くここに残って、この仕事を継続してもらいたい。
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結局、稲塚権次郎は、支那当局に徴用され、終戦後も2年間、研究所に残って指導を続けています。帰国したのは昭和22年です。

おかげで、支那の小麦の収量は、あっという間に3倍に成長します。

支那人の主食は、小麦です。
ラーメンも、餃子も、中華饅頭も、小麦が原料です。

おかげで支那人は、腹いっぱい飯が食えるようになり、食料がある分、人口も増えた。
当時、5億人だった支那の人口が、いまの15億人に増えたのは、大局的にみれば、支那で生産される小麦の収量が増えたからです。

そしてその小麦は、日本の稲塚権次郎が開発した小麦の子供たちなのです。