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 炭坑仕事歌―。炭坑節は、もともと炭坑の労働歌として生まれました。

子守唄、稲刈りや馬をひく時の歌、漁業の船乗りの歌、酒造りの歌など、そもそも今も地域で歌い継がれている伝統的な歌は単なる時代の流行歌などではなく、「その土地の、日常生活の中から生まれたもの」がほとんどなのではないかと思います。日常の大半を占め、まさに生活の中心にあった労働、そしてその労働の中で自然発生的に生まれてきた数々の歌。これらの歌の響きには、ゆったりとした節回しのもの、威勢の良いものなど様々なものがありますが、合いの手が入るものが多く、いわばその仕事に関わる人達が声を揃えて歌い継いできたことが想像できます。今の時代、オフィスや店舗での仕事中に鼻歌を歌えば、間違いなく大目玉をくらい、注意をされることになるでしょうが、これらの労働歌に感じることは、「歌うことで労働の生産効率が上がる」という特異点が認められていたのではないか、と言うことです。

 

いわゆる「テンポよく」という観点です。この、「労働の生産効率が上がる」については、経済学を研究されている方のエピソードとして、後々のブログでも少し触れることになると思います。

 

さて、作曲家や音楽専門家が作ったものではなく、労働者が、労働の中から自然発生的に作った歌―これは、現代の皆さん、音楽が好きな皆さんに例えて伝えるとすれば、「日本のブルース」とも言い換えることができるのではないかと思います。ちょっとオシャレに聞こえませんか(笑)

 

私のふるさと、田川にはたくさんの炭坑仕事歌が記録され、残されています。採炭唄(ゴットン節)、石刀唄(マイト節)、南蛮唄、選炭唄など。採炭=石炭をツルハシで掘る、石刀=硬い岩盤を爆破で崩すためのダイナマイト穴をあける、南蛮=坑内の資材や石炭等を、船の鍛冶のような形をした巻き上げ機械で巻き上げる、選炭=坑内から上がったものから、燃える石炭と、それ以外のゴミ(田川ではボタ、と呼んでいました、北海道あたりではズリ、でしたかね)により分ける、など、全てが炭坑の中で行われていた違う作業の現場から生まれたものでした。(ここでは割愛しますが、ここに書いたもののうち、南蛮唄は、山口県宇部地方にも残っているようです。宇部から伝わったと言われています。)

 

いつしかこれらの仕事歌は、地元田川の検番、博多や小倉、若松などのいわゆる花柳界に持ち込まれて三味線の伴奏が付き、日本の「戦後の復興は石炭から」の国策に乗って毎日のようにラジオから流れてくると、にわかに流行歌、そして盆踊りの定番とも言われる存在となりました。

 

もう一度言いますが、炭坑節は、炭坑の労働現場で歌われていた仕事歌でした。

 

仕事の憂さを晴らすために、時には上司たる役人への皮肉、はたまた恋しい人への淡い思いなどを率直に表現できたものが炭坑仕事歌なのです。全国で歌われている炭坑節は、もはや「流行歌としての炭坑節」であって、人々の思いがつまったメッセージソング、とは言えないのかも知れません。

 

「炭坑の中ではどんなことが行われていたのか、どんな思いで働いていたのか、歌い続けた人たちはどんな思いで口ずさんできたのか、―ここに詰まった思いを感じることが出来なければ、この炭坑仕事歌を歌う人にはなれない。」炭坑節が生まれたまち・田川の人間だからこそ、この歌の生まれた背景にまで目を向ける必要性を感じたのでした。

 

歴史的背景や実際の生活を学び、理解したものだけが「ホンモノ」を継承してほしい、誰もやらない分野なら自分自身で挑戦してみたい―。「歌う行為」そのものよりも、「歌うこと」そもそもの本質、そこにあるメッセージを読み解くこと、メッセージを自分の言葉で具現化することに興味を持ったことが、私のライフワーク「炭坑の文化を(もう一度)掘り起こす」のデフォルト的な、ベースアクションとなりました。