<成功と人生の目的と幸福について、3>

 

三、幸福とは

 

一方、「幸福」についても古今東西、多くの先人が論じてきています。が、例えば、「世界の三大幸福論」といわれるアランは、「健全な身体によって心の平静を得ること、すべての不運やつまらぬ物事に対して上機嫌にふるまうこと、社会的礼節の重要性」などを強調。

 

またラッセルは、「己の関心を外部に向け、活動的に生きること」とし、さらにヒルティは、「神のそば近くあることが永続的な幸福を約束する」などと実践論めいたことを言っていますがピンときませんし、ズバリ「幸福とは~」については答えていません。

 

この点、私は、幸福とは「平凡さの中の気楽さ」であり、言い換えると、「何ものからも自由であり、ありのままを受け入れられる心の状態」だと考えています。まず幸福感が人それぞれ、また状況次第であることから「心の状態」という相対的、主観的、心理的なものであることは間違いなさそうです。ポイントは「自由であること」です。

 

以前紹介したようにポスト・モダン(脱近代)などの現代哲学や、近年のAI(人工知能工学)で主張されている「受働意識仮説」では「自由意志」の存在は否定されています。

 

一方、量子物理学者R・ペンローズの「量子脳仮説」や、心の分析哲学者D・チャーマーズの「自然主義的(属性)二元論」では、宇宙に遍在する“元意識”の存在を認めていますが、前者では物質(脳ないし神経細胞)とそれを構成する素粒子を、後者では元意識を生み出した“神の一撃”の根拠は記述できていません。

 

 記述できていませんが、「意識」ないし「自由意志」の存在を完全否定するには至っておらず、あるいは、限定的とはいえその存在を認めていること、また、私たちの直感に近い実感としても、日々の何気ない局面での”閃き“とともに意思決定する場面に出くわすことは多々あります。

 

 少なくとも、ここでの幸福論との関係でいえば、人が生まれながらにして潜在意識の中に植え付けている、原始人類から蓄積された恐怖の記憶に振り回されない、つまり、「恐怖からの自由」は、意識的努力の下で達成可能であると言えるのでのではないかと考えます。

 

 そういう意味で、「何ものからも自由であり、ありのままを受け入れられる心の状態」こそが「幸福」であり、「人生の目的」であり、「真の成功」であると考えます。

 

 ただし、ここで私が言う「ありのまま」とは、多くの場合は「無為自然」を意味しますが、ときには「有為自然」、つまり、「何かをしたい、しなければならない」と感じるときは、流れに任せて「何かをすることも有り」だということで、この限りにおいて自由意志が機能する場合もあることを想定しています。

 

(次回に続く…)