‐11話‐ なぜ。。。 | 胆道閉鎖症の息子と歩む日々

胆道閉鎖症の息子と歩む日々

一万人に一人の確率でなる難病「胆道閉鎖症」を患った息子と歩む闘病記。





なぜ。。。









なぜ 息子なんだろう。。。












自ら 命を 粗末に扱ったり

授かった命を 軽く扱う人達が

山ほどいる 今の世で






なぜ 息子がこんな目に  

合わなければならないのか。。。







なぜ 私達なのか。。。。。。












考えたところで

どうにもならない言葉が

頭のなかで ぐるぐるとまわっていた








パパと実母には 報告をした。



パパは動揺していたが

実母は やはり強かった。






私が 前向きに考えられるようにと

気遣ってくれていることは わかっていた。












『前向きになって 頑張ろうね。』











目を背けたい現実は

日々 無理矢理 強制的に 呑み込まされ

周りの 環境や状況が 

私達の心を 無視して

どんどん 変わっていく








心が 追い付く筈もなく。。。













そんななかで

「前向きに」と言われても

( 無理に決まってるでしょ!! )

と 心で叫び、気の無い返事を

することしか できなかった。






時には

「 簡単に言わないでよ! 」

と 喧嘩腰に 言葉を返したこともあった。









勿論 母は 

簡単に 口にしていた 訳ではない。

今は 母の想いが しっかりわかる。









私が壊れていることは 

娘にも 

まだ生まれて間もない 息子にすら

良くない

私は 母親なのだから

乗り越えるしか ない

私が しっかりしないと

乗り越え られない









でも その頃 

母の前で 私は 子どもだった。












息子の 病気の疑いが出てから 二週間。

殆ど食べず

眠らず

お風呂にも入らず

私の体重は

気付けば 6キロも 減っていた。

母乳は 告知を受けた その日のうちに

完全に 出なくなっていた。







 日々やつれていく私。


淋しさの極限で 

健気に 笑顔をみせる お姉ちゃん。


母である私に 笑顔や声を かけてもらえない

息子。






それを 見ていた母は
  
やるせなく 辛かっただろう。








母は

私と  お姉ちゃんと  息子

3人分の 心配を 

しなければならなかった。


















大学病院へ 転院する 前夜。

パパが 家族皆の お弁当を作って 

娘と 病室に現れた。







パパは 私より遥かに 料理が得意で

パパの作る お弁当は 彩りも綺麗で

味は 最高に美味しく

私も娘も 大好きだった。








そして 狭い病室で 

お弁当を 家族揃って食べた。











転院先の N大学病院は 

高速をつかっても 

家から 1時間はかかる距離。







長くなるかもしれない 入院生活。

家計のことを 考えると 

家族で会えるのは 頻繁でも

週に1回 だろうと

パパと話していた。













娘は「ママ命」なところがあり

私のためなら 何でもやってのける根性を

持ち合わせていたけれど、

私と 更に 離れてしまうことで

どうなってしまうのか

とても不安で

勿論 私も かなりの 淋しさがあった。






でも

娘の 不安や淋しさは 

そんなものではない。







家族揃っての お弁当は

そんな 私と娘を 想った

パパの 粋な 計らいだった。







私も 娘を 安心させようと

できる限りの 笑顔をみせた。









面会時間を過ぎても 

娘は帰りたくないと 珍しく ごねた。







看護師さんは 事情を考慮してくださり

『個室ですから まだいいですよ』

と 笑顔で対応してくれた。







娘が 不憫で 愛しくて

切なさで 胸がはち切れそうになり

涙を堪えることで 精一杯だった。











帰り エレベーターで見送る時は

直前まで パパと私で 

たくさん励ましたのもあり

娘は 笑顔で 帰って行った。












扉が閉まり

泣き崩れたのは

私の方だった













先の 全く見えない 

後戻りの できない

真っ暗な トンネルに

ひとりで 立たされた

そんな 感覚。

何故か とてつもなく

孤独 だった。













家族皆が 揃って 

ひとつ屋根の下で 過ごすことは

「当たり前」ではない のだと

心底 痛感した 瞬間だった。














 
生活に 追われながらも

家族みんなの 

笑顔や 笑い声が 溢れていた

「 我が家の 当たり前 」を 

取り戻したい 

誰ひとり 欠けることなく。。。



















涙が 枯れるほど 

流した後に 残った

初めての 

はっきりとした

前向きな気持ち だった。



















2010年 11月11日  


市民病院  最後の夜。

つき  生後53日。