【木瀬部屋】について
今日は、いっちゃんが所属している「木瀬部屋」についてお話します。
私が調べたことですので、もしかしたら間違っている所もあるかもしれませんが、お気づきの方は教えて下さいm(_ _)m
相撲部屋は、現在、出羽海一門、二所ノ関一門、高砂一門、立浪一門、時津風一門、と五種分かれています。
【出羽海一門】
北の湖部屋、武蔵川部屋、出羽海部屋、
三保ヶ関部屋、玉ノ井部屋、千賀ノ浦部屋、
入間川部屋、境川部屋、春日野部屋、
田子ノ浦部屋、木瀬部屋、尾上部屋
【二所ノ関一門】
間垣部屋、放駒部屋、二所ノ関部屋、
荒磯部屋、尾車部屋、鳴戸部屋、
片男波部屋、松ヶ根部屋、峰崎部屋、
芝田山部屋、阿武松部屋、花籠部屋、
貴乃花部屋、大嶽部屋、佐渡ヶ嶽部屋
【高砂一門】
高砂部屋、九重部屋、中村部屋、
東関部屋、八角部屋、錦戸部屋、
高田川部屋
【立浪一門】
大島部屋、友綱部屋、伊勢ヶ濱部屋、
朝日山部屋、桐山部屋、安治川部屋、
高島部屋、追手風部屋、春日山部屋、
立浪部屋、宮城野部屋
【時津風一門】
伊勢ノ海部屋、湊部屋、時津風部屋、
荒汐部屋、式秀部屋、鏡山部屋、
井筒部屋、陸奥部屋、錣山部屋
木瀬部屋は「出羽一門」に所属しています
木瀬部屋誕生ですが、初代の方はいつ襲名したのかわかりませんでしたが、読者でも大変お世話になっているエレムンさんから教えて頂きましたが
「宝暦13年(1763年)に年寄 木村瀬平として名前が残っている」とのことです!
詳しくはWikipediaに載っていました
それ+エレムンさんからもっと詳しいことを教えて頂きましたので、付け加えて書かせて頂きますヾ(@^▽^@)ノ
エレムンさん、貴重なたくさんの情報をありがとうございましたm(_ _)m
木村瀬平(きむらせへい)は日本相撲協会の年寄名跡のひとつで、木瀬(きせ)の通称で呼ばれている。由来は行司名がそのまま名跡となったものである。
初代 行司・木村瀬平 【経歴不明】
◆2代目 行司・9代木村庄之助 【経歴不明】
3代目 行司・木村正三郎 【経歴不明】
◆4代目 一力長五郎(前頭筆頭)
【木村庄之助-木村瀬平部屋 二枚鑑礼・現役没(1859年[安政6年]8月)】
※二枚鑑礼・・・力士または行司が年寄を兼任すること。
◆5代目 錦戸團右衛門(最高位不明)【所属部屋、経歴不明】
◆6代目 行司・3代木村庄五郎 【経歴不明】
◆7代目 行司・4代木村庄五郎 【経歴不明】
8代目 太刀ノ海浪右エ門(前頭3枚目)
【1925年[大正14年]1月~1947年[昭和22年]11月廃業】
◆9代目 桂川質郎(前頭筆頭)
【1948年[昭和23年]5月~1967年[昭和42年]5月廃業】
◆10代目 清の盛政夫(前頭9枚目)
【1967年[昭和42年]5月~2000年[平成12年]4月退職】
◆11代目 肥後ノ海直哉(前頭筆頭)
【2002年[平成14年]11月~】
※8代目~11代目の詳細は下記に記します。
◆・・・部屋持ちの親方
「力士名鑑」の本で調べたところ、初めての年寄名として載っていた方が、
8代目『太刀ノ海 浪右ヱ門(前頭3枚目)』です。
太刀ノ海は、四股名が示す通り、横綱 太刀山 峰右ヱ門 の弟子です。所属部屋は、友綱部屋→東関部屋→高砂部屋。突っ張り、左四つ、つり出しが得意で番付運が良く、前頭3枚目まで昇進したが、病気がちで休みが多かった力士。引退後は、年寄 木村 瀬平(通称 木瀬)を襲名。(昭和22年11月廃業)
『木村 瀬平』・・・について、こんな記事がありました!
明治38年(1905年)の1月場所 5日目の、太刀山―駒ヶ嶽 戦の時、駒ヶ嶽の攻めに太刀山はこらえきれず、土俵下へ。このときの太刀山の投げ足が、下で控えていた瀬平を直撃。瀬平は後ろにひっくり返り苦しんだが、このときは元気を取り戻して次の一番を無事に務めた。6日目、7日目は大事をとって休場、8日目に再び土俵に上がった。ところが翌日の朝、自宅の布団の中で急死。医師の診断では、太刀山に押し潰されたことによる心臓マヒと判明された。瀬平は酒好きで、心臓を悪くしていたそうです。
このお話から、もしかしたら 立行司 木村 瀬平の冥福を祈るために年寄名として使われたのかもしれない・・・と思っていましたが、Wikipediaのお話から全く関係ないのでしょうね!?
次に木瀬(木村 瀬平)を襲名したのが、9代目『桂川 質郎(前頭筆頭)』です。
次に木瀬(木村 瀬平)を襲名したのが、9代目『桂川 質郎(前頭筆頭)』です。
桂川は、楯山部屋→伊勢ヶ濱部屋に所属。小柄ながら、突っ張り、投げ、つり、と真正面から相手に当たっていく小気味いい取り口だったそうです。昭和17年春場所、15日制になってから、幕内初の全敗という不名誉な記録を残している。年寄木瀬は、女婿の10代目『清の盛 政夫(前頭9枚目)』に譲った。(昭和42年5月廃業)
清の盛は、伊勢ヶ濱部屋に所属。長身のソップ型力士で、投げ、足技と、多彩な技を繰り出していた。美男と格好の良さで女性ファンが多かった。昭和38年九州場所は、師匠で岳父の桂川と同じ、15戦全敗を記録している。青葉山 弘年(小結)を育てた。(平成12年4月定年退職)
そして、現在の親方、11代目『肥後ノ海 直哉(前頭筆頭)』が、平成15年12月1日付で、所属していた三保ヶ関部屋より、7人の弟子を連れて独立しました。
肥後ノ海は、三保ヶ関部屋に所属。日大相撲部出身で学生横綱となり、幕下付出で初土俵。入門3場所目に幕下で全勝優勝をして十両昇進。デビュー以来8場所連続勝ち越し。入幕してから連続53場所幕内を務めたという記録を持つ。低い姿勢からの左四つ、出し投げの切れは鋭く、相手を崩してから前へ出る相撲うまい技能相撲が得意でした。
木瀬部屋からどんな関取さんが新たに誕生していくのか楽しみですね