NHK総合テレビ 12月22日(水)午後10:00~10:49

21年前、松田さんの遺作となったTVドラマで共演を果たした香川さんは、雲の上の存在である松田さんから、「お前はオレになれる」という意味深な言葉をかけられます。だがまもなく松田さんは他界してしまいました。
あの時、松田さんは自分に何を伝えようとしたのか、その答えを探すために、香川さんは、“ラストデイズ”を辿る旅に出ます。
番組HP(
http://www.nhk.or.jp/tamago/program/20101222_doc.html より


楽しみにしていた番組。印象に残った言葉を書き綴っただけだが、どちらかと言うと香川照之さんについて初めて知ることが多かったのでその辺りが中心になってしまったことを最初にお断りしておく。



ナレーションが、西島秀俊さん。いい声だ。

そのやわらかな声の響きと、内容のハードさがほんの少しアンバランスな気がしたくらい濃い番組だった。


松田優作さんと言えば、やっぱりGパン刑事。

子供だったが、「太陽にほえろ!」は見ていたので、あの有名な最後の殉職シーンでの「なんじゃ?こりゃあ!」は鮮烈に印象に残っていた。その時は、彼が山口県出身だと知っていたせいもあったが、山口弁が聞けたのがものすごくうれしかったのを記憶している。その後、何かにつけTVでそのシーンを見たりいろんな人がマネするとは思ってもみなかったが。(笑)


他にも彼の作品はかなり見ているが、異色の俳優という強烈なイメージだけが残っていた。

その後、「ハゲタカ」にハマった私にとっては西野治役の松田龍平のお父さんになってしまった。(笑)


松田優作は在日韓国人3世の母を持ち、下関でも有数の遊郭で父親を知らずに私生児として育ったと言う。

ぼんやりとは知っていたが、在日韓国人だとは知らなかった。


高校時代の親友を訪ねる香川さん。

どういう少年だったかと聞かれ、

「牛乳配達をしてた。まじめな、地味な、目立つ方ではなかった。」と同級生。

「得てしてそういう人が、僕もそうなんですけど全然目立つ方じゃなかったし、そういう人が俳優になってしまう。」と香川さん。


昭和55年の「徹子の部屋」より松田優作本人の声が流れる。

「自分の親父がわからないことが、分かったりしてもろもろいろんな事情がはっきりし始める、多感な時期だったもんですから、気持ち的になんかこう、そういう環境みたいなものが、わりとやっぱり、幼心につらかたんじゃないでしょうかねぇ」


「下関ではなにやっても幸せだと思えなかったと思うんだよね。

・・・・仕方ないから学校行って、仕方ないからご飯食べて、仕方ないから・・・・

よくわかる。オレもそうだったから。」

と、香川さん。ちょっとびっくり。


市川猿之助と女優の母親は、香川さんが2歳のときに離婚。父親とは会うこともままならず、母親はいつも多忙だった。


「孤独。孤独はもちろんだけれど。だから友達もいないし、全部本心じゃないし、嘘をついているし。僕は世界が終わればいいと思っていた。」


「それなりの家庭だと思われていたみたいだけど・・・上からちゃんと見たら同じですよ。そうじゃなきゃ、こんな芝居にはなっていないわけですよ。俺がこの芝居を、自分の芝居をやっているってことは、それなりのコンプレックスやおかしな怒りがあるわけですよ。ということは、家庭がねじくれ曲がっているんですよ」

と、苦い表情で吐き捨てるように話す香川さん。

見ているこちらが辛くなるような・・・。


「もちろん、優作さんの方がハードだし大変だったと思うけど、なんか似てる気がするんですよ」


ちょっとショックだった。私の母親がドラマ好きで彼女が興味を持った人物に関してはすぐにレクチャーがあるので、その情報だと、香川さんは猿之助と浜木綿子の息子で東大出のエリートだという事になっていた。歌舞伎をやっていないのは、離婚したからだと。その程度の認識だった。


映画「ブラックレイン」の撮影地ロサンゼルスを訪ねる。


父親の不在と言う出自をともに持つ優作と自分。

でも自分は映画に全てをかけることができるか。と、自らに問う香川さん。


「映画の父の国」アメリカでも優作が特別な存在であったエピソードも紹介される。

ブラックレインでの演技について、上層部からクレームが来た時も、優作はりドリー・スコット監督に自分の考えを伝え、結局それが採用された。


映画「野獣死すべし」の優作のシナリオが映し出される。

驚くべきことに、オリジナルの活字の2倍は書き込みがしてあるし、セリフについては修正していないラインは無いほどだ。上部の余白もびっしりと文字が書き込んであり、それには全く修正がないし、漢字を使うべきところは正確に使ってある。多くの本を読みきちんと勉強した人の書く文章だ。


「自らセリフを書き、納得するまで推敲を重ねた。」そうだ。


そして、そのすざまじい情熱を相手にも求め、監督と意見が対立し監督を解任したこともあった。


「ぼくの場合、とことんやってしまうもんだからどうしても安全な距離をふみはずしちゃって破綻してしまう」と優作。


日本映画界で孤立していく中、ブラックレインの撮影に入ったそうだ。

その撮影現場を訪ねて、日本とは比べ物にならないスケール感に優作がどう感じたのかと思いをはせる香川さん。


「『お前とオレとはタイプが違うけど、お前はオレになれるから』一語一句違わずこれなんだよ。今でも100%コピーできる。・・・・わからん!なんなんだろう?ホントに」と、頭を抱える香川さん。

ブラックレインの関係者達に会って色々と優作さんのことを聞いた後だ。


優作さんが通っていたと言う現地のすし屋で自分のこと、生い立ちを語り始めた香川さん。


「父親知らなかったんですよ、ずっと。そんな中で、優作さんと会ったんですよ。オレは優作さんのことを父親だと一瞬思ったの」

「この人に何でも聞けばこたえられるんだと、初めて人生で父親を見つけたと思ったら、2カ月で逝っちゃうからさぁ」


25歳くらいの時に、このままじゃもう父親に会えないと思って、急に思い立って「彼」が歌舞伎をしてるところに会いに行ったそうだ。

その時の猿之助のセリフを聞いて、私はものすごくショックだった。


「あんたはオレの子供じゃないから」って言われて。

「あんたを捨てたところからオレの人生が始まってるんだから、来ないで」って。


それで、自分の人生はいかに父親に縁が無いかと思ったと。

優作と自分が共に背負う、生い立ちという心の傷。

自らの心の傷に向き合っていた香川さんへのインタビュー。


「歌舞伎の血があるってことが、優作さんに否定しがたく韓国の血が流れてそれを否定していた・・・オレの中にも同じくらい引け目のものとして歌舞伎の血が・・・。歌舞伎は父性。あれは男が継いでいくものだからね。女性は一切入れないし。その家業を持ちながら、父親がいないことの逆説だよね。歌舞伎をやっていないという負い目。今は非常に負い目に思っている。

子供に申し訳ないと思うよね。「お父さん、なんでやってないの?」って。。。

『おじいちゃんとおばあちゃんが離婚したからだよ』って、人のせいにはできない。

ちゃんとしてあげる、父性の流れって言うか・・・それがオレで分断されているってことが、先祖に対して申し訳ないって思った。」

と、涙をこらえる香川さんを見ていると、おこがましいが不憫でならなかった。


「そして今、子供が出来たことで途絶えていた父親とのきずなは繋がり始めている

香川は、自らの負い目を胸に俳優としての高みを目指している」


「つき進めているエネルギーはもちろん負のエネルギー。でも負のエネルギーというよりは正のエネルギーだよね。

正しい人間に少なくともなりたいと思っている。それが突き動かしているエネルギー。

何か2つあったらきつい方を選ぶとそうすると、少しでも正しい人間になれると。」

この間画面では「龍馬伝」の弥太郎の汚れシーンの数々のシーンが流れて行く。


龍馬伝のセミナーで、きつい現場だったが香川さんがそれを楽しんでいる様子を見てみんな、その大変さを楽しみに変えることができるようになったと言うのを聞いたのを思いだした。

それに、映画「あしたのジョー」の丹下役の香川さんがどれほど現場でみんなを盛り上げてリードしていたかを力石(伊勢谷友介)とジョー(山下智久)の試合のエキストラとして参加したひとのブログで知ったことも思いだした。

松田優作が最後に目指したものは、「父なる存在になること」だったそうだ。


優作さんが現場において見せてくれたのが、その父なる存在だった。

香川さんは言う。

「現場でみんなが100%出し切れるよう、気持ちのいいセッティングと気持ちのいい空間と、みたいなのをずっと出していて、それはやっぱり、優作さんはもう、自分がどうのというステージには立ってなかったですよね。それが、やっぱり父親だとおもうんですよね。」


そして、優作さんが遺したセリフ。

「お前は、オレになれる」


21年前、優作は自分に何を託そうとしたのか?


「優作さんはぼくのどこを、何を見ていたのか?本当に聞きたい。未だにわからないんだ。・・・

全的な責任を持って生きる、つなげていく存在であれってことですよね。

・・・・

優作さんの年を越えて、がんばって父親になっていきます。

私生活でも、カメラの前でも。

人間だからできないこともいっぱいあるけど、駄目なこともあるけど。

なるべく・・・ちゃんとしていたい。正しくありたいと思います。

少しずつでも近付いているって言ってもらえるとうれしいかな。

・・・・・・・・

ありがとうございます。

そしてまた、逢いましょう」


終わり