暗闇に沈む西洋(1)
 「これ以後アレクサンドリアは、もはや哲学者によって悩まされることがなかった」(ラッセル)。東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝は、非キリスト教学校の閉鎖を国策とし、五二九年、プラトン以来のアテネのアカデメイアを閉鎖した。ちなみに大帝とは、キリスト教の支援に、ことのほか貢献した皇帝に授与された称号である。また、愛知学者が逃れたのは、ササン朝のペルシャ帝国だった。
 歴史家は、西洋史を一般化して、「中世の暗黒時代」と呼称する。しかしこれは、「われわれが不当に西欧にのみ注目を集中しているしるしである」(ラッセル)。世界史を枠組みとすれば、この時代を通して中華文明とペルシャ文明は繁栄を誇り、イスラーム文明という新たな文明が誕生した。
 ウィーンの森を出発したゲルマンの諸部族は、文明に遭遇し、それを受容してさらに飛躍発展させる名誉ある機会を、天によって与えられた。ヨーロッパはかくも有望な出発をしたのだが、知的創造力にあふれる人間精神のエネルギーを回復するのに、まるまる千年という歳月を、むなしく過ごさねばならなかった。
 「ギリシャ人の王朝が崩壊し、ローマ皇帝が主権を獲得してキリスト教を公認したとき、ローマ人はキリスト教聖職者やキリスト教の教義の要求する通り、叡知の学問を捨てた」(イブン・ハルドゥーン)。そして、こんな西洋を近代思想へと導いたのが、イスラームだった。
 人は、事ある度に、「もしも・・・だったら」、「もしも・・・であれば」、と事実に反することを考えて、一喜一憂する。人間は、本能のままにおもむく動物と違い、良しにつけ悪しにつけ、反省して進歩する能力を授けられているからだ。歴史の考察において、「もしも」と仮説を考えないならば、未来を切り開くことはできないし、過去を振り返ることそのものが無意味な作業となる。
 もしも、西洋で忘れ去られ、東洋の隠れ家に潜んでいたギリシャ文明の学問を救済する人びとが現れなかったら、「このことを考えるのは恐ろしいことだが」(ジクリト・フンケ)、ギリシャの学問は、インカ文明やマヤ文明のように消滅してしまったであろう。