キリスト教の興隆(4)

 ペルシャの国境に近い、ユーフラテス河畔の小村で、司教が修道士を扇動してシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を焼き払ったことがあった。属州総督はこの司教を処罰し、教会堂を再建するか、さもなくば損害を賠償するよう命じ、帝もこの極めて妥当な判決を支持した。大司教はこれを不服とし、あたかも帝が割礼を受けてユダヤ教に改宗したかのように非難した。彼は、ユダヤ教徒に対する寛容はキリスト教への迫害であり、司教と修道士が無罪とならない限り、断じて聖餐に応じないと宣言した。帝は慈父の要請を誠実に受け入れた。
 「明らかなことだが、聖アンブロシウスの見解によれば、ユダヤ人集会堂が廃塵に帰したことは、いかようにも処罰されるべきことではなかったのだ。これは、教会が権力を獲得するや否や、反ユダヤ主義をあおりたて始めたやり方の、好例なのである」(バートランド・ラッセル)。熱狂的な信者による暴走は、もはや総督の手に負えなくなっていた。
 彼らは教会の錦の御旗を先頭にして繰り出し、あちこちで万神殿、シナゴーグを破壊し、成果を競い合った。当時、三九一年、あるいは三九二年ころ、アレクサンドリア司教の地位にあったテオフィルスは、「常時、平和と善行との敵であり、大胆な悪人で、その手は時に黄金に時に生血に汚されていた」(ギボン)。彼は万神殿の破壊を帝に願い出て、首尾よくその裁可を得た。