キリスト教の興隆(1)
 そして、エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』で、「人間精神史における特異な事件」、と指摘する事件が、パクスロマーナ(ローマの平和)と言われる時代に起きた。それがすなわち、キリスト教の未曾有の発展である。
 ローマ帝国は、帝国の支配に従順である限り、異民族、異教徒に寛大な施政を敷いた。皇帝はローマの神々だけでなく、異民族の神々を祀るためにパンテオン(万神殿)を帝都に建設した。アレクサンドリアのセラペイオン、ムセイオンには、やおよろずの神々が祀られていた。そこは最高の学林でもあり、図書館も万巻の書物を収蔵して併設されていた。ユダヤ・ローマ戦争(六六―七〇年)で、皇帝が聖地エルサレムの神殿を破壊したのは、ユダヤ民族がパクスロマーナ、ローマ法の支配に反抗したからだった。
 救世主(キリスト)イエスが神に召された後、救世主の信者の数は次第に増えていった。それは、帝国が信仰の自由を認めていたからにほかならない。しかし、初期教会の中には、あまりに熱狂的な信仰のゆえに、やや常軌を逸した指導者たちがいた。
 彼らは敬虔な信者を扇動し、やおよろずの神々は偽りの神々にしかすぎない、と多神教徒を攻撃した。彼らの宣教があまりに攻撃的だったので、対立する陣営の復讐心を煽った。そこで多神教徒たちも、救世主の信者こそ不信仰者で無神論者だ、と反撃した。そのころ、多神教徒が圧倒的多数を占め、救世主の信者はごくわずかな少数派だった。
 このため、紛争では、少数派の救世主信者らがしばしば危機に立たされた。彼らが官憲の尋問、拷問を受け、投獄されたり、処刑されたこともあった。しかし、
 「現存する資料によれば、キリスト教徒たちはたいていの場合ローマ法と厳格な遵法精神によって不法な大量虐殺から護られていた、とある。つまり、キリスト教徒はしかるべき裁判に拠らなければ処刑されることはなかったのである。また、判事の数はこのような審理を次々に捌いてゆけるほど多くはなかった」(キース・ホプキンズ)。法の裁きの下に、信者が加害者であれば処罰され、被害者であれば護られた。
 こうして、ローマ法の支配に保護され、また教会指導者の熱狂的な布教活動に支えられ、信者の数はさらに増え続けた。これに呼応するかのように、教会にとりまさに天佑かのような事件が頻発するようになる。蛮族がヨーロッパの森を突き抜け、帝国に侵入を繰り返し始めたのだ。