写真は錠之介の扮装はしておりますが、故人のプライベートショットの為、©戸野廣浩司記念劇場とさせていただきました。
12月10日夜
親友・狭間鉄さんと新宿のションベン横丁で飲む。
おつまみは冷やしトマトと冷奴。
この時の様子は、『戸野廣浩司記念劇場』のパンフレットに狭間さん自身が書いてくれております。
『かたみ「尺五寸の柄のなぐり」
実はここに私の友人のことを書くのですが・・・・
劇団の同期、ロケ先で死んだ友のことを、しかし文章を綴れないのです。
思うように・・・・
彼の名は、トノヒロ・コウジ。
子供向けではあったけれど、高い人気のテレビドラマ
『快傑ライオン丸』の敵役・虎ジョウノスケが彼でした。
「明日、朝一だから、帰るな」と彼。
「おお、ありがとう、なぐり。借りるな。」と私。
「二泊だから、稽古初日には間に合うよ」といつもの笑顔。
「そうか、気を付けて」
十二月に入ってなんとなく騒がしく、忙しない、
新宿の線路脇の行きつけの飲み屋での・・・・・
生の焼酎一杯四十円 炭酸一本三十円 トマト半分に粗塩三十円
芝居の話を 舞台の夢を あつく語り合った私達の第二の稽古場
もう四十年近く前の彼との最後の会話である。』(パンフレットより抜粋)
12月11日
戸野広さんは「快傑ライオン丸」第40話「大魔王ゴースン再び怒る!」第41話「大魔王ゴースン・あの胸を狙え」の撮影のために彦根に入ります。
当日のロケは昼で終わり、錠之介にとっては宿敵の獅子丸を演じている潮哲也さんと初めてこの日2人だけで飲みます。
ムック本「快傑・風雲ライオン丸」の潮哲也半世紀によれば、お酒が大好きな二人が「じゃあ、呑もう」と意見が一致して飲み始めたそうです。
20代前半の二人はそれはもういろいろな話をしたそうです。
そして、「ちょっと酔い覚ましにでもいこうか」とどちらからともなく、琵琶湖のほとりに散歩にでました。
傍らに干してあった大根を拝借して「うまいな~」と二人で齧りながらあるいたそうです。(この本には時効だから書きますと書いてありました)
潮さんにとって現実でもあり夢でもありそうな幻想的な夜だったとの事です。
そして、「お互いこれからも頑張っていこう」と誓い合って宿に戻りました。
(この宿というのは滋賀県彦根市松原町の国民宿舎・湖城荘という宿です。今は営業してないみたいです。)
翌日の出番がない戸野広さんは「俺、もう少し飲むわ」と言ってスタッフの飲み会に合流しに行ったそうです。
潮さんが別れ際にパッと見るとお銚子が10本近く転がっていたそうです。この時点で一升近く二人で飲んでいたとのことです。
これが、永遠のライバル・獅子丸と錠之介の永遠の別れになったのです。
そして、この本の次の場面では寝ていた潮さんが「起きろ!」とスタッフに頬をたたかれるところになります。
その間のことは「スペクトルマンVSライオン丸」という本の中の鷺巣プロデューサーのインタビューで語られております。
しかし、鷺巣氏も現場にいなかったので、駆け付けた際に聞いた話だそうです。
ロケ隊と合流した戸野広さんは、なおも飲み続けていたようです。
昨年はこの後の部分を以下のように書きましたが、多少違っていたようです。
『そして夜宿舎の消灯時間が過ぎた後に、喉が乾いて水を飲みに向かった先が風呂場でした。
洗面所が真っ暗で蛇口が分からないので、仕方なく風呂場のカランで水を飲もうと女湯のほうに入って行ったのです。』
実は水を飲みに行ったと語られていた部分は間違いで、知り合いの住職さんや狭間さんの証言で、入浴していたということがわかりました。
さらに、従兄弟のすーさんの話では、戸野広さんは酔って入浴はしない方だったとのことです。何故、この日に限って・・・。悔やまれるところです。
話は続きます
そこで暗くて段差が見えずにつまずいて、つんのめってガラス戸に突っ込んでしまったらしいです。
ガラスの破片が脇腹に刺さったまま湯船に落ちて、酔っているから立ち上がれずにそのまま・・・。
これが午後10時10分とされています。
鷺巣さんが連絡を受けたのが12時過ぎ。
この間のスタッフの慌てようは先の文献「快傑・風雲ライオン丸」の小助役の梅地徳彦さんのインタビューで語られております。
子役だった梅地さんは、撮影が終わりみんなで食事して母親と部屋で寝ていたそうです。
すると、廊下が騒がしくなって「誰かが風呂場でたおれたぞ~!」という大きい声が聞こえ、みんなが走って行ったそうです。
母親が出て行って、戻ってくると「いいから、早く寝なさい」と言われ本当の事を教えてくれなかったそうです。
多分、9時~10時くらいのことじゃないかと思うとまとまっています。
その後は。。。
先の潮さん自伝に戻ります。
「起きろ!」と怒り声とも焦り声ともつかぬ声で起こされた潮さんに対し、
「すぐに病院に行ってほしい」といわれました。
潮「いったい、全体なんですか!?」と寝ぼけ眼で聞くと
「戸野広が大けがして、病院に運ばれたんだよ!」と言われたそうです。
ついさっきまで、一緒に呑んでたのに・・・。
半睡状態のような状態で病院に駆け付けた潮さん。
到着した時には既に亡くなっていたそうです。
「ええ!今まで・・・ついさっきまで、一緒に話してたのに!」
「一緒にこれからもがんばろう」と誓い合った直後でした。
潮さんはショックで、このあとのロケには参加できなかったとの事です。
翌朝ー。
Pプロ社長であり「快傑ライオン丸」のプロデューサーである鷺巣さんが駆けつけます。
ここからは先の「スペクトルマンVSライオン丸」のインタビューです。
1972年12月12日
氷雨の降る寒い朝だったそうです。
鷺巣さんが駆けつけた時には東京から、戸野広さんの許嫁が来ていたそうです。
見ているのが、つらかった。涙をこらえているからよけいにね。
発見された湯船は真っ赤だったそうです。
この後の部分も実は間違っておりました。
『プロデューサーである鷺巣さんは、四国の山奥にある戸野広さんの実家に事故の報告に向かいます。
到着が夜8時。山奥のために暗闇だったそうです。
真の闇というのをはじめて体験した(鷺巣)
戸野広さんのご両親は二人とも学校の先生だったそうです。
鷺巣さんと別所プロデューサーはとにかくありのままを言葉に詰まりながらご両親に説明したそうです。
じっと聞いていたお父さんは
「本人が自分で求めて、本人が選んだ道ですから、あの子も本望だったでしょう」
とポツリとつぶやいたようです・・・。 』
まず、戸野広さんの故郷は、広島県三原市で四国ではありません。
鷺巣氏は実家には向かっていない事がお母様の証言でわかりました。
連絡を受けた戸野廣家はお父様とお母様ですぐに彦根に向かいます。
ご両親が病院に着いたときは、劇団青俳の同期のみなさんが戸野広さんの周りで見守っていたそうです。
ご両親の到着に「どうぞ・・・」と誰かが声をかけてみなさんが気を使い部屋を出て行ったようでした。
狭間さんのお話では、許婚の吉良さんは、泣いて泣いてこんなに涙が出るのかって思うほど泣き続けたそうです。
この日のロケは中止。
潮哲也さんはショックのため東京に帰ってしまったそうです。
今、40話、41話を見ると不自然に気ぐるみだけで物語が進んでいます。
ここから後は今年新しく追記です。
戸野広浩司さんは無言で故郷への帰還をします。
お通夜には鷺巣さんの姿はなかったとの事。
親友の住職さんは泣けて泣けて仕方がなかったと語ってくれました。
戸野広家からご自宅までは歩くと30分以上あるんですが、泣きながら歩いて帰ったそうです。
親友の狭間さんはどうされていたのか?荼毘に伏してからの話は寄稿して頂いた文の中に記載されておりました。
『広島県三原市生田町。
彼を荼毘に伏して、その足で彼の撮り残しのツーカットを、
代役しに東京のロケ現場へ向かった。
十二月の早朝の多摩川の水は冷たかった。
髭をきれいに剃って、彼に、虎ジョウノスケになって・・・・』
40話の変身シーンは戸野広さんの代役で狭間さんが演じていたとの事です。
戸野広さんが撮影済みだった部分は使われております。
当然アフレコはできなかった為、池田勝さんが戸野広さんの声を担当しています。
この回をみるにつけ、画面の裏側で起こった悲劇を思い起こしてしまいます。
今年、オープンした戸野廣浩司記念劇場。オープニングに寄せての狭間鉄さんの文章は以下の言葉で締めくくられてます。
『なんだか気の会う、仲の良い、という関係から、
お互いに少しずつ分り合う関係に、
「一生付き合うだろうなぁ、こいつとは」と思いはじめた矢先の彼の死・・・・
かたづかない気持ちと、『尺五寸の柄のなぐり』と、
語り合った夢と、が残って・・・・・
そして・・・・今日
「トノ、あのな・・・・」と私
「・・・・・・。」といつもの笑顔の彼
戸野廣浩司 記念劇場オープンによせて』