というわけで「功利主義入門」です
功利主義といえばサンデルのトロリー問題で有名ですね。
「暴走したトロリーの進む線路の上に5人の作業員がいる。
このまま進めば、間違いなく5人が死ぬ。
しかし、線路のレバーを動かしてルートを変えれば、5人は助かる。
その代わり、そちらのルートにいる一人の作業員が死ぬ。
この時、レバーを操作するべきなのか」みたいなやつ。
あと、この本で出されているもう一つの事例としては
「火事の建物から一人しか助け出すことができない場合に、あなたの父であるウェイターか、『ハリー・ポッター』シリーズを構想中のJ.K.ローリングのいずれかしか助けられない場合に、あなたはどうすべきか」
功利主義的にいけば、一問目はひとりを殺し、
二問目はJ.K.ローリングを助けることを選択しなくてはならないんですよね。
一問目でも十分キツイですけど、特に二問目は心理的抵抗がありません?
一問目はまだ認知的判断で処理できるものの、
二問目のように直観に訴えてくる問題だと、やはり感情的にクるそうですね。
この抵抗は、われわれがみな持ち合わせる功利主義的な思考と非功利主義的な思考の間で生じる葛藤なのだそうです。
でも、功利主義者に言わせれば、
「身近な人とそうでない人の間に道徳的な差はない。自分の身の回りの人を助ける義務があるなら遠い人の国の飢餓や病気で死にかけている人を助けるべき」(ピーター・シンガー)
だそうですよ。
でも、これはあまりに人格の個別性を無視してるんですけどね
最大多数の最大幸福の難しいところは、
幸せの定義が人によって、文化によって、国によって違うところです。
アマルティア・センが唱えた例として、
「非常な貧困な家庭に生まれてまともな教育を受けずに育ったインド人の女性がいる。
そういう女性に「あなたにとって幸福とはなんですか」と尋ねると、おそらく「衣食住が満たされれば幸せだ」と答えるだろう。続けて、「女性の参政権や、女性の教育や就労の機械の保証は幸福につながると思いますか」と聞くと、おそらく教育を受けていない彼女は参政権が何かも知らず、教育や仕事がどうして自分の幸福に役立つのか理解できないだろう。さてこの場合、本人は欲していないからと言って、教育の機会や参政権を与えなくてもいいのだろうか」
このように非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまう。
つまり、自分の生まれ育った「身の丈相応」にしか幸福を望まない人々がいるわけです。
こう考えると、身分制や階級制度はひょっとしたら個人の幸福感の充足に機能するかもしれないんですね
(ちなみに似たような話が、あとで記事に書く「絶望の国の幸福な若者たち」にもあります)
でも、それって本当にいいの?って感じですよね。
あともうひとつ面白かったのは、
「人間一人ひとりの命の重さは同じ」という命題があるとしたら、
一人の死が悲劇なら千人の死は千倍の悲劇ということになります。
しかし、人間の心理的におかしなところは、
千人の死者よりも一人の死者に深く同情するようなのです。
日本で餓死した子どもに過度の同情をしても
後進国で餓死する数千人について、僕らはそこまで悲しむことをしないのです。
これは「心理的麻痺」というのだそうですよ。
これもまあ、功利主義的には不合理極まりない、人間の心理的作用ですね。
功利主義超面白かったっつーか、
自分がどれだか非功利主義的な発想をしているのかよくわかりました。
ぼくはいつも、海外ボランティア(笑)とか言ってるけど、
功利主義的には国内でボランティアするより、貧しい国の援助をしたほうが正しいんだよなあ。
んー、なんともいえない。
ただ、「最大多数の最大幸福」が本来少数者を排斥する意味ではなく、
「むしろ功利主義は、政策決定において、それまでほとんど無視されていた労働者、奴隷、女性など、多くの人々の幸福も等しく考慮に入れるべきだと主張する立場だった」
っていうのが個人的救済。