日曜日、ふみ@工事中さんのお宅にWMが12名+子供達が大結集するキャリア座談会がありました。
キャリアといっても堅苦しい話ではなく、なりたかった職業の変遷と現状、そして未来にありたい姿について、生い立ちなどを取り混ぜながら語り合う会でした。
私は1時間半ほど遅れて到着したため、他の参加者の方にうまく伝えられなかったのでここでもう一度紹介したいと思います。
●なりたかった職業の変遷
ケーキ屋さん【幼稚園】
⇒小学校の先生【小学校】
⇒中学校の先生【中学校】
⇒考古学者(南米の古代文明か日本の古代史)【中学校】
⇒素粒子の研究者【中学校】
⇒大学の先生(物理学者)【高校】
⇒大学の先生【学部】
⇒会社員(出版社)【修士】
今は、ん~、とにかく自営業です。フリーランスでもなんでも。定年のない仕事希望です。
「あ~、これ向いてないのよ。」と思わずに自然体で取り組めるような仕事。何だろう。漠然と教育に関わることのような気がします。
もしくは、思いっきり商売っ気たっぷりのもの(笑)。実家が自営業だったので起業もいいなぁと思う今日この頃です。
ちなみに、志望専攻の変遷は、
外国語学科⇒史学科⇒(一瞬だけ、美大か音大に転びそうになったが、実力にまったく見合わず見送り)⇒物理学 です。
物理を選んだのは、素粒子(量子力学)を学ぶには物理だったから。
●影響を受けたもの(環境編)
私は3世代同居家族で育ちました。家は町工場で住み込みの従業員やら、三味線の先生をしていた祖母の内弟子(住み込みの弟子)やらがいて、多い時は20人くらいで食事していました。
この町工場は、満州から引き揚げた祖父が始めたものです。満鉄に勤めていた祖父は陸軍に招集された後、シベリアに抑留され引き挙げてきました。工場は父が継ぎました。父は電子工学専攻で大学院まで進学しそのまま大学に残りたかったようですが、家業を継ぎました。父が大学に残るのを諦めたことは、私の大学院進学に大いに影響があります。
父の機械油まみれの生活とは裏腹に、同居している祖母の生活は大層華やかなものでした。家には、呉服屋、宝石商、毛皮屋などが出入りし、自分の演奏会には高価な着物を着て着飾っては出かけていました。 (父も父で、時折とんでもない買い物してたりしてましたが・・。)
実家が町工場であることは、私の中では製造業への愛着の源になっています。
所詮下請けではありましたが、経済的状況はよかったので、何不自由なく育ちました。町工場のもつ質実な雰囲気と、祖母のもたらす華やかな世界とが奇妙に交錯している環境でした。(祖父も元々は尺八の先生をしていました。)
自営業だったので、”商売”に対する精神的障壁は低い方だと思います。
一応、音楽も生業にしていた家なので、音楽は身近な存在でした。
●影響を受けたもの(進路編)
皆さんのお話を伺っていると、結構、少女時代にはまったものに大きく影響を受けていますねぇ。私もご多分に漏れずです。。。
【中学時代1】
中1。NHKのアニメ「太陽の子エステバン」でインカ・マヤ文明に憧れる。
⇒それが縁で、外国語(スペイン語)とか、考古学に・・・。
シュリーマンみたく遺跡を発見してやる!とかなり本気で思っていた・・・。
【中学時代2】
中3。アインシュタインの海外伝記ドラマを見る。
この世を構成している最小物質である素粒子を突き詰めていけば何か真理が垣間見えるのでは?と思って理転を決意。
ただし、理科も数学も一番成績が悪く不得意科目でした。得意科目は社会と国語。
一念発起しようにも私には数学アレルギーがあったので(父の教え方が怖かった。幼少期の体験。)、克服できないままずるずると高2直前になり進路相談へ。
(中高一貫校だったため、高校受験はしていません。)
【高校時代】
「やっぱり文系にします。私、代数と基礎解析も覚束ないのに、3年になって微積なんて入ったらきっとついていけないと思います。」と三者面談で告白したら、お気楽な担任「え~。3年になるまでにできるようになってればいいだけの話なんじゃないのぉ?」「・・・・。あ、そうですね!それじゃ、このまま理系志望で行きます。」その間3秒。 お気楽な生徒・・・。
今思うと我が人生で最も決定的な3秒だった・・・。
結婚よりも遥かに決定的だったと思っています。
自分の苦手な理系方面を強化すれば、自分はマルチな人間になれると信じていました。
(今は、得意なことを伸ばすことに注力する方がよいと思っています。)
後は私の高校時代は、ロシア人ピアニスト、スタニスラフ・ブーニン一色。
これだけで、別ネタで日記書けます。どうにかしたら、本当に彼と結婚できると思っていました。女子校恐るべし。 根拠など必要なかったです。
だって、私が好きなんだから(=相手も好きになってくれるに違いない。)
ちなみに、今の夫は同じ論法でゲット。。。”すげ~”迷惑だったみたいです。。
【大学時代】
苦手意識が払拭できぬまま入学してみると、周りは私と違って理科大好き、数学大好きな人たち。大好きでなくても、少なくとも得意な人たち。
物理学科は、天文オタク、元宇宙少年の比率が高いです。
大体からして、子供時代に自然と触れ合って育った人が多く、自然物に対する興味の度合いとか、姿勢とか、もう根本的に違う。
私はやっぱり足を踏み入れるべき人間じゃないんだなあ、と思いました。
それでも、修士入学時までは博士課程まで進学するつもりでいました。どうせなら、極められるところまで極めてみよう、と。でも、やればやるほどそれが無謀であることが分かり、修士2年になると「さっさと会社員になってお給料もらって、アフターファイブを満喫する花のOL(?)になるのだ~」と方向転換を図ることに。
といっても、理系を捨てきるのも勿体なかったので、理工系の出版社を狙いましたが、あらかた不採用でした。元々小さい会社が多く、中には「うちは女の子は高卒しかとらなくて・・。」なんて言われたり。
結局、今の会社に就職。配属先は光学設計部門。これが恐ろしいことに、採用枠1名の所に入ってしまったのでありました。私が今の会社に決まった経緯を書くと、それだけで大きなネタになってしまうので割愛。やけくそで傍若無人な態度に出たのが逆効果だったみたいです・・・。これもご縁であります。
【入社後】
とにかく数式から逃げていた私。プログラミングも嫌い。光学シミュレーションのお手伝いをするのが目的で採用された私は、展示会などでお客さんに商品説明をする機会に恵まれ、いつしか展示会で使う技術紹介のパワーポイントは私が作成するようになりました。
また、技術部と営業部との間をとりもつエキスパート会議にも顔を出すようになりました。もうひとつの大きな転機は、シミュレーション以外の光学性能評価を担当することになったこと。これがきっかけで、海外の大学との委託研究も担当するようになり、多い時には5つの大学とやり取りしていました。
誰かと誰かを結ぶ橋渡しの役割は自分の性向にピッタリで、10年以上こんな感じで仕事をしていましたが、リーマンショック以降、展示会はパタッとなくなり、エキスパート制度は解体され(ここがうちの会社の意味不明なところなんですが。)、私の活動の場が一気になくなってしまいました。
そして、それと入れ替わるように昨年の9月からタスクフォースチームのリーダーになり今に至っています。このチームのミッションは新しい評価方法の確立と設計へのフィードバックなのでこれまでの仕事とまるっきり変わったわけではありませんが、責任は10倍位に増えました。
優秀な後輩に恵まれながらも、彼らが優秀であるが故に己の至らなさ、実力のなさを毎日目の当たりにするので、精神衛生にはよろしくないです(笑)。
そして、猛烈に忙しくなりました。
扱っているテーマは難しいですが非常に面白いテーマです。今は何事も挑戦と思って臨んでいますが、いろいろな意味で今の状態が続くとは到底思えません。
子供のこと、自分の指向性のことを考えると、別の働き方、別の仕事があるように思えてならないこの頃です。
【将来の夢】
3年~5年くらいの中期計画で考えるならば、会社員という形態はやめていたいと思います。自分の実家が自営業だったこと、私が子供の頃、「ただいま~」の後に反射的に「お母さんは(どこ)?」と、毎日とりあえずのチェックを必ず入れていたこと等を思い出すと、スケもそうしたいのだろうと思ってしまいます。
やっぱり、人と人との間を取り持つような、人(子供)を育てるような、それでいてビジネスになるようなそんなことができたらなぁ、と今は思います。
【おまけ: リクルートのキャリア・アセスメント・プログラムの結果】
http://r-cap_business.riasec.co.jp/
これ、会社の研修で受けてみたら、私の内省的指向性から導かれる私に向いている職業は、
1位: ツアコン
2位: 通訳、翻訳者
3位: カウンセラー
だそうで・・・・。 ツアコン。。。