電車の中ブログ

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電車の中という閉塞された空間の中で何を考え何を妄想するか

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9月10日はなんの日でしょうか。はい、青春18切符の期限が切れる日です。
先月行った山梨長野方面の旅ではJRの青春18切符を使いました。この切符、たいへん安くて宜しいのですが、問題は5枚セットになっているというところです。つまり二人で二日間の旅に使うと必然として1枚残ることになります。
そう、今日はこの残り1枚を消化するための旅ということになります。
しかし、どうしたものでしょう。同じ旅でも行かなくてはならない、となると何故かテンション下がります。
そんな訳で、事前にプランなど考えておらず、当日も朝は普通に起きて、ダラダラと電車の乗り継ぎや時刻など調べていたのですが、気が付くと乗ろうと思った電車の発車時刻が迫っています。
慌てて駅までダッシュして行ったのですが、タッチの差で逃してしまいました。
当初予定では町田から横浜に出て東海道線で国府津そこから御殿場線と考えていましたが、いきなり潰れてしまいました。
B案は小田急で厚木まで行き、相模線で茅ヶ崎に出て乗りたかった東海道線に追い付く手です。携帯で調べてみるとうまく乗り継いで行けるようなので、相模線に乗ることにしました。





相模線は電化はされているものの未だに単線でどことなくローカル線の趣ですが、ホームで待つ乗客は若い男女が目立ちます。この線の終点が湘南茅ヶ崎だからでしょうか。この辺が普通のローカル線と一味違います。

終点茅ヶ崎から東海道線に乗り換え、国府津まで。

国府津では15両編成の東海道線と同じホームの向かい側に2両の御殿場線がちんまりと止まって発車を待っていました。ところが乗客は意外と多く、満遍なく人が立っている程の満員状態でした。
乗客はほとんどがリュックサックを持ってキャンプか登山に向かう風情でした。まさか青春18切符の駆け込み利用客で混雑しているわけでもないと思いますが、予想外の混雑ぶりでした。

電車は相模湾に面した国府津から足柄山・丹沢山の間あたりの目指して進んで行きます。平地が終わるころ、小田急線との乗換駅松田になります。もし、厚木乗り換えのB案もダメだった場合のC案がこの松田乗り換えだったのですが、幸いこれは使わずに済みました。
要するに勿体なくて切符を消化するための旅をしているわけですから、そのために余計な電車賃は極力出したくないわけです。

松田を出ると徐々にと山間部に入っていきます。御殿場線は今でこそローカル線のような姿ですが昔はここが東海道線だったそうです。熱海の先の旦那トンネルが開通したと同時に御殿場線と名付けられ、幹線からローカル線へと格下げになりました。通過する列車数が減っただけでなく、それまで複線だった線路が単線にされて片側のレールや鉄橋が取り外されてしまいました。
このため、よく観察していると線路脇にもう1本線路が敷ける程度の空地があったり鉄橋の土台跡があったりと微かに幹線時代の痕跡が見てとれます。

車窓の風景からしばらく人家が乏しくなってきていたのが、ふたたび増えてきたところで山北に到着です。山北は幹線時代に機関車の増結を行っていた駅で、そのため全ての特急が停車していたそうです。また、鉄道関係者が多く住んでいたそうで、町はたいへん賑わっていたと聞きます。今でもそこそこな賑わいで、この近辺では中心的な町になっているようです。

山北を出ると、本格的に山の中に入って行きます。トンネルと鉄橋を繰り返して標高が上がっていきます。
やがて視界が開けてふたたび建物が増えてきたところで御殿場に到着です。ここでリュックサックを背負った人々は全て降りていきました。車内もかなり人が減り立ってる人はドアの前に一人二人程度になりました。御殿場は富士山の麓だけあって本来は富士山が目の前に大きく現れる筈だったのですが何故か富士山の周りだけ雲がかかっています。一瞬富士山の頂上だけが雲の隙間から見えたのですが、すぐに隠れてしまいました。

御殿場から先は沿線の様子が様変わりします。地形が富士の麓のなだらかな平地となり、農地や人家が彼方まで続く景色になります。更に電車が進んで沼津に近付くに従い農地よりも建物の比率が高くなってきて、大きなビルが増えてきたところで沼津に着きました。

どうも、へんな東京中心の感覚が染みつてしまっているようで、東京に近い方が人が多く遠ざかるに従い減っていくと無意識に考えてしまっていました。でも、沼津のような大きな地方都市があればその関係は逆転するし、周辺の環境が山間部か平地かでも変わってくる筈です。
また都市の機能を考えたとき首都圏の近郊都市は東京があって始めて完結する仕組みなのに対し、地方都市は単独で完結します。そのため、もし地形や気候など基本条件が同等の地方都市と近郊都市があったとき、地方都市の方が大きな規模になるのではないかなどと考えたりしました。



沼津でふたたび東海道線に乗り換えますが、今度は東海道線も3両のみじかい編成です。電車はほどなく富士に到着しました。
富士ではしっかりと富士山が見えたのですが駅の中からだと建物が邪魔でいいアングルが取れません。
本当はここで身延行きを待つ30分の間に何か昼食を食べようと考えていたのですが、ふと時刻表を見て気が変わりました。身延行きの20分前に西富士宮行きというのがあります。身延の途中までしか行きませんが、途中下車する時間を作り出すことができます。それで急遽これに乗ることにしました。
西富士宮行きで富士を出ると富士山がよく見えるようになりました。丁度電車の正面に見えたタイミングで撮ったのがこちら。



身延線も意外に乗客が多く、また座る事ができませんでした。身延線は比較的駅数が多く、富士川沿いの集落に丁寧に一つづつ止まっているようです。
そのため、停まっても乗り降りする乗客が一人もいない駅がいくつかありました。駅の数が多いと到達時間がかかるようになり、少ないと沿線の利用者には不便です。どちらがいいか、と考えたとき私はこの身延線の駅数の多さが、人に対する優しさのように思えて好感が持てます。

この電車の終点西富士宮の一つ手間、富士宮で下車しました。ここで使える時間はわずか20分です。駅前に都合よく目指す店はあるのでしょうか。そして、時間内に済ますことは出来るのでしょうか。私は自分の好運を信じて改札口を出ました。すると、なんという事でしょう。目の前にあったのです。富士宮焼きそばの店が。しかも立ち食い形式のクイックイートタイプです。
並450円を注文すると5分ほどで目の前に持ってきてくれました。



始めて食べたのですが、麺の間に見え隠れする何かの断片が油っこいわりにしつこくなく、振りかけられたかつおぶしの粉末のようなものと、そこはかとないハーモニーを奏でます。麺は焼きそばとしては太く、少し硬めですが、しっかりと味が絡んでいます。
時間が厳しいかと思っていましたが、余裕を持って食べ終え、ついでに家への土産に3食セット700円を買って悠々とホームに戻り身延行きの到着を待ちます。

やって来た電車は3両編成でした。座席に余裕があるためなのか空席が多くあり今度は無事に座れました。



再び富士川沿いを頻繁に停車しつつ走る電車の乗客となり、外の景色を見たりこの記事を書いたりしてるうち眠ってしまっていたようで、気が付くと身延に到着していました。ここで身延始発の甲府行きに乗り換えですが、20分待ちがあります。この短時間だけでも外に出ようということなのか改札口に急ぎ足の人々が殺到しています。そしてよく見るとみんな青春18切符をもっているようです。
1枚だけ青春18切符を余らした人が駆け込みでやって来るのに身延線はお誂え向きのコースだったのかもしれません。

身延からもなんとか座れて、記事を書きつつ景色を眺めます。いつの間にか富士山は遠くになっていて、ふと山の間に見えたとき、随分と小さくなってしまっていました。
時刻も夕方近くなり、北斜面の山肌は薄暗くなってきました。

目的もなくボーッと一日電車に乗ってとりとめもなく考えたり感じたりするような旅は理想とするところではあるのですが、今回はあまりのんびり出来なかったように思います。理由の一つは頭のすみに日常の諸々の事柄が染み付いて、完全にリセット出来ていなかったこと、それからもう一つはこのブログの記事を書くのに意外と時間を取られて、外の景色をボーッと見ていられなかったこと、そんな不完全燃焼というか不完全不燃焼状態で甲府に到着しました。
甲府ではホームの端の方にカメラを構えた人が固まって何やら撮っているので、よくわからぬまま便乗してパチリ。



古びたチョコレート色の塗色の電気機関車EF64-37です。

ここからは前回の旅と同じ経路で町田まで戻り、小田急に乗り換えます。

そして、最後に小田急のテクノインスペクターをパチリ。



へんなダジャレは言ったりしません。
8月最後の日曜日、日帰りで盛岡まで行ってきました。
盛岡の叔父が先月亡くなり今日はその四十九日でした。

亡くなった叔父は私にとっては大恩のある人物です。いつかは恩返しをと思いつつ結局、果たせぬままとなってしまいました。だいたい大人になってからは片手で数えるほどしか行けてなくて、実に不義理も甚だしいのですが、それでも私にとってはいつも遠くで見守ってくれているような大きな存在感のある人でした。

今回、往復の新幹線を父と同行します。朝4時半に眠い目をこすりつつ起床。5時半に家を出て、駅に向かいます。東京駅には6時50分に到着しました。7時17分発のはやてなのでかなり早く着いたつもりだったのですが、先に父がホームで待っています。いつも早めに行動する性格なので、予想はしていましたが、6時30分に着いていたとのこと。そこまで早いのは想定外。

やがて折り返しになる車両が入線し車内清掃を待って乗り込みます。



実は新宿経由で東北新幹線を利用する場合、東京から乗るよりも大宮から乗った方が所要時間が短くなります。埼京線が意外に速いことに加え新幹線が大宮まで100キロ程度しかスピードを出さないため距離的に遠回りとなる東北新幹線東京経由の方が時間がかかることになるのです。それで父にどっちがいいか聞いたのですが、東京から乗ると言います。どうも私の説明では父の中の既定概念を覆すことは出来なかったようです。

新幹線は、いつも通りの様子で東京を発車します。しかし、宇都宮を過ぎるあたりからだんだん普通と違うところが出てきます。
まず、車窓の風景にブルーシートが登場してきます。屋根瓦が崩れてブルーシートを被せて応急処置だけした家々です。



那須塩原を過ぎ福島県に入るころ新幹線のスピードは抑えがちになってきます。東北新幹線の線路は砂利を使ったバラスト軌道ではなく、大きなコンクリートの塊を繋ぎ合わせたスラブ軌道になっています。このため、普段はレールがずれにくく安定しているのですが、このような大きな地震で基礎ごと動いてしまった場合直すのは容易でなさそうです。

心なしか振動を感じつつ、仙台に到着しました。震災で新幹線ホームの天井が落下しメチャメチャになった様子を報道で知っていたのですが、上を見ると天井の化粧板はまだ張られておらず、骨組みがむき出しの状態になっていました。



今回乗車したはやては仙台から先、各駅に止まるタイプです。いわゆる速達タイプではありません。時刻表をよく見ると、新青森までの最速達が「はやぶさ」、大宮仙台盛岡と新青森までの各駅に止まる速達「はやて」、大宮仙台と盛岡までの各駅とに止まる「はやて」、仙台までの大きな駅いくつかと盛岡までの各駅に止まる「やまびこ
」、郡山か那須塩原まで各駅に止まる「なすの」と大きく分ければ5種別に別れているようです。開業当初は盛岡行きの「やまびこ」と仙台行きの「あおば」の2種類だけだったので随分複雑になったとも思えますが到達時間の短縮と途中駅利用の利便性との両立を考えると、ある程度複雑になるのは仕方ないのかもしれません。

東北新幹線でネットから座席指定する時に限り一部の列車に割り引きが有ります。2割から5割まで設定があるのですが、今回は行きは3割引き帰りは2割引きでチケットを買えました。その代わり速達ではない普通のはやてになってしまいました。

仙台から先一つひとつ駅に止まりながら行きますが、それにしてもよく止まります。改めて調べると岩手県内には新幹線の駅が8つもあり、これは全都道府県中最多なのだそうです。これが岩手県出身の鈴木善幸さんの功績なのかどうかは謎です。

岩手県に入ってもはやてのスピードは今一つでなかなか盛岡に着きません。やっと盛岡の一つ手前の新花巻を出たところではやては本気の走りを見せましたが、それもつかの間、盛岡に到着です。

盛岡に降りて驚いたことは、駅の様子に全く見覚えがないことでした。
確かに12年前、4年前に行ったときは車だったのですが、その前は新幹線だったはずです。どうも昔の記憶が曖昧になってきているようです。

駅からタクシーで寺に向かいますが、途中の景色は寂しげなものでした。道路だけはきれいに整備され幅の広い真っ直ぐな道路が縦横に伸びています。横の歩道もゆったりしています。
でも、その道路沿いに建つ店舗や事務所の建物は締め切られ、退去したあとに誰も入らぬままになっているものが目立ちます。
住みやすい環境を作れば人が集まって活気ある町になると思っていたとすれば大きな計算違いだったようです。

お寺には親類が次々やって来ます。驚いたことにいとこの子供たちがみんな大人になっていました。
法要を終えて食事会になり、今まで会う機会のなかった親戚とも話ができました。故人を偲ぶ席ではありましたが、疎遠になりがちな一族が一堂に会し親交を深める場とり、私たちにとって良い集まりになったと思います。亡くなった叔父にさらに感謝しなければなりません。

お寺をあとにして、本家にも立ち寄りました。昔と変わらぬままの家や庭と年を取り代替わりしていく人々が懐かしくもあり寂しくありました。
本家には叔父が丹精して管理してきた芝生の庭があります。今でも私が子供のころのままでした。この芝生の庭で叔父は私にお盆の意味を教えてくれました。
それは、ご先祖様はいつもは遠い西の方にいるがお盆の時期だけ様子を見に戻って来る、という内容でした。今思えば西国浄土を子供向けに説明していたのだと思いますが、今以上にひねくれていた小学生の私は西の方とはどの辺なのかしつこく追求しました。最後に叔父はニカっと笑って「まあ、そう言うのっす」(そう言われているということなのだ、くらいの意味)と締めくくったのでした。
何で西なんだろうという疑問と叔父とのやり取りの面白さのために、この時の会話は記憶に残っていました。

本家の皆さんにお別れして、車で盛岡駅まで送ってもらい、予約してあったはやてに乗ることになりました。ただ、発車までけっこう時間があったので、ちょっと写真を取ってまわります。



私の乗る手前のはやてにはこまちが付いていませんが先に発車する隣のはやてはこまち付きです。




別のホームではこまちの連結を行っていましたが、何故か見物で取り巻く人々は全て大人でした。最近の子供たちには受けないんでしょうか。

帰りの車中で思い出したのは例の西国浄土の件でした。ここで私はなぜ西なのか理解できた気がしました。
もし、空の上だったとしたらとても遠くの存在になったような気がしてしまうではないですか。でも西の方ということなら、そんな遠くには感じられません。だから今でも叔父が西の方から私を気にかけて見守ってくれているように思えたのです。
叔父からの宿題がやっと解けた気がした、そんな岩手行きでした。
しなの鉄道で小諸に着いたら今度は小海線に乗り換えです。小海線は電化されていないため、ディーゼル車両になります。
ちなみに、この先写真がありません。スマホのバッテリーが危うくなってきたためです。悪しからず。

小諸から高校の弓道部とおぼしき集団十人くらいが同じ列車に乗ってきました。感心なことに席に座ると、全員黙々と勉強を始めてます。自分が高校のころ部活動で移動中に勉強とかあり得なかったなあ、などと思いだし、むしろ応援用のメガホンを持たされた私は、電車のなかで「次は~大船ぁ」などと車掌の真似をしたところ、思いの外メガホンの性能がよくて周りにいた一般の乗客の冷ややかな視線を集める結果になったといった消し去りたい記憶まで思い出したのでした。

小海線は日本一高い場所を走る鉄道として有名ですが、小諸から暫くはほぼ普通のローカル線然として走っています。それが中盤の小海駅を過ぎた辺りから本格的に標高を上げていきます。
高原鉄道と呼ぶ人もいるようですが、周りの景色は渓谷鉄道といった趣です。二両編成のディーゼルカーは深く険しい谷底を流れる川に沿って力強く登っていきます。
車窓の風景の中には常に人の生活を思わせるものがありました。それは僅かな平地を切り開いた畑に繋がる細い道であったり、林の中にひっそり佇む先祖代々の墓であったり、山仕事のための作業小屋でした。険しく不便な土地であっても、昔の人は自分の生きる土地を求めてここまでやって来たのかと思わされます。

やがて最高地点の野辺山を過ぎて清里に到着しました。当初の計画では予定していなかったのですが、少々時間の余裕ができたのでここで途中下車します。とはいっても、僅か一時間半です。あまり遠くには行けないので、歩いて10分少々のところにある萌木の村というところに立ち寄ってみました。
ここは駆け足で一周し、ソフトクリームを食べたら急いで駅に戻ります。
清里からは小淵沢に出て、再び中央線を利用し帰ってきました。

今回の旅で思うのは、ローカル線の良さを再認識したことでしょうか。新幹線や特急列車に乗っているとわからない空気を嗅ぐことができるのがローカル線だと思います。確かに時間のかかる旅にはなりますが、目的地が目的でなく旅自体が目的ならこの方が楽しめるように思います。またチャンスがあったら行ってみたい旅です。

最後に反省点を一つ。当初、乗車中にブログを書き上げ、ほぼリアルタイムでアップするつもりでいましたが、列車に乗っているときは景色を見るのに忙しく、結局殆んどの帰ってきてから書くことになってしまいました。電車の中でしか書いてはいけないルールなど作らなければよかったと思ってみたりしています。