『千と千尋の神隠し』
~人はパンのみにて生くるにあらず~
はじめに
作品『千と千尋の神隠し』
作品紹介
監督紹介
考察01千尋の「弱さ」
物語の冒頭、本作品の主人公、荻野千尋は新しい街に引っ越してくる。父親の運転する四駆自動車の後部座席に寝転がり、むすっとした表情をしている。両親に車窓から転向先の小学校を見るように促されても、まったく興味を持つことが出来ない。
アニメーションの語源はラテン語で魂を意味する「アニマ」という言葉である。だからアニメーションとはあたかも生命を持つかのように活き活きと動く連続する絵のことだ。千尋はそんなアニメの主人公には似つかわしくない、生命力の低い「弱った少女」である。千尋はどうしてこんなに弱っているのだろうか?千尋はどこにでもいるような、現代に生きる普通の小学生である。千尋がいま、特に元気がないのは、やはり引越しによるものだろう。まずは引越しについて考えてみよう。
私が始めて引っ越しを経験したのは、三歳になったばかりの頃のことだった。季節や時間などはっきりとした状況はわからないが、新居において一人で留守番をしなければいけないとなった際に、「人間は本態的に孤独であり、誰も自分のことを見てはくれない、自分が自分自身の主人であり、自由と責任というものがあるのだ」ということを、わけのわからない底抜けの恐怖として味わったことをよく覚えている。
生まれながらに住み続けた慣れた土地を離れ、知らない人と知らない風景の中へと入っていかなければならないということは、人間にとって一つの死のようなものとして現れるのではないだろうか。引っ越したばかりの土地は、電車の車内のように名前も肩書きも性格も分からない人々で溢れている。引っ越しにおいて私たちは喪失の感覚をもつが、そのとき何が失われるのか。私たちは人間や土地に対する「関係」を失う。「関係」には二種類の現れ方があるように思う。
第一に、「名前」である。知らない土地では、当たり前だが、誰も自分を知らず、自分の方でも誰をも知らない。周りの人と無関係であるから、名前を呼んだり呼ばれたりする機会が失われる。人間関係は、名前を呼んだり呼ばれたりする経験として現れる。
第二に、「顔」である。人間や土地との関係は「顔」として経験される。私たちは自分を取り囲む風景を無心に客観的に眺めているのではない。行きかう人々やそれぞれの土地にはそれぞれの生活・文脈・意味があり、独特の表情のようなものが私たちに向けられているのである。例えば、あのベンチでサンドウィッチを食べた、とか、あの木で木登りをしていて転落したとかいう経験があれば、ベンチに意識を向けたときサンドウィッチの味を思い出したり、木に意識を向けたとき膝小僧からしたたる血液の色・匂いと滲む痛みが伴ったりする。見知った顔を街中で見つけると、心が躍り、明るい気持になる。引っ越しは私たちの生を彩る出会いや、街並みの豊かな意味をみんな失わせる。私たちは知らない土地において、孤独である。顔もまた、名前のように、自分ひとりでは確認の出来ないもの、必要のないものだ。私たちはひとりきりでは、自分自身の顔をもたない。自分自身の顔は他者の目や、鏡など、外部の対象を経由することでしか、たどり着くことが出来ない。
名前と顔とは、私たちの「アイデンティティ」を構成する不可欠の要素である。「アイデンティティ」とは「この同じ自分」という語に由来するが、自分が自分であり続けること、他の誰でもないかけがえのない自分であることが、引越しによって困難になる。
引越しとは、アイデンティティ、顔と名前を失う経験、自分自身を失う経験である。千尋は、自分自身を失いつつある。湯婆婆に名前を奪われる前に、すでに、名前を失い、自分を失っている。
顔や名前から成るアイデンティティというものについてもう少し掘り下げてみよう。先に簡単にみたように、顔や名前というものは決定的に自分自身の核のようなものであるのに、自分自身では直接確認できず、「他者」に見られ呼ばれるばかりである。このことは、とても皮肉ではあるけれど、私たち人間が自分というものを(それはまさに自分であるのに、)自分ひとりでは確立することができず、他者との関わり合いの中で、他者に認めてもらうことによるほかないことを意味している。
先に、引越しによって関係が失われると書いたが、関係が、この「他者」である。ずっと同じ他者と関係を持ち続けるのであれば、私たちは自分を不変の同一性としてもち続け安らぐことができる。引越しによって他者が変わると、自分が認められていいない振り出しに戻ってしまうのである。
千尋が回復するためには、いや、引越しというはじめての喪失経験に適応するためには、新しい人間「関係」を構築し、改めて顔と名前、そして自分自身を創出する力を身につける必要があるだろう。
考察02湯屋の論理
物語の中心的な舞台となる湯屋について考える。
まず本作品全体では、大別して、三つの空間が登場する。生活世界(元の世界)、湯屋、沼の底である。一見すると「生活世界」と、湯屋・沼の底を含む「異世界」との隔たりが大きいように思われるかもしれないが、湯屋と沼の底との隔たりのほうが、生活世界と湯屋との隔たりよりも大きいと考える。順に見ていこう。
生活世界と湯屋との間には初めは干上がった川があり、歩いて渡ることができた。しかし、夜になると水嵩が増し海のように広がり、対岸が遥か向こうにぼんやりとみえるほどに遠くなってしまう。湯屋から見て、川の向こうへは光る船が渡している。船に乗ることができるのは神だけである。
湯屋と沼の底の間は、隔てるものはないが、距離が遠い。電車が通っているが、往くばかりで帰ってくる電車がない。沼の底がどういう場であるかは後で見る。
ここで確認したいのは、まずは湯屋は他の世界から隔てられた場であるということだ。湯屋は生活世界からも、沼の底からも離れている。雨が降れば、あたり一面水浸しになり「海」になってしまう。湯屋はあたかも洋上に浮ぶ巨大客船のような閉じた場である。1602年に設立されたオランダ東インド会社は、継続的な資本を持った最初の株式会社であるとされる。東方への航海に対する小口の出資を広汎に募った、保険のようなリスク分散の工夫である。湯屋は投資を受ける船を想起させる。
千尋がファンタジーアニメの主人公にふさわしくない、愛想のないくたびれた少女であるように、湯屋もまたファンタジーアニメにふさわしくない舞台である。湯屋を支配するのは、「働かざる者食うべからず」という労働中心主義的な論理である。湯婆婆は「働きたいものにはすべて職を与える」という誓いを立てて守り続けているが、その決めごとは「湯屋では職を持たないものは存在してはならない」という思考と一体のものである。湯屋には肩書きを持たない裸の人間は存在しないのである。千尋にとってすべての他者は、顧客かまたは同僚として現れる。
資本主義経済下の社会では、人は前近代的共同体の束縛から自由な代わりに孤独で匿名的な存在としてしかあり得ない。湯屋は資本主義経済の生理に支配された、共同体による庇護を失い、都市で労働力を売らなければ生活していけない空間である。その酷薄さ、元も子もなさは、心躍る非日常ではなくて、私たちが毎日あきるほど見ている「いつもの風景」である。
市場は「等価交換」が根本的な原則である。市場に流通する商品の価値は明晰かつ判明であり、数量的に勘定することができる。市場では流通する価値が全てであるからシンプルであり効率が良い。けれども、まさにそのために、流通する価値が手に入らなければ何物にもなることができない。
私たちは社会に流通する「肩書き」や「資格」の獲得のために必死になるがあまり、反って生活を失ってしまう例を身の回りに散見することができる。今日いよいよ熱を増す就職活動もそれにあたるだろう。友人が大企業の内定を勝ち取ってきたが、自分はまだである。内定がなければ、生きていけないような、絶望を感じる。
でも、本当はそうではないはずだ。かつて吉本隆明が衝撃を受けたとして「泥棒して食ったっていいんだ」という言葉を紹介していたが、そこまでいかずとも、例えばある僕の友人は「実家が新潟の農家だから、内定なんかもらえなくても最悪家で畑を耕せば食えるのだ」と言う。その話を聞いた時、生きる力とはこれではないか、と思った。
話を元に戻そう。「等価交換」という原則は便利であり効率よく富を増大させる効果を持つが、人間の豊かな生のためには不十分である。そのために資本主義論理下の湯屋にはどこかゆがんだ人々、病んだ人々が現れるのである。それを次節で見る。
もうひとつ念のため、湯屋という異世界の空間について考えておくべき要素がある。
湯屋は神の為の湯治療養施設である。神々は船に乗って湯屋を訪れる。船までは透明で実体を持たない神が、湯屋のある岸辺に上陸した瞬間実体化する描写がなされている。神は人間の世界、日常世界においては物理的実体を持たないが、トンネルのこちら側、湯屋のある世界では存在感を増す。湯屋は神的な空間である。
だから、反対に、湯屋の世界においては、人間は存在し続けることが難しい。日が落ちて夜を迎え、街灯に火が入ると、湯屋は本来の力を発揮する。人間の身体は透明化し、最終的には消えてしまうことが示唆されている。
湯屋という神的空間に存在し続けるためには、湯婆婆をはじめ強力な魔法使いに魔法をかけてもらう(千尋の両親は豚に、煤はススわたりに化ける)か、千尋のように特殊な手続きを踏む必要がある。
千尋はハクから貰った丸薬?を飲み込むことで消滅を回避する。これはどういう事態か。消滅を回避するためには湯屋の世界の食べ物を口にする必要があるとハクによって説明されているが、人のものを勝手に食べるのは無礼である。そうではなくて、食べることを許可されたもの、与えられたものであれば食べても構わないのである。
考察03三人の患者
千尋は湯屋で、様々な人々と出会うが、特に濃い関係を取り結ぶのは三人の男である。ハク、河の神(翁の面)、カオナシはそれぞれ何かしらの問題を抱えている。三者は、千尋と交流する中で、それぞれの抱えた問題を回復する。千尋とのコミュニケーションがある種の治療行為として機能している。
ここで思い切った読みを提示したい。河の神とカオナシとハクは同じ存在の三つの現れである。彼らは同一人物である。
千尋と三人とのかかわりが、実は同じ行為の反復であることを確認しよう。
ハクは本名を思い出すことが出来ない。魔法使いになるため、湯婆婆の弟子になっているが、映画の終盤に晴れて名前を取り戻したあと弟子を辞めると話していることから、恐らく名前がないことが湯婆婆の手先をやらざるをえない動機となっている。ハクは千尋の味方であると言うが、湯婆婆の手先として働くときには、能面のように冷たい顔をしてまるで別人であるかのように現れる。
ハクは千尋に「薬」を与える。千尋はハクからもらった丸薬のおかげで消滅を回避する。また、ハクからもらった「おにぎり」のおかげで失われかけた名前の記憶を取り戻すことができる。
ハク自身は千尋から河の神の「苦団子」という「薬」を呑ませてもらう。ハクは銭婆婆から盗み出した「守りの呪いのかかった金印」という「毒」を「吐き出し」、死の淵から回復する。
「沼の底」という「記憶」をつかさどる場を経由し、千尋に名前を思い出させてもらう。
河の神は、生活世界ではどぶ川である。人間の廃棄したゴミによって本来の神々しい姿を失い、腐れ神のような病んだ姿をとっている。河の神は翁の能面という「顔」をもち、また、「名」のある神とされている。竜のように空を飛び「どこか」へと去っていく。しかし結局名前は明らかにされない。
河の神は千尋から「薬湯」という「薬」を与えられる。河の神は「堆積したゴミ」という「毒」を「吐き出し」、本来の美しい姿を回復する。
河の神は千尋に「苦団子」という薬を与える。
カオナシは顔も名前も持たない化けものである。孤独に耐えかねて人を呑みこんでしまう。自分自身では無口であるが、他者を呑みこみ、他者の言葉を借りて饒舌になる。言葉を持ったカオナシは湯屋の労働者を傷つけてしまう。
カオナシは千尋に「薬湯の木札」という「薬」を与える。
カオナシは千尋からやはり「苦団子」という「薬」を呑ませてもらい、攻撃性の源である「他者の言葉」という「毒」を「吐き出し」、もとの分相応な小さな姿を回復する。
カオナシは湯屋という交換と富の世界にはなじまない。「沼の底」という落ち着いた空間に自らの居場所を見出すことになる。
彼らは一様に、千尋に「薬」を与え、反対に千尋から「薬」をもらい、「毒」を「吐き出し」回復するのである。ちなみに、千尋自身のおにぎりによる回復は「吐いて」いないように見えるが、「号泣」がそれに対応する。
千尋とハクがそれほど一緒にいないのに、突然「愛」が生まれてくるのは(愛は常に当然生まれるものであるかもしれないが)、河の神もカオナシもハクだったからである。千尋は湯屋におけるほとんど全ての時間をハクと過ごしていることになる。
しかし、三人(実は一人)の回復は、すべて湯屋からはみ出し、湯屋の外部、「沼の底」に依存している。「沼の底」とはどういう空間であるか考える必要がある。
考察04記憶の水底・生きる力の回復
銭婆婆はハクとの記憶を思い出すことができない千尋に対し「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」とヒントを与える。記憶は失われることがない。思い出せない、引き出すことができないというだけで、いつも確かに、頭のどこかにある引き出しの奥深く眠っている。
「沼の底」は、記憶を貯蔵する引き出しである。湯屋の世界においては、雨が降れば海ができ、全ては流されどこかへと拡散し去ってしまうように見える。しかし、そうではなく、海の向こうには水が溜まり続ける「沼」があるのである。沼の底に行くためには電車に乗らなくてはならないが、電車の切符は、「昔の残りもの」として窯爺の部屋にある棚の引き出しの奥深く眠っている。沼の底は窯爺の引き出しの中である。
湯屋では湯が沸騰するように、人間の欲望を惹起し次から次に駆り立てる。欲望はどんどんと膨張し、市場が拡大し商品が溢れても満たされない。むしろ、食べれば食べるほど飢餓感が募るような、終わりのない苦しみへと変貌してしまう。
沼の底は、冷たい沼である。湯屋において他者を傷つけ呑みこみ、際限なく拡大し続けたカオナシの欲望は、沼の底では地に足がつき鎮まっている。
千尋は沼の底で、彼女が異世界において培った新しい友情の証として、髪留めをプレゼントされる。みんなで紡いだ糸とは、関係性の糸である。髪留めには金銀財宝のような目がくらむような派手さはないが、小さく静かに光っている。千尋は、髪留めをもってもとの生活世界へと帰っていくことになる。
考察05愛と贈与
最後にふたつ、謎が残っている。なぜ千尋はハクとの記憶を取り戻すことができたのか?なぜ千尋は、両親が豚ではないとわかったのか?
記憶は失われず引き出すことができないものであることは確認した。なぜ引き出すことができないのか、それは記憶が抑圧されているからである。なぜ抑圧されているかといえば、それを見たくないからである。思い出したくないから思い出せないのだ。ハクは生活世界においては埋め立てられた河である。すでに存在しない死者である。自分が死んでいることを認められないから、死んでいることを思い出すことができないのである。人は(ハクは神だが)死んだらそれでみんなおしまいかといえば、そうではない。愛している人が、自分のことを覚えておいてくれるなら、その限りでなにがしかの意義が残され続いていくような気がする。ハクは、死を認めても、千尋との関係性を選んだのだ。
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い」という言葉がある。資本主義経済市場においては人間は客か労働者としてしか存在することができない。けれども、世界は市場の外部を持つ。「等価交換」の原則をはみ出す関係性を私たちは持っている。愛と贈与である。豚は私利私欲の追求と蓄財の象徴である。贈与は対価を求めることなく、蓄えた財を他者にくれてやることである。両親が豚の中にいない、という答えは、両親は豚「ではなく」、自分が豚の子であることの拒否である。千尋はいまや、愛と贈与を知っている。
参考文献
中山元、『高校生のための評論文キーワード100』、ちくま新書
今村仁司、『マルクス入門』、ちくま新書
今村、『貨幣とは何だろうか』、ちくま新書
マックス・ウェーバー、中山元訳、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、日経BPクラシックス
ガストン・バシュラール、及川馥訳、『水と夢―物質的想像力試論』、叢書ウニベルシタス
加藤典洋、『村上春樹論集①』収録、『「世界の終り」にて』、若草書房