「手掘り日本史」を読んで日本の無思想を考える | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

本書の中で、特に引っかかったのは四点。


01:日本の「無思想という思想」

02:天皇と世俗権力の分裂

03:文体と思考

04:歴史の中の人間


うん、増えた。


□読書メーター - hyoroさんの読書メーター

http://book.akahoshitakuya.com/u/20858


こっちの感想だと三つしか言っていないけど、

「文体と思考」の言及もやっぱり気になったのである。


どこから書けばいいんだっけかな…。

さっきお風呂で考えをなんとなくまとめていたんだけど、

お風呂上りに牛乳を飲んだあたりで忘れてしまった。


「どうして負けてしまうのか?」、あるいは

「どうして勝ち逃げできないのか?」という問い。

それがはじめの方にあった気がするなあ。


それから、「状況の受容と救済」って問題への接続口が

どっかにあった。

そいで「甦るヴェイユ」はとりあえずあきらめたんだけどね。


まず、日本の「無思想」というものがある。

日本人って、新しい社会の構築がうまい民族みたいです。

変革の瞬間、彼らは封建的なものと革新的なもの、両方に

コミットしているように見える。

えっと、うまく言えない。

例えば明治維新で、新しい京都政権を認めるか、と皆に聞くと、

まず認めない、と言うだろう。しかし、ではあなたは、

新政権に反対するのか、と問うなら、その人は沈黙する。


黙っちゃうんだよね。社会がないという瞬間に、いくらか妥協して

でも、新社会の構築を黙認する。

社会が大事、世間がなけりゃどうもならんだろっていう、感覚。

そういうある種の無節操さ、あるいは柔軟さがある。


これは何だろう、ということですよね。

司馬さんと聞き手の方がヒントをくれていて、日本の無思想とは

「間」と「浄らかさ」の信仰、というのとも違うけど、その重視である、

と言っている。


ぼくは、これは「コミュニケーションなくしては」っていうことだと

思うんですね。

「間」がなくちゃアカンっていうのは、正に「人・間」ってことですよね。


「コンテンツの思想」に収録されている対談の中で、東浩紀さんが、

って彼はここでは関係ないんですけど、ぼくにモノを教えてくれたので

名前を挙げさせてもらいますが、彼が、大陸系哲学とは要は「コミュニケー

ションは成立していない」ということであり、英米系哲学とは、

「なのに、なんでコミュニケーションのようなものがあるんだろう」という

ことだ、とずばっと言っていた。


なるほど、と膝を打ったわけですが、ぼくは、「コミュニケーションは成立

していない」というのは、正しいけど間違っていると思ったんです。


説明します。

一般に、「コミュニケーションが成立している」という物語がそれと意識

されない内に信仰されている。

そこから一段掘ると、確かにコミュニケーションは成立していない。

でも、ここで言われている「コミュニケーション」とは、

いわば堕落したコミュニケーションです。

情報を得る為に語られ、聞かれる。それは、でも、ある種偽の姿だと思う。

さらに掘り進めると、コミュニケーションは、それ自体の為に行われている。

すなわち、交換それ自体がコミュニケーションの欲望を亢進している。


つまり、コミュニケーションとは、それがなんであるかわからないからこそ

行われている交換のこと、でいいかな、日本語ヘン?

だから話がかみ合ってなくてもコミュニケーションは成立してるんだと

思います。こう言うとちょっとヘンに聞こえるけどさ。


贈ったものが別の形を取って帰って来る。

それだけが交換の本質的な要素です。


結局、「間」や「浄らかさ」とは、それなくしては交換が成立しないから

大事だと考えられているのではないか。

日本の無思想って、「人・間」的活動の最もラディカルな形態なのでは

ないか。これがぼくの仮説です。


それを、俚諺で表すならば、

「人間は一人では生きられない」ということですね。

すげー常識的です。


あと三つはまあこれと比べるとたいしたことないね。

もう忘れちゃったので今回はここまで。


この次につなげられそうな本は、

養老先生の「無思想の発見」と、

内田先生の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」の二冊。


これをそのうちに読みたいと思います。

そいじゃ。