インド・ミリクの日々~ボミカ・シャルマ~
シャルマ家と出会ってから四日目のこと。
この日、インドのコルカタからパダムの友人がやってきて、子供たちにプレゼントが手渡された。
バトミントンセットとクリケットセット。新しい遊び道具を手に入れた三人は、それはもう大はしゃぎ。ウッジャルとサーガルはクリケットのラケットを、ボミカはバトミントンのラケットを手にしてそこらじゅうを駆けまわる。
すぐにでもクリケットなりバトミントンなりをやりたい三人は、大人たちの輪の中に入ろうとする僕を無理やり引っ張って外へ連れ出そうとする。やれやれ、と思いながら僕は子供たちの遊び相手をすることになった。
さて、クリケットとバトミントン、どちらから始めよう。クリケットのラケットを手渡そうとするサーガルと、バトミントンのラケットを握らせようとするボミカ。家の外で大声を張り上げる二人の声を聞きつけて、近所の小年たちも集まってきた。
人数が多いことも考慮してか、ウッジャルの一声でクリケットをやろうということになった。僕とシャルマ家の三人と近所の小年たちが四、五人。
家から十分ほどの場所にある空き地へ移動し、チームに分かれてそれぞれの持ち場につく。野球の原型ともいわれるこのクリケットのルールを僕はぜんぜん知らない。言われるがままにボールを投げたり、打ったり、走ったり。
いつどうやって点数がカウントされるのかさえわからないけれど、野球と同じ感覚でボールを打ち返すだけでも案外楽しいものだった。「走れ走れ!!」、「止まれ!!」、「投げろ!!」などと大声が飛び交い、土埃にまみれながらも子供たちはクリケットに夢中になっていた。
そんな中、ふと、みんなの輪から抜けてその場を立ち去ろうとする一人の子供の姿。
ボミカだ。
声をかけてもボミカは振り向かない。とぼとぼ歩く彼女の暗い表情は、ちょっと用事があって家に帰るというふうには見えない。さっきまでみんなと一緒に元気に声を張り上げていたのに、今は明らかに様子が変なのだ。
僕がそのことについてウッジャルとサーガルに訊ねると、「そんなの気にしなくていいよ」と彼らは言う。でもやっぱり気にしないわけにはいかなくて、僕はあとからボミカを追いかけた。
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家にたどりつくと、ボミカはすでに部屋にいた。ベッドの淵に腰かけて両手をつき、足を交互にぷらんぷらんさせながら、部屋の片隅にあるタンスを見るともなく見つめていた。僕がやってきても目を合わせようとさえしない。どうしたの、と訊ねてもよけいにそっぽを向いてしまうだけだった。
どうしたものか困り果てた僕が黙っていると、しばらくしてボミカの足の動きがぴたっと止んだ。どこへともなく向けられた遠い視線はそのままに、彼女はゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、アンカル・・・・・・」
今にも消え入りそうなほど、か細い声だった。
「わたしはおんなのこよ・・・・・・」とボミカは言った。
「おんなのこはね、クリケットなんかしないの・・・・・・」
ボミカの言いたいことはよくわかった。我慢していたんだろう。みんなでクリケットをやろうと決まってから、ほんとはそんなにやりたくなんかなかったけれど、みんなにあわせて自分の気持ちを心の奥に押しやった。一人だけやらないっていうのも嫌だし、やるからには楽しもうとも思った。だからこそ最初は「走れ!!」「打て!!」などと叫んだりして元気な自分を見せていた。でも、そう長続きはしなかった。どうしていいのかわからなくなって、ボミカは黙ってあの場所を去るしかなかったんだろう。
「そうか、そうか、ごめんな」と言って僕はなぐさめたけれど、ボミカは何も答えなかった。
ボミカが抜け、僕までいなくなってしまったクリケットはそれからすぐおひらきになった。家に戻ってきたサーガルが妹の様子を見てやいのやいのと騒ぎたてると、ついにボミカは泣き出してしまった。しゃくりあげて泣き始めたボミカをもう誰も止めることはできない。延々と泣き続けるボミカは、ようやく静まってきたと思った頃、泣き疲れたのかそのままベッドに横たわってすやすやと眠ってしまった。
仕方がないのでそのまま寝かせておいて、僕はウッジャルとサーガルの二人と共に外でクリケットの続きをすることにした。
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三十分ほど経った頃だろうか。
僕がたまたま家の方に目をやると、部屋の窓からこちらを窺っているボミカの姿を発見した。ボミカは僕が見ていることに気づくと、とっさに頭を伏せて隠れた。試しに気づかないふりをしてクリケットを始めてみると、また顔を覗かせてこっそりと外の様子を窺う。僕がもう一度窓の方を見ると、やはり同じようにさっと頭を伏せる。
「ボミカ!!」
少しは機嫌が直ったのだろうかと思って、僕は大きな声で呼んでみた。が、ボミカは顔を見せず、返事もしない。どんな顔をしてこの場に姿を現していいのか困っているのかもしれない。ボミカが戻ってきやすいようにするために、僕はどうしようか考えた。
しかし、そんな状況を打破して先に動いたのは、僕ではなくボミカ自身だった。気がついた時にはボミカは家の入り口にぽつんと立っていて、ただじぃっとこちらを見つめていた。
無言の視線。
それは時々、僕を困らせる。そもそも女の涙と無言の視線というやつに僕はめっぽう弱い。女の涙を見せられた時には、何だか自分が弱い者いじめでもしているかのような気持ちにさせられてしまう。無言の視線を向けられた時には、相手の表情とその時の状況から、相手があえて口にしない内なる言葉を読み取らなければならない。
ねぇ、アンカル・・・・・・。
まぶたを腫らしたボミカは何も言わないけれど、見つめる視線ははっきりと語っていた。
「わたしが今ここに立ってる理由がわかる?」と。
わからない、とは間違っても言えない。ボミカは二本のバトミントンラケットとシャトルを両手にしっかりと抱き、その上でこちらを見つめているのだから。
僕はクリケットを終わりにして、ボミカの方に手を差し伸ばした。もどかしそうにしていたボミカは、どうしようか迷った様子の後、持っていた二本のラケットのうち一本を黙って僕に手渡した。
「バトミントン、やろうか」
と僕はボミカに言った。
それがボミカの望む言葉で、僕はそう言うより他になかったのだ。期待どおりの台詞を聞いたボミカは、ようやくニコっと微笑んでみせた。最後にウィンクのおまけつきで。
それからのボミカは、さっきまでの鬱屈した表情などどこへやら、一点の曇りもない晴々とした顔でバトミントンのラケットを振り回し、そこらじゅうを駆けまわっていた。
最後のウィンクを思い出して僕はおもわず苦笑した。ボミカが空き地を去り始めた時、それは実は彼女の作戦の始まりだったんじゃないだろうか。ボミカの涙と無言の視線。クリケットが途中でおひらきになり、結局バトミントンをすることになった時、すべてはボミカの思いどおりになった。
女の涙と無言の視線は脅威だ。そしてちょっとばかり、ずるい。それが子供であれ、大人であれ。ボミカの行為に意図はないと思うけれど、弱冠8歳にして彼女は、無意識のうちに女の武器なるものを身につけてしまっているわけだ。
天使のような笑顔とかよわき涙、無言の視線。
シャルマ家のお姫様ボミカ。
この子には勝てない、と僕は思った。