タクシーの運転手
僕を乗せたタクシーは、なんとなく見覚えのある街並みへと入ってきた。
病院までは、サダルストリートから二十分ほど。前にも行ったことがあるからそれだけはわかっている。具体的な場所までは覚えていない。なにしろ前回も体調の悪さで道を覚えている余裕などなかったから。病院の名刺に住所が記載されているから問題ないだろうと思っていた。タクシーの運転手もそれを見てわかると言ったのだから。料金のことだけが心配だった。三十ルピーでいいとは言ったものの、こうした乗り物でのトラブルは最後まで何が起こるかわからないからだ。とにかく一刻も早く、かつ無事に病院へたどり着くことが、僕にとっての最優先事項だった。
そう思っていた矢先、タクシーが道路脇に寄せられ停車した。
「ここだ」
無表情のまま運転手は僕にそう言った。
目の前にも、あたりを見まわしてみても病院なんてどこにもない。確かに見覚えのある景色で、病院がある程度近い場所にあるのはわかるけれど、ここではない。
「俺は以前にも病院に行ってるんだ。はっきりと場所は覚えてないけど、ここじゃない。その名刺に住所は書いてあるはずだ」
と僕は言った。
「あとは、人に訊けばわかる」
と運転手は淡々と答えた。一瞬カチンときたけれど、僕は感情を抑えて冷静を保った。「お願いします」と一呼吸おいてからゆっくり、丁寧に言った。
「病院の前まで行ってください」
だが、突然むきになって怒鳴り始めたのは運転手の方だった。
「あとは歩いていけと行ってるんだ!!」
その言いざまに、僕はどうにも我慢することができなかった。
「おまえ、これタクシーだろ!!」
運転手の対応につい怒鳴り返してしまった瞬間、また腹に激痛が走った。
―くそぅ・・・
舌うちをしてから、もう一度冷静になろうと感情を大きなため息に包んで吐き出した。だが運転手の方は落ち着くどころか、よりいっそう声を荒げるばかりだった。
「早く金を払え!!」
僕の座っている後ろ座席の方を振り返って運転手は言った。
「ふざけんな!!!!!」
苦しかったのもあって、悔しさもあって、ありったけの力を振り絞って日本語でそう言い放ち、僕は十ルピー札二枚を投げつけてタクシーを降り、思い切りドアをばたんと閉めた。運転手もカッとなったのか勢いよく外へ飛び出し、僕を睨みつけながら車の屋根を手の平でばんばんと激しく叩き鳴らして叫んだ。
「おい!!!あと十ルピーはどうした!!!」
頼んだ場所まで到達していないのだから約束どおりの額など払うつもりはない。
「俺は病院って言ったんだ。ここは病院じゃないだろうが!!!」
僕はそう言って相手の反応など無視して振り向き、歩き始めた。運転手はそれ以上食ってかかってはこなかった。そもそも病院まで行って二十ルピーが正当な料金なのだ。依頼された場所まで送らなかったにも関わらず、それでも十分な金を手に入れることができた時点で運転手も満足だったのだろう。
そこから僕はふらふらになりながら何人もの街ゆく人々に道を訊ね、病院を探してまわった。気を抜いたら倒れてしまいそうで、どれほどの時間がかかったのかなどわからない。迷った分も含めて三十分は無駄に歩いたのではないか、そんな漠然とした感覚だけが残っていた。
病院の入り口にたどり着いた時、僕は受け付けも済ませることなく、倒れ込むようにしてソファーに沈んだ。