酒⑦「急性肝炎」 | 獏井獏山のブログ

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・福井事務所に転勤になって2年目の夏の事だった。福井では最も楽しい季節である。私は相変わらず毎日のように夜の福井を満喫していた。今度の事も熊井さんと飲んだ夜の出来事だった。初めは若手職員も交って飲んでいた。店を出たのは11時前だった。駅前からタクシーで帰路についた。我が家に着いたのは11時半頃だった。熊井さんと小川君が一緒だった。今思うと、どうやらタクシーを乗る段になって「まだ早い、うちで飲もう。」ということになったようだ。2人を家に上げて酒を飲んだ。1時間ぐらい経って熊井さんが「もう帰る。奥さんタクシー頼みます。」と云った。当時はまだ電話を取ってなかったので、妻が神明駅前までタクシーを呼びに行った。タクシーが着いて「それじゃ。」と云って熊井さんと小川君が手を振った。私も手を振った。何と3人揃って妻に向って手を振っていたのである。3人は、「我が家でもう少し飲もう。」という熊井さんの言葉に従って車中の人となり、上鳥羽の熊井宅へと向かったのである。しかし熊井氏の家には日本酒もビールもなかった。有るのはサントリーレッドだけだった。普通、夜の12時を過ぎると余り強い酒は禁物である。ましてレッドは悪酔いし易い洋酒ということで評判が余り良くなかった。しかし当時の私はお構いなしだった。以前、青年会で飲んだ折りと兄の結婚式の時以外、幾ら飲んでも悪酔いしたことのない私はどんな酒に対しても、また、どのような飲み方についても高を括っていた。「レッドね、結構じゃないですか。」私は半ば戯けながら、ガラスコップになみなみと注がれたサントリーレッドのストレートをグイグイと一気に飲み干し、2杯目を注ぎ足すとそれもゴクゴクとコップ半分まで飲んだ。そこまで飲むと流石に喉が焼けて「奥さん、水をください。」と声を上げた。水を飲むとスーっと納まって別にどうという事は無かった。その後、残りも飲み干し、1時間ばかり雑談をした段階で2人とも泊めて貰うことになり床に就いたのは2時前だった。事件が起きたのは床に就いて約2時間経った頃だった。ウトウトと、寝付きの悪い私が漸く眠りかけた時、急に何とも形容し難い苦痛が私を襲ったのである。それは以前悪酔いした時に味わった苦しみとは比較にならない強烈なものであった。私は呻き声を発して布団の中でのた打ち回った。熊井さんが起きてきて「どうした!」と呼び掛けたのにも応える余裕はなかった。熊井さんが水を持ってきて「これを飲め。」と云ったが身体はそれを受け付けなかった。小川君が背中を擦り出したが身体が拒否反応を起こして撥ね退けた。身体を起こすことも出来ず、私は布団の上で転げ回るしか為す術がなかった。熊井さんが近所にある掛り付けの医者を呼びに行ってくれた。夏とはいえ午前3時、4時である。少々の付き合いでは態々来てくれる時間ではなかった。しかし20分くらい経った頃医者が来てくれたのだ。部屋に入って来た医者は身体のあちこちを触ったり目の中を覗いたりしてから「無茶苦茶呑んだな。急性肝炎や。」と云い、「けど、それより心臓が危ない。兎に角今は強心剤を打っておくわ。これで命に別状はないやろ。あした改めて精密検査を受けに来るように。」と云って帰った。夜明け頃になって強烈な苦しみは峠を過ぎたが、身体の内側を抉られるような痛みは続いており、加えて不眠のため動くことも声を出す事も出来なかった。9時ごろ、報せを受けた妻が駆け付けてきた。私は妻に抱き抱えられるようにして、昨夜来てくれた医院に出向き診察室に入った。医者は私の状態を一目見て「まだ、精密検査をするのは無理やね。薬を出しとくから今日はこれを飲んで寝てなさい。検査はもう少し元気が回復してからの方がいい。」と云い「しかし、また此処まで来るのは大変やろ。」と云って、神明駅前にある医院を紹介してくれた。

…余談になるが…ある程度の期間この地に住んでみて分かった事だが、鯖江の医者は皆、「赤髭診療譚」に出てくる人のように親切で、薦んで他の医療機関を紹介することなど当たり前のようだった。…

その日は1日中家で寝て、次の日、紹介された医院で精密検査を受けた。その時、医者はこう云った。「普通だったら心臓麻痺死んでたか、そうでなくても肝臓が破裂しているところやった。よう生きてたわ。あんたは心臓も肝臓も余程強く出来てるんやな。親に感謝して身体を大事にせんといかんよ。」と。

家に帰ってからも起きておれず、水も喉を通らず、ようやく重湯を口にすることが出来たのは3日目で、布団を出て出勤したのは1週間後だった。