朝起きると知らない名前が携帯電話に表示された。寝ぼけた頭を軽く振り、冷蔵庫からよく冷えたビールを取り出す。ソファに腰をかけてからビールの栓をあけると気持ちのいい音がした。一口飲んでから、もう一度携帯電話のメールを見てみると頭の中に一人の顔が浮かび上がった。そしてボクはメールをゆっくりと読み口元をシニカルに歪めた。

自分に正直に行動できたあの頃に言ったよね、キミガノコトガスキ。この言葉に嘘は無く、あの頃のボクはキミを心底求めていたんだよ。キミの好きなことを好きになろうと努力したり、キミと話したことを思い出しては独りでにやけたりしていたんだ。キミからさそわれれば、キミの空いた時間の暇つぶしであっても、ボクは尻尾を振って逢いにいったよ。
でもね。あれから何年経ったと思う?
わき目もふらずにキミだけを見るには、ボクは歳をとってしまったみたいだ。
勝手にスキになって、勝手に無関心になったボクが悪いのかい?
違うよね、誰も悪くないんだ。
キミは一度通り過ぎたら二度と戻ってはこれないことを知っていながらボクの前を通り過ぎて行ってしまったんだ。
キミのことを嫌いになったわけではないよ。ただキミにかける時間とお金をボクは持ち合わせてはいないだけ。
ボクは携帯電話のメモリーからその名前とメールを削除した。そして電話を置きテレビを付けた。
人と繋がることを合理的に考えて作られたツールを使って繋がりを切るのか、そう思うとなんだか可笑しかった。机を整理するように簡単に人間関係も整理できることは便利なことなのだろうか。きっとボクの携帯番号もどこかで整理されているのだろう。それでも誰かとの繋がりを求めることは矛盾しているように思えた。
ビールを飲みながらぼんやりとテレビを見ていると、携帯電話がメールの着信を教えてくれた。友達からの買い物の誘いのメールだった。ビールを飲み干すと僕はそれに返信をして出かける準備をした。
たとえ矛盾していてもボクは誰かと繋がっていくだろう。この携帯電話を使って。きちんと繋がれない人の方が多いかもしれないけれど、それでもかまわないと思う。その中で本当に大切な人がきちんと繋がっていれば。
準備ができるとボクはもう一度友達にメールをした。胸の前で両手を使って携帯を操作している姿はまるで祈っているようにも見える。きっと町中の人が繋がりに祈りながらメールをしているのだろう。ボクは自分のくだらない考えを鼻で笑い家を出た。

あたしにはキミの気持ちはわからないし、キミを助けてあげることなんてできない。キミの為にできることなんて無い思う、だってそれはキミが選んだことだから。

 でもね、もしキミが不特定多数の人から否定されても、あたしはキミを受け入れるよ。

 あたしにできることはキミを否定しないこと、それぐらいのことしかできないから。

 あたしだけはいつも味方だよ、なんて上っ面だけで言える台詞は言わないけれど、いつでも話は聞いてあげる。だってあたしはキミだもん、逢いたかったらいつでも逢えるよ。

 でもね。逃げ込むのは良いけど、ココを居場所だと思わないで。キミの居場所はもっと現実的で厳しくて、温かい所だから。

 キミはそこでしか生きられないんだよ。

 朝目を覚ましてPCの電源を入れる。立ち上がるまでの間、タバコを咥えてコーヒーを淹れる。煙をゆっくりと肺の奥に吸い込みゆっくり吐き出すと段々目が覚めてくる。

もう早起きしなくても良いんだよね。そう思いながらにんまりと微笑んだ。

 鞄を持ってお化粧をした同居人が部屋から出てくる。あたしが玄関まで行くとモゾモゾとブーツを履いていた。

イッテラッシャイ、と言うと眠そうに、いって来ます、とだけ答えた。軽くキスをするとにっこり微笑んだ。あたしはコーヒーを持って部屋に戻り立ち上がったPCでネットをチェックした。


 あたしは無職になった。往復2時間かけて15時間働く生活に文字通り身を削り、好きなことをする時間を作ることよりも睡眠時間をとることに悩む生活に何かがはじけとんだ。

 まずはリハビリ。何も考えない練習をしよう。ぼんやりとテレビを見たり本を読む時間は山ほどあるので。アタシの時間全てをあたしの為に使おう。

 このままでいられないのもいつまでも何もしないでいられるほどの蓄えがないことも十分承知している。それでもあえてあたしは何もせずに今を過ごしたい。

 

あたしはトモダチにメールをしてから求人サイトをいくつか見て回った。おなかが空いたらパスタを茹でて牛乳で作ったホワイトソースに卵の黄身をのせて食べよう。そう思いながらモニターから目を離すとベッドの脇のピンク色のクマのぬいぐるみが微笑んでいるように見えた。

久しぶりに逢ったキミは一目でボクを見つけたね。抱きかかえられていた乳飲み子に、ボクは不思議と違和感を覚えなかったよ。なんだかそれは自然な光景でキミの居場所のように見えたんだ。だからボクが乳飲み子を抱きかかえた時に泣き出さなかった時は、本当に嬉しかった。キミの居場所に拒絶されなかったと思って安心したんだ。キミの人生が平坦だったとは思わないけれど、キミの人生の分岐点はいつも戦場で、ボクには話を聞くことしかできなかった。キミはそれだけ密度の濃い人生の中でようやく安らげる場所を見つけたのだから、もっとシアワセを実感していいと思うよ。乳飲み子とともにゆっくりと時間をかけて。もし誰かに話したくなったらいつでも逢おうよ、のんびりと緑の溢れる場所でお酒でも飲みながらキミの話をゆっくりと聞きたいよ。
ボク達はきっと何年ぶりかに逢ったとしても、久しぶり、の一言と笑顔で何年もの隙間を埋めることができるんだろう。世代や性別、血脈をこえて兄妹のように違和感なく逢えるのだろう。今のキミは、妻であり母だけれどボクにとってのキミはキミでしかないんだ。だからキミが戦場の中でも笑っていられれば、ボクも笑って話を聞けるんだよ。

そんなことを思ってベッドにもぐりこむと、笑顔がこぼれていた。
ボクは血脈の無い兄妹のシアワセを祈りながら、眠りについた。

シアワセって意外と慣れないものだね。と彼女は言った。溜息を一つこぼしながら自嘲気味な笑顔を作って。僕は相槌を打ちながらビールを流し込んだ。最近できた彼氏と同棲を始め、一番楽しい時期なのに。シアワセなはずなのに。しょうがないよ、と言って僕はビールをおかわりした。煙草に火を付けながら「キミの今までの人生が障害物競走だったのだから、いきなり平坦な道は走りにくいんじゃない」 彼女はにんまりと笑いながら僕のビールを奪い一気に飲み干した。
シアワセに慣れていない彼女はつねに不安を抱え込んでいる。つねに心に予防線を張っていないと傷ついてしまうと思い込んでいるから。シアワセであればある程その不安は大きく彼女を包み込むのだろう。でもね。 今までの人生でシアワセだった期間が皆無だったキミはもっとシアワセになる権利を持っていると思うよ。だからその不安をさっさと捨てちゃいなよ。僕はそう思ったけれど、言葉にはしなかった。だって彼女の人生を侮辱することになるから。
彼女にかける言葉がみつからない僕は自分のシアワセを願うことのできない彼女の代わりに、琥珀色のビールに彼女のシアワセを祈った。カンパイして一口飲むと彼女が安心して笑っているように見えた。

 それはとても下手なシチェーションだったと思う。
 放課後の夕日の差す教室で、日直で一緒に黒板を消していた淳二君に告白した。淳二君のことは好きだけど告白する程好きだったかと、今落ち着いて考えるとそこまで好きじゃなかった気がする。でも放課後の教室と言う場所と時間は相手を三割格好良く見せてあたしの感情に何かを植え付けた。それは急速に成長してあたしの体を支配する。気が付くと順次のことが好きでどうしたら良いのか考えていた。
 殆ど話したこともない、暗いあたしの告白に順次は困ったように笑い視線を背けた。
「ごめん、美夜ちゃんのこと友達としてしか見れないから」
 順次はあたしをしらけさせる為にしか言えないようなことを平然と言った、当然あたしはしらけた。

 友達ですらないくせに......。

 お互いの家族構成や趣味や思考。それどころか携帯の番号もアドレスも知らない癖によく言えたものだ。「俺は知らない人とは付き合えない」と言ってくれたらどんなに良かったのに。きっとまた惚れ直してたと思うな。でもあたしなんかと付き合わなくて良かったのかもしれない。クラスでも殆ど誰とも話さないで、学校が終わると真直ぐ家に帰るあたしはクラスで浮いている。でも複数の人といると、だれと喋って良いのか分からなくなって喋れなくなってしまう。居心地が悪いのだからしょうがない。グレゴール・ザムザのように毒虫になれば喋らなくて良いかもしれないな。そんなことを思いながらあたしは家に帰った。
 あたしは自分の部屋のベッドの上で、まくらに顔を埋めながら鼻で笑った。順次にふられて帰り制服も脱がないでベッドに倒れ込んだのだ。あたしが暗いのはきっと夜に産まれたからだと思う、父親やあたしの産まれた夜を美しいと感じて、美夜、と名付けたと母親がのろけるように言っていた。でもあたしは夜に産まれたこともこの名前も好きになれない。毛虫やナメクジが何も悪いことしてなくても嫌われるようにあたしも理由もなく好きになれない。
 あたしを惑わした夕日が段々と消えていき、夜がやって来る。ベッドで横になり目を閉じていると眠ってしまった。久しぶりに夢を見た。それは子供の頃父親にプラネタリウムに連れて行ってもらった時の夢だった。父親は固い椅子に座ると暗くなり怖がるあたしの頭を撫でてくれた、大きくてゴツゴツした手で、あたしはその手の小指を握りしめていた。女の人のアナウンスとともに暗闇に沢山の星が光り輝く、あたしが作り物の星を、キレイ、と何度も言いはしゃいでいると、父親はあたしの耳もとで囁いた。
「美夜が産まれた夜は、もっともっと広い空で沢山の星が輝いてい奇麗だったんだぞ」
 暗くて見えなかったけど父親は優しく、あたしを見守るように笑っているように感じた。
 
「美夜、聞こえてるの?電話よ」
 母親のヒステリックな声と部屋のドアを叩く音で目を覚ました。
 あたしが部屋を出ると母親はわざと驚くように、いつまで制服着てるの、シワになるから早く脱ぎなさい、と言って電話の子機を乱暴に手渡し、誰からなのかすら言わずにぶつぶつ文句を言いながら台所に戻って行った。
 誰から何だろう?友達のいないあたしは滅多に電話なんて使わないので、緊張してしまう。ぎこちない手付きで耳もとに当てて、もしもし、と言った。
「あ、美夜ちゃん。俺、順次だけど......」
 危うく電話を落としそうになった。どう必死に考えても順次があたしに電話を掛けて来る理由が思い当たらない。混乱した頭で言葉を探したけど上手く見つからなかった。
「もしもし、何?」
 ようやく出てきた言葉がこれかと思うと情けなくなって、言った瞬間に後悔した。
「あ、あのさあ、今日美夜ちゃんに言ってもらってホントに嬉しかったんだ、でも美夜ちゃんのこと知らなかったからあんなこと言ったんだけど......」
 あたしは順次の声が好きなんだと思った。独特の間でゆっくりとした喋り方とこの声を聞いていると安心出来る。それが父親に似ていると気が付き納得するとおかしくなってきた。
 そうだ、昔は父親と沢山遊んだ、いつも疲れておんぶされて帰って来た。
「......もしもし、聞いてる」
「あぁ、ごめんごめん、うん聞いてるよ」
 あたしの声が急に明るくなり順次が少し驚いているのが分かった、あまり使わないけど電話は声だけを伝えるものじゃなかったんだと思った。だからみんな携帯電話を持ち必死に気持ちを繋げようとしているんだ。
「だから友達になろうよ」
「え?」
 なんでそんな結論になったのか、それよりも友達になろうって。あたしは鼻の奥がつんとしてきた。
「なに言ってるの?」
「だって俺美夜ちゃんのことちゃんと知らないし美夜ちゃんも俺のこと知らないでしょ?、そうだ、今度遊びに行こうよ何処行きたい?とりあえず携帯番号教えて」
 父親に似た順次の声を聞きながら、あたしは電話の向こうの順次に悟られないように泣いた。
 順次はあたしのことをちゃんと考えてくれた。そしてあたしのことを知りたいと言ってくれる。誰かと繋がっていることがこんなに安心出来るものだなんて知らなかった。
 見られるわけがないのに急に恥ずかしくなってきて、音を立てないように鼻を啜り涙を制服の袖で拭いた。
「秋葉原に行きたい......」
「え、秋葉?美夜ちゃん何か欲しい物あるの?」
 あたしは産まれて初めて、「美夜」と言う名前を好きになれた。順次にこの名前で呼ばれると嬉しくなって来る。
「携帯が欲しいの」
 あたしが言うと順次は不思議そうに、うんわかった、と言った。
 それからどうでも良いことを何となく話し、ばいばい、と言って電話を切った。パジャマに着替えて制服をハンガーに吊るしクローゼットにしまった。
 順次の手は父親のように、大きくてゴツゴツしてないだろうな、と思いながら、秋葉原の人込みの中で手を繋いで歩くのを想像して耳が熱くなった。

 そこは駅のそばの小さな居酒屋で、大声で話す若い子やお酒に飲まれてるサラリーマンがいないので静かに話すことが出来る。ここはあたしとトウコの二人だけの秘密のお店せだった。トウコとは学生の頃からの付き合いで、当時動物のお医者さんにはまっていてトウコはあたしのことをハムコと呼ぶ。嫌だったけれど嬉しそうに呼ぶトウコを見てたら、嫌だと言えずに結局定着してしまった。
 昨日突然トウコからメールが着た。お互い仕事があるので学生の頃のように、逢いたい時に逢えない。だからあたし達はまめにメールで連絡を取り合っている。正確にはあたしが一方的にメールを送っていて、あたしが3回送ってもトウコからは1回返事がくるかどうかだ。
 トウコからのメールは飲みの誘いだった。大事な話と言っていたけれど、どうせただの気まぐれか時間が空いただけのことだろう。この前のトウコの大事な話しは猫の里親探しだったし、その前は一緒に浴衣を作ろう、だった。あたしはやれやれと思いながらメールの返事を送るとにやけてしまった、その後は気合いで仕事を片付けながらいつもの居酒屋、へルタースケルターでトウコと馬鹿なことをして笑っている自分を想像して可笑しくなった。
 ホワイトアルバムには先にトウコが着いていた。あたしが薄暗い店内をうろうろしているとトウコが先に気が付いて、ハムコこっち、と言って手を振る。あたしの中に親を見つけた迷子みたいに安心感が顔中に広がった。トウコの居る席に行くとトウコの隣に見知らぬ男が座っていた。表情が固まっていたあたしにトウコはビールを飲みながら、あたし結婚するんだ、と笑って言い、照れくさそうに笑う男があたしのビールを注文してくれた。
 「ハムコさんだよね?話しはいつもトウコから聞いてるよ、なんか想像通りの人だなあ、今日は俺のおごりだから好きなの頼んでよ」
 あたしは出てきたビールを一気に飲み、そのまま店を飛び出した。店のドアを開けるまで堪えてた涙が一気に流れる、この涙は絶対にトウコには見せたくなかった。
 泣きながら家までの帰り道を歩いていると、段々悔しくなり嗚咽がもれてきた。あの店はあたし達の秘密のお店なのにあたし意外の奴とあそこで飲むなんて、しかもあの男はあたしのことをハムコと呼んだ。あたしのことをハムコと呼んでも良いのは世界中でトウコだけなのに、どんなにあたしと仲良くてもトウコにとって大切な人でも、トウコしか呼んじゃだめなのに。
 あたしは家に帰っても涙がとまらず、着替えて布団に潜り込んだ。何度も震える携帯電話にはトウコからの着信が沢山きていた。あたしは携帯の電源を切り、目を瞑ると、トウコと過ごした時間を思い出し寂しくなった。あたしとトウコは同じグループだったけどあたしはトウコさえいれば他の友達もいらないと思っていた。
 もしあたしが男なら、どんな手を使ってでもトウコを妊娠させて、死ぬまで一緒にいるだろう。あたしは何にむかついているのか、まったく分からなくなるほどむかついてきた。目を瞑っているのに全然眠くならない。止まらない嗚咽にもむかついた。
 あたし達がどんなに仲良くても結局は女同士、結婚相手を見つければ、苗字と共に恋人から妻に変わる生き物なんだ。子供が産まれれば、母親にもならなくちゃいけない。トウコはあたしよりも先に一緒に歩いて行く人を見つけただけ。そして男みたいに外に世界がない女は家庭を守り他の人に逢う機会が無くなっていく。それは分かっているしょうがないことだと思う。
 でもね、それでもあたしはトウコの居場所を作りたかった。いつでもあたしの傍で笑っているトウコさえいれば、きっとあたしはシアワセだと思う。でもそれは現実的にありえないこと。わかっている、わかってはいるのだけれど。
あたしは布団から出て台所に行った。冷蔵庫からビールを取り出しベランダに出た。
 オメデトウ、トウコ。
 あたしは夜空に向かって缶ビールを上げて一人で乾杯した。
 また、涙が流れてきたが嫌な感情は湧かず自然と笑うことが出来た。

 間接照明の暗い部屋は彼氏の匂いで満ちあふれている。安いワンルームのアパートで、畳にベッド、テレビにちゃぶ台と少しちぐはぐだけど違和感を感じることがなくそれが彼らしいと思った。
 裸の彼に腕枕をされて天井の木目を視線でなぞっていると、彼が抱き着いてきた。
「多恵ちゃんはいつも天井を見てるよね」
「え、そう。」
 あたしはそう言って天井か視線を外す、彼の方を向いて優しくキスをした。彼は手を延ばし煙草を取った。火を付けながら腕枕をしていた手であたしを撫でる。
「多恵ちゃんさあ、今シアワセ?」
「え?」
 あたしは眉間に深い皺を寄せて、彼の質問の意図を汲み取れずに聞き返した。彼は学生アルバイトであたしの家にセールスに来たのがきっかけで、今の仲になった。新婚のあたしは何一つ不自由はしていないつもりだった。ほんの数カ月前に友人や家族、親族達に祝福されたばかりでシアワセ一杯のはず。
 そう、幸せな筈なのだ。まだ、30年以上ローンが残っているが新築マンションも買ったし、旦那はあたしよりも年下で少し頼りないけど、めったに怒らない優しい人。早く子供が欲しいね、と目を輝かせて言っている。お酒も煙草もやらないで仕事が終わると真直ぐ帰ってきて、あたしのて料理を食べながらあたしの話しを聞いてくれる。楽しかったことには声を立てて笑い、嫌なことや愚痴には絶妙なタイミングで合図値を打ち、一緒に考えてくれる。
「多恵ちゃんさあ、あんまり笑わないからシアワセじゃないのかなって」
「何いってるのよ、新婚さんよ?シアワセにきまってるじゃない」
 あたしは彼の煙草を取り、一口大きく吸い込んだ。彼と目が合い、にや、と笑う。
 シャワー借りるね、と言ってあたしはおふろ場に行った。安いアパートなのでお湯が出るのに時間がかかる、あたしの家ならすぐに熱いシャワーを浴びれるのに。正確にはあたしの家ではないか、あたしはそう思いながらまだぬるいシャワーを頭からかぶった。
 旦那が一生懸命汗水垂らして働いたお金で、あたしは優々と暮らしている。あたしはその代わりに彼の世話と性欲の処理をする。持ちつ持たれつってやつだ。それに不満はない、不満はないはず。
 でも、その生活に慣れてくると、あたしは何かを求めようとしていた。どんなに必死に我慢してもその感情を押さえ付けようとしても、ふつふつと湧き出て来る。それを求めることは道徳的にいけないことだと分かっている、あたしは人に妻になったんだもの。

 ダレカヲアイシタイ。

 旦那を愛せば良いじゃない。他の人を見れない程好きになればいいじゃない。何度も自分に言い聞かしたけど、理屈ではどうしようも出来ない感情があり彼と逢った時それは押さえ付けられない程強く溢れ出した。刺激は欲しいとかセックスがしたいわけでも背徳的な行為に酔いしれたいわけでもない。
 なれ合いではなく誰かを愛していたいだけ。
 あたしは彼を愛している。その気持ちはとても優しくこの部屋とこのベッドを包み込んでいる。
 でもそれは結局は自己満足。それでいいじゃない。
 あたしはお風呂場から出てタオルで体を拭く。彼の待つ部屋に行くとあたしはタオルと取った。裸で道々と歩くあたしを見て彼が笑い、つられてあたしも笑う。彼を優しく抱き締めてキスをした。
 窓から差し込む光、あたしだけを見ている彼。あたしはシアワセなのか分からないけど、彼とならよけいなことを考えずに笑っていられる。このままずっと抱き締めていられたらな。あたしは頭の隅っこから出てきた言葉を胸の奥にしまいこみ、今日の晩御飯の献立を考えた。

 喉がカラカラに乾き重い頭を手で支えながら起きると、大きな夕焼けが部屋から見えた。一応パジャマに着替えてはいるがボタンは全部止めてなくて小さな胸が丸出しだった。
 二日酔いではなく西日で部屋が蒸し暑くて喉が渇いている、まくら元にあった何時から置いてあるかわからないペットボトルのお茶の一口飲み込んだ。生暖かいお茶は不味いけど乾いた喉が音を立てて流し込むのを止められなかった。
 ベッドの中で体を伸ばす。段々とはっきりしてくる頭の中で点々と浮かんでいる記憶の映像を噤みまとめ、思い出すとにやけてしまう。

 あたしは昨日振られた。それも二人同時に。

 彼氏だった順一には浮気がばれて、浮気相手だった千里には彼女が出来たからもう逢えないと言われた。
 昨日はあたしの28回目の誕生日で、順一と二人でちょっと高いレストランで食事をする約束をした。何となく順一の口数が少なかったけど、あたしはこのレストランに行くのが楽しみで、順一のことに気が回せなかった。ワインを飲みながら、順一にアリガトウと言って微笑むと、彼は重そうに口を開いた。
「正直に答えて、純子ちゃん浮気してるでしょ」
 あたしは持っていたグラスを落としそうになり表情から笑顔が消えた。
「この前残業終わってから先輩と飲みに行った時に見ちゃったんだよね、純子ちゃんが髪の長い男と手組んで歩いて行くのを。あの先ってホテル街しかないじゃん」
 言いながら彼の手は震えていた。
 あたしは言い訳をしないで彼の話しを聞いた。彼は自分が年下であることを恥じているようでもっと自分に頼って欲しかったと言った。他の男に頼ったあたしは彼のプライドを深く傷つけていたらしい。お酒が入り酔っぱらった彼は、今すぐではないけどあたしと結婚することを考えて付き合っていると言い、目に涙を浮かべてた。その話しを聞いてあたしの申し訳ないと思う気持ちと愛情は急に冷めだした。彼はずっと黙って話しを聞くあたしにイライラしたらしく、お酒も手伝って喚き散らした。言いたいことが言い終わるとまた最初から言う。まるで壊れたラジカセのように何度も続いた。
 さすがに三度も同じことを言われるとあたしもいらついてくる、ちびちびと飲んでいたワインが絶対量を越えていたらしくつい本音が漏れてしまった。
「あたしは順一と結婚する気なんて全然ないよ」
 順一は目を見ながら微笑むあたしに一瞬驚き表情がなくなる、顔が段々と赤くなって行き怒りをあらわにした。テーブルを叩いて立ち上がった。
「もう別れよう、お前なんか知らねえ!」と言うとあたしを睨み、一人でお金を払い出て行ってしまった。残されたあたしも周りの視線が痛くて追い掛けるように店を出たが、もう順一の姿は見えなかった。
 あーあ、終わっちゃった。そう思うとあたしの小さな胸が少し痛んが悲しくはなかった。順一は一緒にいて楽しいし、あたしのことが好きなんだと自然に思わせてくれる。でも結婚することなんて想像出来ない。順一とは今が楽しいだけで一緒の未来を想像出来なかった。
 それから駅まで歩きながら友達にメールで振られたことを報告した。そうしておけば飲みや合コンに誘われるからだ。千里にもメールしておこう。きっと暇ならすぐに電話してきて朝までどちらかの家で朝まで飲むことになるだろう。予想度通りメールを送って1分もしないうちに千里から電話がきた。
「もしもし、純子?」
「もしもし、あたし振られちゃった」と笑いながら言うと千里は黙った。
「千里、あたしと付き合う?」
 少し意地悪に言うと千里はまじめな声で、あのさあ、と言った。
「俺さあ、彼女出来たんだ。今までと違って今度は本気なんだ、結婚も考えてる。だからもう純子とも逢えない」
 あたしは千里が何を言っているのか理解出来なかった。今まで散々浮気相手してた癖に今さら何を言ってるんだと思った。
 沈黙のなか千里は、ごめんな、と言って電話を切った。
 切れた音のする電話を耳から離し鞄に放り込む、あたしはどうしたら良いのかわからなくなりながら電車に乗った。どうしてもまっすぐ家に帰りたくないあたしは、駅前のバーに行った。そこでワインを1本開けて酔っぱらっているのに誰もナンパしてこかった、いまならどんな男にでも付いて行くのに。この際マスターでも良いや、そう思ったあたしが抱き着くとマスターは不機嫌なな顔をしてあたしを追い出した。マスターはそのまま看板をしまいバーの看板の電気は消えて真っ暗になった。
 
 ベッドの中であたしは煙草に火を付ける、大きく吸い込み肺の奥まで煙りを流し込んだ。ゆっくりと吐き出しながら窓を見上げると太陽が頑張って光を届けている。まるであたしに早く起きろと言っているようだ。
 のそのそとベッドから這い出て冷蔵庫を開けた。中には漬け物とビールしか入ってなかった。冷蔵庫の光に照らされビールと漬け物にじっとみられてあたしは笑う。悲しいのか可笑しいのかわからず、ただ笑うことしか出来なかった。

 会社を出るととても蒸し暑く、曇っているのか晴れているのか分からないような空模様だった。まるであたしの心の中のようだな、と思い苦笑した。
 駅までの道のりで友達に電話をかけられるだけかけたのだけど誰一人捕まらなかった。あたしは駅のホームで深くため息を付いた。
 家には夏彦がいる。いや、いてあたりまえなんだけど......。
 あたしと夏彦は同棲して三ヶ月たつ。そして先週前の彼女と連絡を取り合っていることに気が付いた。良くメールや電話をしているのは知っていたけど、それがまさか前の彼女だったなんて思いもよらなかった。あたしがそのことを詰め寄ると、夏彦はとても真剣な顔をして、別れても大切な友達なんだ、と言った。それからお互い家にいる時は気まずくてまともに顔を合わせないようにしている。
 大切な友達って......。あたしは呆れて何も言えなかった。一緒に住んでいる彼女を前にして、まじめな顔をしてどうして元カノを「大切な友達」と言えるだろう。そんなことを言われたらあたしがどう思うかとかわからないのだろうか。
 思い出しただけでも軽くへこんでくる。電車の窓から見える、どんよりとしたねずみ色の雲がさらにその気持ちを増幅させて、帰りたくない気持ちが段々と強くなって行く。それでも帰る場所はあの家しかないんだ。あたしの心情を無視するかのように、電車は駅に着いてしまった。それは当然なんだし、そんなに帰りたくないなら何処かに寄って帰れば良いだけの話しだ。でも夏彦があたしのいない間に元カノと逢っているのかもと思うと、いてもたってもいられなくなる。夏彦と顔を合わせにくいけれど、夏彦が元カノに逢っているのは嫌だ。あたし自身どうしたいのかわからなくなっている。
 あたしはお弁当を買いにコンビニに寄った。夏彦とは一緒にコンビニに行くのも楽しかった、夏彦がコンビニ限定のフィギュアを箱ごと買おうとして喧嘩したり、サラダのドレッシングをゴマか醤油にするかで悩んだりしてた。近所のコンビニですら夏彦との思いでが詰まっていて、今のあたしには寂し過ぎる。あたしは適当におにぎりとサラダを選び早足でコンビニから出た。
 家の玄関を前にするとあたしは無意識に身構えた。大きく息を吸ってドアを開けると夏彦はダイニングでテレビを見ていた。おかえり、と夏彦はテレビから目を離さずに言う。テレビはダイニングにしか無いので、あたしはこの数日間テレビを見ていない。あたしは俯きながら、ただいま、と言ってそのまま自分の部屋に向かった。何も言わずにテレビを見ている夏彦が視線に入って来る。話したい衝動が喉から出て来るが、どう話しかけて良いかわからない。何を話して良いかわからずあたしは自分の部屋に入りドアを閉めた。ドアの金属質の冷たい音が寂しくて、鼻の奥がツンとした。でも涙は出てこない。元カノのことであたしは怒っている。でも夏彦のことは好きなんだと思う。どんなにムカついても嫌いになれない。愛情や憎悪、寂しさが混じり合いあたしの思考は混沌としている。あたしは何も考えず流れ作業のように着替えて、おにぎりを食べた。御飯を食べて一服してから下着をもってお風呂に行くと、いつのまにか夏彦は部屋に帰っていた。明かりが漏れているので寝てはいない。ひょっとしたら元カノとメールをしているのかも、と思うと胸のまん中がさわさわしてくる。あたしは逃げるようにおふろ場に向かった。温めのシャワーを浴びながら最近使っていない湯舟を見る。一緒に暮らしはじめた頃はこの狭い湯舟にお互い器用に体を折り抱き締め合いながら一緒に入っていた。何処にいても夏彦との思いでが溢れて来る。あたしは早々にお風呂を出て部屋に戻った。
 こんなに寂しく思うのに涙が出てこない。感情が上手く繋がっていないみたいだ。あたしは電気もつけっぱなしでただベッドの上でうつ伏せになった。目を瞑っていると色々なことを意志とは関係なく思い出す。悲しければ悲しい程、寂しければ寂しい程楽しかった頃の思いでが勝手に出て来る。どんなに喧嘩してもあの頃はシアワセだったんだと思うと不安に押しつぶされそうになる。もしこのまま夏彦と別れたらあたしは後悔しか出来ないだろう。夏彦を信じれなかったことや冷静になれなかったこと、何よりもちゃんと言えなかったこと。どんなに後悔してももう夏彦はあたしの話しを聞いてくれないだろうし、あたしは何を言って良いんだかわからない。好きな人と一緒にいたいと思っただけなのに、一緒にいて歯車が狂ってしまうなんて。こんなことなら一緒に住まなければ良かったのかもしれない。そう思うとよけい悲しくなった。
 あたしは電気を消して胎児のように体を丸めた。何も考えないように暗闇で目を瞑った。
 どれだけ時間が過ぎたのかわからないけど眠れない。寝らなくちゃと思えば思う程、頭が冴えて来る。あたしが意地になって目を瞑っていると、部屋のドアが開く音がした。夏彦はドアを静かにしめて暗闇の中をゆっくり歩いて来る。ベッドに腰をかけてしばらく動かずにじっとあたしを見つめていた。そして手であたしの位置を確認して横になりあたしに抱き着いてきた。それは愛情なのか性欲なのかわからない、あたしは夏彦に背を向けながら脳をフル回転させて考えた。夏彦はそれ以上何もしてこなかった。ただそこにいるだけだ。暗闇の中でも温度と匂いで夏彦だと分かり、あたしの心は揺れ動く。あたしばっかり夏彦を好きになってしまっていると思うと、よけいに悔しくなってくる。
 「お前が嫌ならもうあいつとは連絡とらないよ。あいつのことは大切だと思うけど、好きなのはお前だけなんだよ」
 そう言って夏彦は寝返りを打った、昔から恥ずかしくなると夏彦は顔を隠す。照れくさいことが苦手なのにそんなこと言うなんて。夏彦に好きって言われるのは久しぶり過ぎて、言われたあたしも恥ずかしくなってきた。あたしは背を向けたまま夏彦の腰のあたりを軽く叩くと、背を向けた夏彦はその手を握った。お互い背を向けながら手を握る。
 あたし達の同棲はまたここから始まっていくんだな、そう思うとあたしは何故か笑ってしまった、笑いながら涙が流れているのに気が付いた。あたしは振り向き夏彦の背中に顔を埋め涙を擦り付けると、夏彦の体が笑って揺れているのを感じた。
これからも上手くいく、きっと元通り以上に強く繋がっていられる。そう思うと急に眠気がやってきて、久しぶりに安心して眠りにつくことができた。