ここはどこだろう。
 あたしは盲目の彼と手を繋ぎながら歩いている。何時、誰と来たのかまったく記憶に無いけれど、この風景を覚えている。たしかこの角を曲がると公園があったはずだ。あたしは彼の手を引いて角を曲がった。彼はあたしの恋人だけど、何処で出会ったのか憶えていない。思い出そうとするの頭の中に霧がかかっていき、総てを真っ白に隠してしまう。
 公園に掛かったね、と彼は言った。あたしは吃驚して彼の方を見た。彼は田圃の方を向いていたが、やはり目は閉ざされたままだった。どうしてわかるの、とあたしが尋ねると、彼は公園の方を向いたまま、だってが子供の声がするじゃないか、と当たり前のように言った。あたしは恋人ながら怖くなった。彼のまるで目が見えているような勘の良さに。ひょっとしたら彼は人の心すら読めるのかもしれない。いっそのことここに置いて走って帰ってしまおうかと思った。すると彼は、フフン、と鼻で笑った。あたしが、どうしたの、と尋ねると、別に、と言ってにんやりと笑った。その笑った顔を見てぞっとした。やはりどこかに置いていこう、この先彼と一緒にいることを想像したら、怖くてたまらなくなった。ふと公園の向こうを見ると大きな林があった。あそこなら、彼は帰ってこれなくなるだろう。彼はまた、フフン、と鼻を鳴らした。
 あたしは黙々と林を目印に歩いていった。道は不規則に曲がっていて、森から遠ざかって行く様な気がしてくる、正面に見えていた森が気が付くと、左へ右へと移っていくと段々不安になってくる。気持ちばかり焦って林は全然近づいてこなかった。もう一時間は歩いただろうか、足には疲れが溜まり、歩みは遅くなってくる。
 「もう少し行くと、ベンチがあるよ。」彼はにんまりと笑ったままの顔で言った。彼の言うとおり、少し先を曲がったところに木でできたベンチがあった。ペンキは所々剥がれていて、足が少し腐っている。座るのに躊躇っていると、座れば、と言いながら、彼が座った。あたしがとなりに腰をかけると、いやいや、盲目は疲れるよ、と言った。「だからあたしが手を引いてるじゃない」疲れて少し苛々していたのか、あたしの口から出た言葉は吃驚するほど感情的だった。その言葉を彼は鼻で笑い、ほらね、と言った。「手を引いてもらってるのに申し訳ないけど、親切を押し売りされるんだよね、親や恋人にも」
 なんだかもう嫌になった。いらつくのだけど、そのいらつきを何処にぶつけてよいのかわからない。体の中にたまって自分にぶつかっていくような気がした。
 「よし、そろそろ行こうか」あたしが言うと、彼は座ったまま、どっちに、と言った。道の先を見ると二股に分かれている。看板には右「ナツメ」左「漱石」と書いてあった。あたしが少し悩んでいると、左がいいんじゃない、と彼が言った。左を見ると、森は正面になり道は広がり、その先は黒く大きな穴のようになっていた。少し怖くなり躊躇していると、遠慮しなくてもいいと彼が言った。あたしは怖がっているのを読まれたと思いかったした。そして彼の手を強引に引き、「漱石」と書かれた道を歩いていった。
 林に入ると彼が、ようやく付いたね、と言った。「もう少し歩くと右の方に大きな杉の木が見えてくるよ」あたしは彼が何を考えているのかわかならくなり思わず、何が、と彼に聞いてみた。すると彼は当たり前の顔をして、「何がって、わかってるじゃないか。これでもう二度目なんだから」と嘲るように言った。
 そうか二度目なのか。彼に言われるとなんだかわからないけれど、知っているような気がしてくる。衝撃と炎。轟音があたしの記憶の中から蘇ってきた。やはりあたしはこの場所にきたことがある。なんだかわからないけれど、こんな夜だった気がする。きっともう少し奥にいけば何かを思い出すだろう。そう思うと段々と不安になってくる。早く彼を置いてこの場をさらなくては。あたしはますます足を速めた。
 大きな杉の木の根元の所でそうそう、丁度この辺だったよな、と彼が言った。木はとても大きいのだけれど、幹の部分がえぐれていて焦げ付いていた。何か大きな物がぶつかり燃えたのか、えぐれている部分を中心に円を書くように枝や葉が焦げていた。

 「丁度一年前だよね」と彼が言う。その言葉があたしの頭の中で共鳴して広がっていく。あたしは涙をながしながら、そうだね、と言った。木の根元には沢山の花や手紙が添えられている。雨や朝露で滲んだその手紙はあたし宛だった。彼の見えない目から涙が溢れ出していた。「去年ふたりでドライブに行った帰りに、居眠り運転のトラックに当てられて俺達はここに落ちたんだ」彼の声は弱々しく震えていた。

 あぁそうだ。そして彼は視力を失い、あたしは命を無くしたんだ。

 彼はあたしを抱きしめたが、彼の暖かさは伝わってこない。気が付いてからあたしの周りは真っ暗闇になっていた。

 昨日までの曇り空が嘘のように晴れ渡っている日に、あたしの心は自分でもわからないほど揺れていた。会社を休み外の見えない地下鉄に乗り、なんでこんな行動をしているのだろうかと何度も自分に問いかけるが、答えは出てこない。あたしは来月に結婚をする。同じ職場の後輩で、とくに喧嘩や浮気もせず二年間続いた彼と。毎週末お互いの家に泊まり、翌日にデートをする。連休が取れるとかならず一緒に旅行に行った。雑誌やテレビで取り上げられるお店にも連れて行ったもらい、あたしは彼が買える範囲内でおねだりをする。ようはどこにでもいるような二人の平坦な人生が結びつくだけのことだった。あたしの結婚に家族は喜び、資金面も協力してくれた。彼の実家にも何度も行き来して今では両親に名前で呼ばれるほど親しくなった。このまま行けばあたしの人生は何の不穏な影もなく進んでいくというのに、あたしは一体どこに向かおうとしているのだろう。ドアの窓から真っ暗な外をぼんやりと眺めていると、ふと昔の恋人のことを思い出した。そうだ。雑誌で彼のインタビューを読んでから、あたしの心の歯車が微妙にずれだしたんだ。彼との恋愛はまるでこの景色のように先が見えない、不安で覆われていた。恋人は当時漫画家を目指していて、商業誌でたまに読みきりの漫画を描いていた。連載は持っておらず収入も不安定でアルバイトで生計を立てていた。たまに彼の描いた漫画が雑誌に載った時に、お祝いで安い居酒屋でおごってもらう以外どこにも連れて行ってもらえず、誕生日にプレゼントを貰ったこともなかった。お互い若かったせいか、自分の言いたい事ばかり言ってよく喧嘩をしていた。どんなに激しく喧嘩をしても最後は彼が謝って元の鞘に戻っていた。そして彼はあたしをふる時も謝っていた。何でも考えすぎる彼だから、きっと色々考えた上でも決断だったのだろう。彼は漫画を描く為にあたしを捨てたのだった。それからあたしは夢を追いかけている人達を見下し、安定した収入を得れる人を探した。今思えばそれは、あたしよりも大切な夢を持っていない人を探していたのだろう。
 駅を出てからバスに乗りしばらくするとおばあさんが乗ってきたので席をゆずり、窓から外の景色を見ていると、段々住宅と自然が増えてきた。アナウンスが目的地の名前を告げると、誰か他の人がボタンを押した。バスを降りると後ろから肩を叩かれた。振り向くと彼が笑顔で立っていた。久しぶりだね、と彼は言った。「バスの中で気が付いたんだけど、なんか声かけずらくて」言いながら彼は髪をかきあげた。それは昔からの照れ臭い時の癖で、なんとなくあたしは安心した。先生サインしてよ、とあたしが言うと彼はまた髪をかきあげた。それから二人で公園に行ってベンチに座った。しばらくの沈黙。きっと何を喋るか考えているのだろう。あたしは途中で買ったジュースを一口のみ、携帯のアドレス変えてなかったんだね、と言った。彼はあたしを見ながらゆっくりと笑った。「変えてないって言うか変え方がわからないから、キミは変えたんだね。いきなり知らないアドからのメールだったから吃驚したよ」彼は言い終わるとジュースを喉に流し込んだ。「ふふ、いきなりでゴメンネ。どうしても今、会わなきゃいけないと思ったの」彼は笑ったまま、あたしのことをまっすぐに見つめている。あたしの言葉を待っているように見えた。
「この前雑誌のインタビュー読んだよ、結婚してたんだね」
「キミは来月結婚するんだろ、おめでとう」
あたしは彼のように髪をかきあげながら、ありがとう、と言った。「あのさあ、今更だけど、昔色々酷いこと言ったけどごめんね。あの頃はどうしていいのかわからなくて、他にどうすることも出来かなったの。でも本当はあなたのことも、あなたの描いた漫画も大好きだったよ」
言い終わるとあたしは自分の顔がこわばっていることに気が付いた。手のひらは汗をかいていて、まるで怒られている子供のようになっていた。彼はジュースを横に置き、酷いことをしたのはお互い様だよ、と言った。「俺達が、もしくはどちらか片方がもっと大人だったら、きっとうまくいっていたかもね」言い終わると彼は立ち上がりあたしの正面に立った。あたしの手をとり立たせてから、あたしの手を握りしめて優しく笑った。
「ねえ、俺は今シアワセだよ、キミは?」
彼の問いかけを聞いた瞬間、あたしの目から熱い涙がこぼれた。頬をつたい顎から落ちて、洋服に染みを作る。「うん、シアワセだよ」と言いたいのだけれど言葉が出てこないで喉に詰まっているみたいだ。彼は何も言えずにただ泣いているあたしの涙をなめるようにキスをした。そして抱きしめるように頭を撫でて、ゴメンネ、と言った。彼は昔から、あたしが泣くと、ゴメンネ、と言った。だからどんなに喧嘩になっても丸く収まるのだった。あたしは彼に別れを告げられた時の、ゴメンネ、を思い出してよけいに泣いた。彼はあたしが落ち着くまで抱きしめてくれた。空を二羽の鳥が横切り、暇な主婦達があたし達をちらちらと見て行くが気にならなかった。あたしは彼の温もりと優しさを思い出し、それがもう二度とあたしに向けられないのだと思った。あたしは涙をこらえ、顔を上げてにっこりと笑いながら、あたしもシアワセだよ、と言って彼の腕から離れた。泣くことを堪える術を知ったあたしには、彼の腕は優しすぎて、温かすぎた。
 「もうだいじょうぶだから、いきなり泣いちゃってゴメンね」と言うと彼は、うん、と言ってあたしの頭を撫でた。そしてどちらが言い出したわけでもないのに無言のままバス停に向かった。
 「漫画がんばって、応援してるからね、先生」と言って彼と別れバスに乗った。窓から見る彼は髪をかきあげながら笑ったいた。あたしは座席に座り、来月の結婚式のことと今日の夕飯のおかずを考えながら静かに眼をつぶった。

 あたしが最初に彼の噂を聞いたのは、大学の後輩からだった。その子は同じサークルの旅行好きの後輩で、ついこの間まで季節はずれの沖縄旅行に行っていた。数週間ぶりに会った後輩は、健康的に焼けていて普段よりも活動的に見えた。あたしが、どうだった沖縄、と聞くと後輩は、センパイの元彼がいましたよ、少し興奮気味にと少し興奮気味に
言った。
 彼とは今年の夏に別れた。それも一方的にフラレタ。生温かい雨の降る夜に、いきなりうちにやってきた彼は、大学を辞めてガラス職人になる、と言った。突然のことに何もいえないあたしに彼は、バイバイ、と一言だけ言って去っていった。その目はあたしを真っ直ぐ見ているようだったけれど、あたしの姿が映っていないようだった。そして翌日から音信不通になった。あたしは恥も外聞も無く、知り合いに彼のことを聞き歩いたが、何も分からなかった。この時あたしは意外と彼のことを知らなかったのだと思った。彼の好きなことや趣味は知っていても、彼の考えていることを分かっていなかった。そして探し疲れはあたしは、彼を諦めることを選択した。普段よりもアルバイトする時間を増やし、サークルの飲み会や友達の誘いに積極的に参加して、余計なことを考えたり独りになる時間を減らした。
 後輩の話によると、彼は本当にガラス職人になっていた。観光客相手の民芸品屋さんの奥の工房でグラスを作っていたらい。沖縄の日差しで真っ黒に焼けていて、別人のようだったと後輩は言った。後輩の話を聞いていると、生温かい雨の夜が昨日のことのように思えてくる。彼を探すことに疲れ忘れることを決意した時に、心の中に封印したはずの思
い出が蘇ってくる。
 その後あたしはバイトを休み家に帰った。ベッドに横になり、真っ暗な天井を見ながら、沖縄に行くことを決意した。彼のことを今でも愛しているわけでも、未練があるわけでもない。ただ、何故彼が大学を辞めてまでガラス職人になりたかったのか、そして何故沖縄でなくてはならなかったのか知りたかった。

 頭で考えることしかできないあたしは、飛行機の中でもずっと彼のことを考えていた。お店の場所は後輩から聞いたとはいえ、一泊二日の間で彼に逢うことは出来るのだろうか。気持ちが沈み心の中のあたしが後ろ向きになっていると、飛行機は沖縄に着いた。ついてしまった以上、あたしは彼に逢わなくてはならない。あたしには理由を聞く権利があるのだ、と自分に言い聞かせた。
 彼は驚くほど早く見つかった。民芸品屋さんのレジを打っていた。考えてみれば逃亡者ではなのだし、あたしが探しにくることを知っているわけではないのだから。彼は愛想良く笑い、入ってくるお客さんにいらっしゃいませと言っている。東京であたしと付き合っていた頃には考えられない姿だ。あたしの知っている彼は、もっと生気がなくボーっとしていていた。お店にあたしが入ると、いらっしゃいませ、と途中で止めて一瞬びっくりした顔をしたが、あたしを真っ直ぐに見つめてにっこりと嬉しそうに笑った。あたしは耳が熱くなり視線をそらしてしまった。今まで見たことの無い笑顔と、ちゃんとあたしを見ている核心。あの生温かい雨の夜があたしのでっちあげた都合のよい記憶で、彼はちゃんと説明してくれたのかと思えてきた。
 久しぶり元気だった、と彼はあたしに歩み寄りながら言った。「こんな時期に旅行?学校はどうしたの?」いつも聞いていた彼の声と、健康的な小麦色の肌のギャップに違和感を感じ、なんだか上手くしゃべれないでいると彼はあたしの肩を軽く叩いた。「もうすぐで交代なんだ、これから工房でガラス作りをするんだけ見て行かない?」あたしがぶっき
らぼうに、いいよ、とだけ言うと、彼はまた嬉しそうに笑った。
 とても暑い工房で彼は真剣な顔をして、グラスを作っている。東京にいた時とはまるで別人のように、力のこもった目をしている。この目を見ていると、彼が真剣なことが伝わってくる。そしてそれと同時に一つの疑問が浮かび上がってきた。わざわざ沖縄に行かなくても、ガラス職人になれる方法は東京でもいくらでもあるのに、なんで大学を辞めてまで沖縄でガラスを作っているのだろう。あたしが独りで考えていると、彼は一つの工程が終わり、冷たいお茶を持ってきてくれた。やっぱり退屈だった、良かったらやってみない?と言った。あたしが、やりたい、と言うと彼は嬉しそうな顔をした。彼と一緒に長い棒の先に付けた、赤く熱しられたガラスを回すのだけれど、どうしてもいびつになってしまう。何度か挑戦したが彼のように上手く出来なかった。汗だくになり、お茶を飲んで一休みしているあたしに、形を作ろうとしては上手くいかないよ、と言った。「回しながらガラスがなりたい形に合わせていくんだ、そうすると自然と形になっていくんだよ」あたしは彼が言っていることを上手く理解出来ずに、へぇ、と頷いた。お茶を飲み干しおもむろにグラスを見ると、とても綺麗な水色をしていた。歪んでいて決して上手なグラスではないのだけれど、何度か持ち直してみると手に吸い付くように持ちやすかった。あたしがまじまじと見ていると彼は、それも俺が作ったんだよ、と言って笑った。彼は東京にいる時よりもよく笑い、しゃべるようになっていた。きっとこれが本来の彼の姿なんだろう。


 沖縄の空よりも綺麗な水色で、海よりも透き通っている彼の作ったグラスを見て、あた
しはなんで彼がわざわざ沖縄に来たのか、解った気がした。

 照りつける太陽が、向日葵のように見えた。時計を見るとお昼と朝のちょうど間の時間で、起きようかもうひと眠りしようか考えていたら、日差しがじりじりと、あたしの頭を照らした。しかたなしに布団を蹴り上げ立ち上がり、猫のようにゆっくりと背中をのばした。着ていた黄色いパジャマを脱ぎ、洗濯機に放り込む。スイッチを入れてから、その辺にころがっていたジーンズを穿いた。ハンガーにかけっぱなしのウォーホルのバナナのイラストがプリントされたシャツを着た。冷蔵庫を物色すると、ろくなものが入ってなかった。しばらく外食が続いていたので、何も買いだめしていないことを思い出した。ついでに入っているものを片っ端からだし、冷蔵庫を整理する。チーズと賞味期限ギリギリの卵、ちいさな玉葱があったので、オムレツを作ることにした。良い匂いと食欲を刺激する音、作りながら昔母親に作り方を教わっていたときのことを思い出した。小学校に入りたて位の時だったと思う。卵を上手く混ぜられなくて、上着にこぼし、黄色い染みをたくさん作った。お母さんはそんなあたしを見て、黄色い地図みたいになっちゃったわね、と言って笑っていた。
 上手く形をととのえて、お皿に盛り付けていると、携帯電話が震えだしmoonlight serenadeを奏でた。もしもし、と言うと電話相手は元気良く答えた。「もしもし、おまえ今日休みだったよね、俺も急に休みになったから、ご飯食べ行こうよ。」あたしはオムレツの乗ったお皿をテーブルに運んで、冷蔵庫からビールを取り出した。クッションに座り、じゃあさあ、と言ってビールを開けた。「今からうちにおいでよ。原付でくれば10分くらいでしょ。オムレツ作ってあげるよ」電話相手は、ああ、いいよ、わかった。と言って、電話を切った。
 もうすぐ電話相手がべスパに乗ってやってくる。本当は黄色らしいのだけど、ボロくなりすぎて、黄ばんでいるようにしか見えない、下のほうが錆びているべスパで。着たら我が家直伝のオムレツを一緒に作ろう。ベランダに出ると、近づいてくる夏の気配を、太陽が教えてくれた。あたしはビールを飲みながら、電話相手が来るはずの道の先を、ただぼーと眺めていた。
 あたしは自分の部屋で俯いていた。テレビも付けず、カーテンも開けずに。数時間前に
帰った彼の匂いもとうに消えさり、あたしは一人ぼっちになっていた。
 あたしは平日にしか彼にはあえない。彼の休日は奥さんと子供に浪費されてしまうか
ら。仕事と家庭に疲れた彼が休む為にあたしの部屋にくるようになってもう、何ヶ月たつ
だろう。ひょっとしたら一年位立っているかもしれない。あたしは彼のことが好きだ。不
倫に酔っているわけでも、人のものだから燃えているわけでもなく、彼を愛している。彼
と一緒になれるなら何を犠牲にしても良いと思っている。でも、そう思っているのはあた
しだけで、彼はあたしよりも家庭を愛していた。
 「悪いが俺は妻も子供も愛しているんだ。もし、キミがそれらを壊すのならもう二度と
キミには逢えない」彼はコートを着ながら言った。何も言えないあたしの頭を軽く撫でて
部屋から出て行く。玄関で靴を履きながら、今晩もう一度くるからよく考えて欲しい、と
言ってドアを閉めた。
 あたしは彼に、ずっと一緒にいたい、と言った。好きなのだからこれが当たり前の感覚
だと思う。だけれども彼はとても嫌そうな顔をして、俺が家庭を持っていることを前提で
付き合っていたのだろう、そこが良かったんじゃないのか、と彼はあたしから顔を背けな
がら言った。家庭や仕事、趣味や顔ではなくあたしは『彼』のことを愛している。そのこ
とを伝えたかったのだけれども、彼にはそれは重荷になっていた。
 時計が17時を告げる。彼が、夜に来る、と言うと大体17時半位にやってくる。彼が来
るまでに、彼が納得する答えを探さなくては、きっとあたしは捨てられるだろう。ぼんや
りと台所を見ると実家から持ってきた包丁が鈍く、冷たく光っていた。そこらへんで売っ
ているステンレスや刃先の丸い穴が開いているのと違って、こまめに研がなくては錆びて
しまうが、手になじみずっしりとして、切れ味が良くとても使いやすい。
 彼がいなくなったら、あたしは自分がいらなくなる。彼無しで生きていけるわけが無
い。それなら死んだほうがずっとましだ。そう思うと、あたしの手は自然に包丁を求め
た。台所から持ってきてじっと刃を見ていると、彼が子供を抱いて奥さんと笑いながら話
しているのが見えるような気がした。オレンジ色のカーテンと木目調のテーブル、部屋の
空気すら彼らを暖かく包み込んでいるように思える。それは絵に描いたような幸せそうな
風景で、あたしは鳥肌が立った。どうしてその風景にあたしは入れないのだろう。
 どうして、どうして。どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。包丁を持
つ手が震えてくる。そっと左手の手首に当てると冷たくて気持ちよかった。そのまま包丁
を、すっと引いてみると、血がじんわりとにじみ出てきた。手首から垂れてくる血を見て
いると、自分を実感できて安心する。あたしは自分に、大丈夫、と何度も言い聞かせた。
 それからぼんやりと、どうすれば彼と離れないで済むのか考えた。考えているうちに部
屋が真っ白になり、周りの音も聞こえなくなった。完全なる無の世界であたしは彼のこと
だけを考えた。
 彼をこの部屋から出られないようにすればいいのか。そう思うと包丁が怪しく光ったよ
うに見えた。例え歩けなくても、顔がぐちゃぐちゃに潰れていても、あたしは彼を愛せる
自信がある。彼なら例え死体であっても愛せる。
 玄関のチャイムが鳴り我に返ると、もう18時だった。あたしの部屋を尋ねてくるのは
彼しかいない。あたしは包丁をクッションの下に隠して玄関に向かった。
 ねえ、あたしがもうすぐ死にますって言ったらどうする?
 彼の部屋のベッドの上から天井を見上げながら呟くと、彼は何も言わずあたしに背を向
けた。きっと彼は困った顔をしているのだろう。あたしは後ろから抱き着いてもう一度耳
元でささやくように言った。
 ねえ、あたしがもうすぐ死にますって言ったらどうする?
 彼は体をこちらにむけて、あたしの目をじっと見つめた。苛立ったり怒っているわけで
もなく、観察するように無表情にじっと見つめている。あたしはこの時の彼の表情がとて
も好きでつい見とれてしまう。この眼で見つめられていると、あたしは人以外にのモノに
なったようになる。
 彼少し困った顔をしながら、俺が何かしたら死なないですむの、と聞いてきたので、つ
い顔がにやけてしまった。きっと彼ならそう言うだろうと思ったから。あたしは彼の胸に
顔をぴったりと付けて、彼の鼓動と温度に包まれながら、どうしても死んじゃうの、例え
王子様がキスしても目覚めないの、と言うと彼の手があたしの背中を撫でた。「それで
ね。死ぬ間際にあたしがずっと待ってて、って言うの。そしたらずっと待っててくれ
る?」
 彼はもぞもぞと虫のように動きあたしに腕枕をしてくれた。そしてかるく抱き寄せなが
ら、ずっとってどれ位、と言って軽くキスをした。あたしはにんまりと笑いながら彼を見
つめる。ずばり百年、と言うと彼は一瞬吃驚した顔をしてから笑顔になった。
 「わかった、待ってるよ。待ってるから絶対逢いに来いよ、ユリ」
 その日は彼の匂いの染み付いた部屋で、彼の腕の中で眠った。夢の中で百年待った彼が
百合の花に優しくキスをしていた。
 終電前の駅のホームは人も少なくとても静かだった。酔っ払いもいなくて、あたしは読みはじめたばかりの本に夢中になっていた。ホームに響き渡るうるさい程のアナウンスに現実に戻されたあたしは一度本を閉じた。あたしの前には無言の老夫婦が一組。ゆっくりと電車が止まるとおじいちゃんの震える手がゆっくりと、真直ぐおばあちゃんの手の前に行く。
 ふるえながらゆっくりと、迷うこと無く真直ぐに。
 おばあちゃんは当たり前のようにその手を握り、老夫婦は足下に気を付けながら電車に乗り込んだ。
 おばあちゃんにとっておじいちゃんの手は当たり前のように自分をひいてくれるものであり、そのしわくちゃな手に当たり前のように自分を委ねることが出来る。その行為があまりにも自然で、あたしはうっかり見とれてしまった。
 窓の外を動く景色。ガラスに映るアタシ。
 あたしは自分の手を見つめながら小さく一人で笑った。果して何人の人があたしの手に自分を委ねることができるのだろうか、それも当たり前のように。
 もしもあたしの薄っぺらな手に委ねてくれる人がいるなら、あたしはその人の為に何でも出来る。沢山の人じゃなくっていい、その他大勢はいらない。
 あたしは右手をぎゅっと握りしめて、窓の外をぼんやりと眺めた。

 朝、いつものように出社をすると、同僚達が甘い匂いに包まれていた。みんないつもの鞄に、手提げの紙袋を提げている。あたしはぼんやりと、今日がバレンタインデーであることを思いだした。
 制服に着替えた女の子達が、男性社員に小さなチョコを配り歩く日。女の子達から手渡しされたチョコを嬉しそうに見つめる人や、お礼を名目に女の子を飲みに誘う人。いつの間にバレンタインは日ごろお世話になった人に、感謝のチョコを送る日になってしまったのだろうか。愛の無いチョコはそれを誤魔化すように甘く、すぐに忘れ去られるように軽く小さく、そして手軽にプレゼントさせるようなモノになってしまった。女子社員がお金を出し合い、男性社員全員に配る光景を見ていると、あたしは下手くそな芝居を見ているように気恥ずかしくなってきた。これから一日中甘い匂いが立ち込める職場で、仕事をしなくてはいけないのかと思うと、憂鬱になる。
 社会に出て十年位、毎年この光景を見ている。最初の頃はあたしも、安いチョコを買出しに行って、楽しかったりしたけれど。五年もすると後輩が寿退社をしたり、同期の男の子が結婚したりして、その手の話題に敏感になってくる。そして十年もすればそれは惰性にに変わり、どうでもよくなってくる。甘い匂いで痛くなった頭に、鞭を打ちつけるように仕事をこなし、ようやく就業時間になると、男性社員がお礼にみんなで飲もうと言い出した。
 会社の側の居酒屋で、いつものように始まる飲み会。しばらくすると酔っ払った課長の説教が始まり、若い男の子達は、気になる女の子の隣に座ることだけを考える。あたしは邪魔にならないように、すみっこでちびちびと烏龍茶を飲みながら彼氏のことを思いだしていた。今日は遅くなるから、うちにはこれないと言っていたし、ここ数年チョコをあげたりしていないので、問題はないだろう。帰って独りでご飯を用意するのは面倒くさいし、ちゃんと食べて帰ろう。あたしは少し冷めたから揚げに箸をつけた。

 とりあえずお腹も膨れたので、あたしは一次会で退散することにした。もう、そんな夜が明けるまで飲めるほど若くは無い。どうしても明日の仕事のことを考えてしまう。独りでなるべく目立たないように退散することに成功すると、足早に駅に向かった。
 電車の窓から夜空を見つめていると、不安になってくる。きっと今頃あたしの部屋はこの夜空のように暗く冷たいのだろう。誰も待っていない部屋に帰ると、あたしは一人なんだと納得してしまう。しんから冷えた部屋で、ぬくもりを求めることが無意味なことはわかっているし、それが嫌で彼の所に逃げ込むほど若くは無い。歳をとることは我慢を憶えていくことなのかもしれない。そう思い鼻で笑ってしまった。彼、か。彼はあたしが言わないと誕生日すら忘れている。そういったイベントごとには完全に無頓着で、バレンタインにチョコを上げなくなっても、気づいていないような人だ。以前彼に、誕生日家族で出かけたりしなかった? と聞いたら、彼は不思議そうな顔をして、誕生日に家族と出かけて何をするの?と聞き返してきた。
 駅を出てまっすぐに歩いていくとコンビニが見えてくる、そしてその先の三階建てのアパートの二階にあたしは住んでいる。いつもはコンビニで買い物をして帰るのだけど、今日はもうご飯も食べたし、遅くなったので寄らずに帰る。コンビニの大きな看板を通り過ぎると、あたしの部屋に明かりがついているのに気が付いた。見間違いかと思ったが、間違いではない。あたしの部屋に明かりがついている。部屋の鍵を持っているのは、あたしと大家さんと彼だけのはず。でも彼には会社の飲み会に行ってくるとメールもしたし、返事も、わかった、と一言だけ返ってきていた。泥棒の可能性もある。あたしは急いで部屋にもどった。やはり明りが付いているし、甘い匂いがする。そーっとドアを開けると彼がビールを飲みながら本を読んでいた。玄関に入っても彼は気が付かなかったので、あたしはわざと音を立ててドアを閉めた。すると彼は一瞬びくっとして、あたしだとわかると笑顔で、おかえり、と言った。あたしが何から言えば良いのか考えていると、彼は、そんな所に突っ立ってないで上がれば、と訝しげな顔をしながら言った。早く着替えておいで、良いもの作ったから、そう言って彼は台所に消えていった。ここはあたしの部屋だぞ、と心の中でぶつぶつと文句を言いながら、暖かくて明るい部屋で着替えていると自然と肩の力が抜けてくる。身体を伸ばすと背骨がぽきぽきと鳴った。今に戻ると甘い匂いが強くなっていた、今日朝から嗅ぎ続けて頭が痛くなったあの匂いだ。でも何故か嫌な気分にはならなかった。台所から戻ってきた彼は、おまたせ、と言いながら両手にマグカップを持っていた。
 座りながら彼は嬉しそうに、今日後輩に聞いたんだけどさぁ、と言った。「女の人から男にチョコを送るのは日本だけなんだって。外国では男の人が好きな女の人プレゼントするんだって。知ってた?」
 「日本だけかは知らないけど、外国では男の人がプレゼントするって話は聞いたことあるよ」あたしが言うと彼は少し残念そうに、なんだ知ってたのか、と呟いた。それでホットチョコなの、とあたしが聞くと嬉しそうに、初めて作ってみたよ、と言ってマグカップを差し出した。「どうせならなんか作ろうかと思ったけど、うちって道具とかないじゃん、だからとりあえずコンビニでチョコ買ってきてとかしてみた。あんまり甘くならないようにビターチョコ混ぜてみた」あまりにも嬉しそうに言う彼が、可愛くて笑ってしまうと、彼もつられて笑った。
 笑いながら飲んだホットチョコはあんまり甘くなかったけれど、温かくて、あたしの心まで暖めてくれた。おいしいよ、と言うと彼は嬉しそうににっこりと笑った。「じゃあ毎年作ってあげるね、来年は何がいいかな」
 まだ、丸一年あるじゃない、とあたしが言うと、二人一緒に笑った。まるで、来年も一緒にいようと言ってくれているように聞こえ、嬉しくてずっと笑いあった。

 昨日までの曇り空が嘘のように晴れ渡っている日に、あたしの心は自分でもわからないほど揺れていた。会社を休み外の見えない地下鉄に乗り、なんでこんな行動をしているのだろうかと何度も自分に問いかけるが、答えは出ないでいる。あたしは来月に結婚をする。同じ職場の後輩で、とくに喧嘩や浮気もせず二年間続いた彼と。
 毎週末お互いの家に泊まり、翌日にデートをする。連休が取れるとかならず旅行に行った。雑誌やテレビで取り上げられるお店にも連れて行ったもらい、あたしは彼が買える範囲内でおねだりをする。ようはどこにでもいるような二人の平坦な人生が結びつくだけのことだった。
 あたしの結婚に家族は喜び、資金面も協力してくれた。彼の実家にも何度も行き来して今では両親に名前で呼ばれるほど親しくなった。このまま行けばあたしの人生は何の不穏な影もなく進んでいくというのに、あたしは一体どこに向かおうとしているのだろう。ドアの窓から真っ暗な外をぼんやりと眺めていると、ふと昔の恋人のことを思い出した。そうだ。雑誌で彼のインタビューを読んでから、あたしの心の歯車が微妙にずれだしたんだ。彼との恋愛はまるでこの景色のように先が見えない、不安で覆われていた。
 恋人は当時漫画家を目指していて、商業誌でたまに読みきりの漫画を描いていた。連載は持っておらず収入も不安定でアルバイトで生計を立てていた。たまに彼の描いた漫画が雑誌に載った時に、お祝いで安い居酒屋でおごってもらう以外どこにも連れて行ってもらえず、誕生日にプレゼントを貰ったこともなかった。お互い若かったせいか、自分の言いたい事ばかり言ってよく喧嘩をしていた。どんなに激しく喧嘩をしても最後は彼が謝って元の鞘に戻っていた。そして彼はあたしをふる時も謝っていた。何でも考えすぎる彼だから、きっと色々考えた上でも決断だったのだろう。彼は漫画を描く為にあたしを捨てたのだった。それからあたしは夢を追いかけている人達を見下し、安定した収入を得れる人を探した。今思えばそれは、あたしよりも大切な夢を持っていない人を探していたのだろう。
 駅を出てからバスに乗りしばらくするとおばあさんが乗ってきたので席をゆずり、立って外の景色を見ていると、段々住宅と自然が増えてきた。アナウンスが目的地の名前を告げると、誰か他の人がボタンを押した。バスを降りると後ろから肩を叩かれた。振り向くと彼が笑顔で立っていた。久しぶりだね、と彼は言った。「バスの中で気が付いたんだけど、なんか声かけずらくて」言いながら彼は髪をかきあげた。それは昔からの照れ臭い時の癖で、なんとなくあたしは安心した。先生サインしてよ、とあたしが言うと彼はまた髪をかきあげた。それから二人で公園に行ってベンチに座った。しばらくの沈黙。きっと何を喋るか考えているのだろう。あたしは途中で買ったジュースを一口のみ、携帯のアドレス変えてなかったんだね、と言った。彼はあたしを見ながらゆっくりと笑った。「変えてないって言うか変え方がわからないから、キミは変えたんだね。いきなり知らないアドからのメールだったから吃驚したよ」彼は言い終わるとジュースを喉に流し込んだ。「ふふ、いきなりでゴメンネ。どうしても今、会わなきゃいけないと思ったの」彼は笑ったまま、あたしのことをまっすぐに見つめている。あたしの言葉を待っているように見えた。
「この前雑誌のインタビュー読んだよ、結婚してたんだね」
「キミは来月結婚するんだろ、おめでとう」
あたしは彼のように髪をかきあげながら、ありがとう、と言った。「あのさあ、今更だけど、昔色々酷いこと言ったけどごめんね。あの頃はどうしていいのかわからなくて、他にどうすることも出来かなったの。でも本当はあなたのことも、あなたの描いた漫画も大好きだったよ」
言い終わるとあたしは自分の顔がこわばっていることに気が付いた。手のひらは汗をかいていて、まるで怒られている子供のようになっていた。彼はジュースを横に置き、酷いことをしたのはお互い様だよ、と言った。「俺達が、もしくはどちらか片方がもっと大人だったら、きっとうまくいっていたかもね」言い終わると彼は立ち上がりあたしの正面に立った。あたしの手をとり立たせてから、あたしの手を握りしめて優しく笑った。
「ねえ、俺は今シアワセだよ、キミは?」
彼の問いかけを聞いた瞬間、あたしの目から熱い涙がこぼれた。頬をつたい顎から落ちて、洋服に染みを作る。「うん、シアワセだよ」と言いたいのだけれど言葉が出てこないで喉に詰まっているみたいだ。彼は何も言えずにただ泣いているあたしの涙をなめるようにキスをした。そして抱きしめるように頭を撫でて、ゴメンネ、と言った。彼は昔から、あたしが泣くと、ゴメンネ、と言った。だからどんなに喧嘩になっても丸く収まるのだった。あたしは彼に別れを告げられた時の、ゴメンネ、を思い出してよけいに泣いた。彼はあたしが落ち着くまで抱きしめてくれた。空を二羽の鳥が横切り、暇な主婦達があたし達をちらちらと見て行くが気にならなかった。あたしは彼の温もりと優しさを思い出し、それがもう二度とあたしに向けられないのだと思った。あたしは涙をこらえ、顔を上げてにっこりと笑いながら、あたしもシアワセだよ、と言って彼の腕から離れた。泣くことを堪える術を知ったあたしには、彼の腕は優しすぎて、温かすぎた。
 「もうだいじょうぶだから、いきなり泣いちゃってゴメンね」と言うと彼は、うん、と言ってあたしの頭を撫でた。そしてどちらが言い出したわけでもないのに無言のままバス停に向かった。
 「漫画がんばって、応援してるからね。先生」と言って彼と別れバスに乗った。窓から見る彼は髪をかきあげながら笑っていた。あたしは座席に座り、来月の結婚式のことと来月から旦那になる彼氏の夕飯のおかずを考えながら静かに眼をつぶった。
 土曜の夜、会社の同僚と飲みに行き楽しく酔っぱらっていたら隣に座っていた男の子にナンパされた。
 日曜日は彼氏と2ヶ月ぶりのお出かけだから、終電に間に合うようにと思っていたが、思いのほか楽しく気が付いたら2時を回っていた。しかたなくからカラオケに行った所まではちゃんと憶えている。そこで飲みながらハローグッバイを歌ったあたりから記憶が飛んでいた。遠のく意識の中、ストレンジ・デイズが聴こえていた気がする。
 その後の記憶は、安っぽいラブホテルから始まる。一緒に飲んでいた男の子があたしの胸を吸っている、テレビを見るように彼を見ていると、彼はあたしを見てやらしく笑いキスをした。口の周りが唾液まみれになり舌をうねうねと絡ませて来る。ため息がこぼれるとともに彼を受け入れる準備が出来た。予定通りに彼が果ててそのまま眠った。眠りながら彼氏のことを考えようとしたけど、彼氏の顔を上手く思い出せない。三ヶ月逢ってないんだからしょうがないと思い、何も考えずに眠ろうとした。
 うっかりチェックアウトの時間まで眠ってしまい急いで部屋を出た。一緒に寝た彼がしつこく携帯の番号を聞いて来るので、メールのアドレスだけを教えてあげた
「一度やった位であたしが惚れたと思わないでね。」と言って、あたしは笑顔で手を振った。きっと彼からメールはこないだろうな。それから急いで家に帰ってシャワーを浴びた。新しい下着に着替え化粧をしていると、ちょうど約束の時間になった。あたしは諦めて綺麗になることに専念した。結局約束に1時間遅れて待ち合わせの場所に行くと彼氏の姿はなかった。携帯の鳴らなかったしよっぽど怒ってると思って、おそるおそる電話をかけてみると、彼氏はいきなり謝ってきた。
「ごめん。今駅に着いたとこ、あと10分ぐらいで行くから」
「うん、じゃあ、前の喫茶店にいるね」
 電話を切り喫茶店に行く、コーヒを頼みぼーっと煙草を吸っていると、彼氏がやってきた。
「彩子ごめん。」
 言いながら向かいに座る彼氏は何故かスーツだった。上着を脱ぎながらコーヒを頼む、煙草を一口吸ってようやく落ち着いた顔をした。
「どうしたのスーツで、仕事だったの?」
「いや、昨日会社の人達と飲みに行ってたんだ。終電で帰ろうと思ってたんだけど、電車なくなっちゃってさあ、結局みんなでマンガ喫茶行ったんだ」
 彼は言いながら不自然に笑った、ぼさぼさの髪が泊まってきたのを物語っているけど、石鹸の匂いがする。
「最近のマンガ喫茶はお風呂もついてるんだ」
 あたしがにっこり笑いながら言うと、彼氏は一瞬ビックリした顔をしてあたしを見る、一瞬目が泳いで何か言いたそうな顔をした。
「どこのマンガ喫茶に誰と行ったのかしら?」
 あたしは煙草を揉み消しながら言うと、ちょうどコーヒーが運ばれてきた。ウエイトレスは場の空気に気が付いたのかそそくさと帰って行く。彼氏はコーヒーを一口飲んで煙草を揉み消した、俯いているけど何かを覚悟したように見えた。
「あんたさあ、付き合って何ヶ月になるか憶えてる、まだ半年だよ。その間に何回浮気すれば気が済むの?」
 彼氏はゆっくり顔を上げてあたしをじっと見た。
「浮気って言っても他の子を好きになったことなんてないよ、確かに彩子とは中々会えないけど、俺は彩子が一番好きだよ」
「一番ってことは二番、三番もいるってこと?あたし一人じゃ満足出来ないんだったら他の子のとこ行ったらいいじゃない、彼氏ズラするくせにメールはよこさないし、夜電話しても眠いとか疲れたとかしか言わないしさあ」
 あたしの口からとげとげした嫌な言葉が溢れて来る、言えば言う程自分が嫌になった。
 あたしは彼氏のことは好きだしちゃんと愛してる。でも彼氏を信じられない。もっと一緒にいたいだけ、きっと朝までテレビを見ているだけでも、彼氏と一緒ならディズニーランドよりも楽しい。
「あのさあ、彩子は浮気、浮気って言うけど何が浮気なの?他の女とセックスしたら浮気なの?それだったらお前はどうなの、毎週違う男と電車がなくなる時間まで飲んでその後はどうしてるんだよ」
「え、......」
「前に一度お前の、同僚の子と一緒に飲みに行ったの憶えてる?あの時アドレス交換したんだよ、そしたら色々教えてくれたよお前のこと」
 あたしは怒りがすっと引き全身の力が抜けた。そうあたしは毎週末違う男の人と遊び歩いた。彼らの目的があたしの体だってことはわかっていたけど、孤独感に押しつぶされるくらいなら誰かと一緒にいたかった。別にセックスしたいわけではない、むしろしなくて良いんだったらしなかった。彼らのセックスは、あたしの体を使ったオナニーでしかなかった。しているあいだ、あたしは何も考えなくてもいい、ただ、これが終われば朝がやって来ると思い、それだけを待っていた。
 彼氏は煙草に火を付ける、少し冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「お前は、どうしたい。俺と別れる?」
 あたしは言葉が出なかった、彼氏をは別れたくない。愛してるしこれからも、もっとずっと一緒にいたい。
「彩子さっき俺に別れたいか聞いたよね、俺は......」
 あたしの小さな胸が機械のように正確に動く、激しく乾いた音を立てて。
「俺は別れたくないけど、これからも仕事で忙しくて逢う時間は増やせない、それに文句があるなら別れるしかないと思う」
 鼻の奥ががつんとする、彼はあたしに浮気をするなとは言わない。あたしは別れたくないけど逢う時間がないとこれからも知らない男の誘いにほいほいと付いて行ってしまうだろう。
 そう、思いながら、あたしも別れたくない、と言葉にすると涙が流れてきた。携帯が着信をんを告げる、見ると今朝の男の子からだった。
あたしが無言で俯いていると、彼は席を立ち、落ち着いたら連絡してきて、と言って店を出て行った。
 あたしは彼の後を追うこともできずに、ただ冷めたコーヒーを飲み、涙を拭いた。