▲この写真はイメージ図です。実際のアンナ・トゥヴさんの爆撃された家とは関係ありません。
この記事は、AdSenseと契約しているブログで作成したものでしたが、事情により、Amebaのブログにお引越しする事にしました。
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この記事は、ウクライナ東部に住んでいたアンナ・トゥヴさんの家が、ウクライナ空軍の爆撃にあったときの体験を証言した記事をもとに作りました。
これを読むと、東ウクライナ市民(ロシア系ウクライナ人)が誰から巧撃されているのかがわかりますよ。
この記事は自動翻訳ソフトを使い、ロシア語から日本語に翻訳しました。和訳のおかしなところをチェックして、自然な日本語にしています。一部、意味がとりにくいところもあるかも知れませんが、ご了承下さい。
アンナ・トゥヴさんの「家族構成」を先に読むと、記事を理解しやすいです。mokuji
目 次 -------------------------
1. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!アンナ・トゥヴの家族構成は?
2. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!アンナ・トゥヴの告白
2-1. クリミアへ疎開
2-2. ゴルロフカに戻る
2-3. 再び爆撃
2-4. つかの間の幸せ
2-5. あの日の記憶
(1) 再び銃撃
(2) 救助
(3) 病院で
2-6. 一時的な避難場所
2-7. 犯人見つかる
2-8. 国連でのスピーチ
3. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!場所の説明
4. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!東ウクライナとロシア
5. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!元記事は?
6. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!最後に
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1. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!アンナ・トゥヴの家族構成は?
彼女の家族構成は以下のとおりです。
- アンナ・トゥヴ:母。3人の子供を生んだ
- ユラ:夫。
- カチャ:10歳の長女。
- ザハル:2歳の次男。
- ミラナ:2014年に生まれた。三女。おそらく、0~1歳の女の子。
2. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!アンナ・トゥヴの告白
▲引用元:https://by-julietbonnay.com/2021/06/seven-years-of-bombing-in-eastern-ukraine-anna-tuv-interview/
アンナ・トゥヴのインタビュー記事より
アンナ・トゥヴ "テロリスト"の告白/ドンバス出身のアンナ・トゥヴの告白。
家族が殺され、ノーベル賞候補にノミネートされました。
彼女はゴルロフカで砲撃の際に夫と娘を失い、後に、彼女の家を破壊し家族を殺害したウクライナ兵を見つける事になります。ウクライナは、この女性が2015年5月に夫と長女とともにホルリフカの自宅の瓦礫の下に埋もれて死んでいたら、大いに助かったことでしょう。なぜなら、みんな死んでしまって、生き残りの証言者もいなかったはずだからです。
ウクライナの「ピースメーカー」データベースにテロリスト、分離主義者として登録された35歳のアンナ・トゥヴは、それでも反戦の演説でヨーロッパ中を駆け巡っています。彼女に関する記事やレポートは、何十本も掲載されています。
国際連合ジュネーブ事務局「パレ・デ・ナシオン」で行われた、2017年国連人権理事会の会合で、アンナがスピーチを終えると、会場が静まり返りました。
奇しくも、ロシアにいる私達だけが、2019年のノーベル平和賞候補であるアンナ・トゥヴのことをほとんど何も知りません。彼女はヨーロッパ勢からもこの賞の候補にノミネートされています。
イタリアの慈善団体「ヘルプ・セーブ・ザ・チルドレン」の会長であるエンニオ・ボルダート氏は、インタビューで、「一般のゴルロフカの住民が推薦されたことで、ウクライナ東部の紛争に関するメディアの報道を助けるはずだ」と述べました。
アンナの立候補は、ノーベル賞の規定に従って、イタリア国民議会議員のヴィト・コメンチーニ氏によって提案されたものです。アンナ・トゥヴの家族を殺した事件に関するウクライナ軍の容疑は、フランスのストラスブールで最も悪名高いものの一つとなりました。
アンナ・トゥーヴェは、生き残った片方の手で生まれたばかりのミラナを掘り起こしました。
「毎朝、昨日は最悪の日だった と思いながら目が覚めます。」と、アンナ・トゥヴは話を切り出します。
アンナは背が低く痩せていて、失われた手の代わりにバイオニック義手を付けています。彼女の声は柔らかくて、一見したところ、彼女に目立った特徴はありません。燃えるような瞳を持つオルレアンの乙女ではないです。平凡な妻であり、母であり、平凡な女性。運命はしばしば、最も平凡な者を選びます。
何十回、何百回と、ロシア語を知らない人たちの前で、多くの人がまったく知りたくない事について、話さなければいけませんでした。
彼女が今日私に話してくれるのは、
- 家に砲弾が降り注ぐ直前に、彼女が助けようとしたケージの中のオレンジ色で、キーキーと鳴く雛のこと
- 爆撃の粉塵が彼女の出血した顔に降りかかったこと
- 鼓膜が破れ、片腕の前腕部が切断され、皮一枚で肘からぶら下がった状態で、もう一方の腕で、生後わずか数週間の、生まれたばかりの娘ミラナを、もがきながら地面を掘って助けたこと
- 恐怖で気を失ってしまった2歳の息子ザハルをもう一方の腕で抱きしめて、夫ユラと長女カチャの体半分だけが残されているのを見たこと…
彼女は他の人達の前で、これらの事について数え切れないほど繰り返し証言して来ました。
「毎朝、昨日は最悪の日だったと確信します」 と、彼女はほとんど無表情で言います。彼女はほとんど私を見ていません。私の後ろに立っている、何か見えない、体の不自由な誰かを見つめているように見えます。
「私はアンナ・トゥヴ、ドンバス地方の住民です。」・・・彼女はこのスピーチを暗記していました。何十回、何百回と繰り返し、歯に衣着せぬ物言いで。まるで新聞記事か怖い本の再録をするように。でないと、アンナは狂ってしまうでしょう。
「夫は集会に行かせてくれませんでした。」
「私はウクライナのゴルロフカ市で生まれ育ちました。両親は鉱山労働者で、幼いころにクルスク地方からドンバス地方に連れてこられました。私は医療従事者であり、人生の大半を市立病院の外科で看護師として働いてきました。
主人と私は、元気に暮らしていました。大きな農場に豚、鶏、菜園を経営し、小さなビジネスをしていました・・・夫は車の仕事をし、私は本業の傍ら、化粧品の販売をしていました。
ウクライナで起こっていることについては、まったく無関心で、テレビを見る時間すらありませんでした。集会やデモには参加しなかったし、何かのために闘うわけでもあませんでした。2014年にキエフで起きていたことは、単にもう一つの「オレンジ革命」であり、彼らはただ集会で抗議し、そのうち、やめていくだろう、と思っていました。自分たちの生活とは全く関係ないことでした。
彼女の夫は挑発行為を恐れて、アンナをドネツク共和国の自治権を問う住民投票にも行かせませんでした。
「私は妊娠中か授乳中で、ユラはミルクが焦げ付かないようにするため、私にニュース番組を見させてくれませんでした。」
2-1. クリミアへ疎開
ドネツク、スラビャンスク......まるで別の現実のようでした。そう、彼女の家族も空を飛ぶ戦闘機を見たことがあります。しかし、それが死を運んでくる飛行機だとは思っていませんでした。
「そして、爆弾が私たちの街の中心部に降り注ぎ始めました。私たちは怖くなり、眠っている子供たちを車に放り込んで、クリミアに向かいました。1週間もすれば、全てが落ち着くだろう、そうすれば戻れるだろうと思っていました。夫は、農場の監督なしに長い間、農場を離れてはいけないと信じていたんです。」
※訳者注:「クリミア」は、クリミア半島の事。
2014年7月 ゴルロフカは破壊されました。
この爆撃で亡くなった親子・・・最後の抱擁で我が子を救おうとして幼い娘を腕の中で抱いたまま亡くなった母娘。この写真は世界中を駆け巡り、「ゴルロフカのマドンナ(聖母)」と呼ばれています。この若く無垢な少女とその娘を殺害したのは、ウクライナ、ロシア、そして、民兵だと、状況や政治的利害によってコロコロと話が変わりました。
▲引用元:クリスティーナ・ジュークは23歳で、娘のキラは生後10ヶ月でホルリフカで殺された。 (antimaydan.info)
2014年7月の砲撃で亡くなったのは、母親のクリスティーナ・ジュク(23歳)、そして、娘のキラ(生後11カ月)でした。その地獄を偶然写したカメラマン(無作為の通行人)は、古いみすぼらしいドレスを着たおばあさんが、混乱しながらも不自然に窓枠の破片を持ち、自分の家が建っていたところにある建物の穴を見て、人間離れした叫び声を出していたのを耳にした、と回想しています。
こちらは、クリスティーナと娘のキラがなくなったときの写真です。
注意:以下のリンク先の写真は、悲惨なものですので、見る勇気がある人だけ見てください。
↓
写真:https://drive.google.com/file/d/1HqjjTsl4oPcrNrEuHhBcNGMar5yopchD/view?usp=sharing
これに関するTwitterの投稿ではこちら↓
ウクライナ軍は東ウクライナ市民に無差別砲撃を行い、それにより多くの市民が殺害されました。https://t.co/CKuf4LLYYl
— ふーた (@humi_raelian) June 21, 2022
参考記事:[作成中]ゴルロフカのマドンナ:ウクライナ空爆で若き母と娘に起きた悲劇とは?
「私たちはドンバスに生まれ住んでいるという事実だけで、分離主義者とみなされました。その夏、空爆があちらから飛んできて、ウクライナ(軍)は私たちの近所全体を(爆弾で)焼き払い、去っていきました。隣の8つの通りで5つの家族だけが残りました。」と、アンナ・トゥヴは彼女の話を続けます。
※訳者注: 分離主義者とは、国内で民族的、宗教的、人種的に少数派である事から、中央政府から分かれて独立したいと考える人達の事。
「クリミアで難民になるのは嫌でした。故郷に帰りたかったです。私たちはホームレスでも浮浪者でもないです。1週間後、ユラは出て行きましたが、私と子どもたちは残りました。」
▲クリミア(イメージ図)
彼女は海辺のカフェでバーのウエイトレスとして働いていました。お金はなく、出産手当金はウクライナでしか支給されませんでしたが、ウクライナに行くのは不可能でした。10歳のカチャは3時間ごとに母親を連れてきて、小さなザハルを彼女の母親のところに抱っこして渡してあげました。
「季節労働は終わりを告げようとしていました。夫は何度も来て、私にゴルロフカに戻るように説得しました。断れば家族はバラバラになってしまいます。子供たちは泣きながら、『お父さんのところに帰りたい』と言いました。私はそれに従いましたが、それは私達がみんなで決めたことでした。」
2-2. ゴルロフカに戻る
▲イメージ図
引用元:gorlovka autumn - Bing images
彼らは2014年の秋にはゴルロフカに戻っていました。なぜなら、紛争当事者が署名したばかりの、ドネツクとルハンスクの停戦を定めた第一次ミンこスク議定書が、戦争に終止符を打つと確信していたからです。
ミンスク議定書は、2014年9月5日にウクライナ、ロシア連邦、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国が調印した、ドンバス地方における戦闘(ドンバス戦争)停止についての合意文書です。
これは欧州安全保障協力機構(OSCE)の援助の下、ベラルーシのミンスクで調印されました。以前から行われていたドンバス地方での戦闘停止の試みに添い、即時休戦の実施に合意しています。しかし、ドンバスでの休戦は失敗しました。
その他の人たちも、この交渉に勇気づけられて続々とゴルロフカに戻ってきました。アンナは、3人目の子供を妊娠しました。そして、地獄が再び始まりました。tag02-3
2-3. 再び爆撃
"彼らはあらゆる怠惰を爆撃しました。公式には「ミンスク」だから、その事については、彼らは一切、どこにも口にしませんでした。私たちは地下室を持たず、近くの通りにある友達の家に隠れ、夜は雪の中を走り、寒い地下室に座りました。その冬、子どもたちは肺炎になりました。私たちは疲れ果ててしまいました。私たちは警戒心を緩めてしまいました。恐れることに疲れ果てました。やがて、何事にも慣れるものです。毎朝、「昨日が最後の砲撃だ」と思いながら目を覚ましていました。そう信じることで、私たちは生きることができました。
2-4. つかの間の幸せ
出産予定日の前日に妊娠届を出しました。病院内も安全とは言えませんでした。ミラナを出産し、その1時間後にまたもや砲撃が始まったので、急いで家に帰りました。彼らは民間人の標的に砲撃しました。
彼らが学校で銃撃し始めたらどう行動するかを書いたメモをリュックサックに入れて、上の娘を登校させました。アンナは夏が待ち遠しくて、カチャを放そうとしませんでした。
5月21日、(娘の)カチャは11歳になりました。その5日後、彼女はこの世を去りました。
「彼女の誕生日を祝いました。近所の子供たちも来てくれました。そして夕方になると、また砲撃が始まりました。」とアンナは続けます。
「私は、カチャが4年生が終わったら、せめてどこかへ出かけようと心に決めていました。」
彼女の休暇が始まるまであと1日でした。tag02-5
2-5. あの日の記憶
(1)再び銃撃
▲イメージ図(破壊された学校)
カチャは最後の鐘を期待して、嬉しそうに学校から帰ってきました。干し草が運ばれ、それを乾燥させるために投げて、菜園に水をやり、ウクライナの偵察用ドローンが低空飛行をしていました。いつも通りの生活でした。
▲イメージ図/偵察用ドローン(ドイツ製)
引用元: Vector and Scorpion | Auterion Government Solutions (auterion-gs.com))
●訳者注:現在、ウクライナに提供されている偵察用ドローンは以下の通り
- ドイツ製:ドイツの企業のQuantum Systemsが開発した監視・偵察用ドローン「Vector&Scorpion」
- トルコ製:ハイラクタルTB2
- 米国バイデン政権提供:米国エアロバイロンメント社製の巧撃ドローン「スイッチブレード」
- 英国製:巧撃用軍事ドローン
- 日本製:防衛省提供の市販品の監視・偵察用ドローン
ウクライナ・ロシア戦争に、日本がウクライナ側に加担・支援していると言うのは信じられません。東ウクライナ市民のウクライナ政府による無差別砲撃と殺戮を、日本政府が容認し応援しているのと同じです。
「慌てて逃げる間もなく、再び銃撃が始まりました。私は急いで鶏の入ったかごを通りから小屋に運び、娘も庭に飛び出して手伝ってくれました。私は、砲弾の落ちる音が聞こえないようにするため、ユラに頼んでテレビの音をもっと大きくしてもらいました。」
アンナによると、大きな笛が鳴り響いたので、家に向かって走ったそうです。彼女はかろうじて敷居を乗り越え、後ろ手にドアをバタンと閉めました。何も起きませんでした。
▲イメージ図
爆弾は廊下と子供部屋の間に落ちました。アンナは爆風で外側に投げ出されました。彼女は意識を失いました。「耳元で大きな音がして、ガスの臭いで目が覚めました。埃と石灰にまみれていて、私は目が開けられませんでした。割れたガス管が私の顔の方に突き出していて、ヒューと鳴り続けていて、振り向くことも動くこともできませんでした。」
近所の人が、落ちてきたドアの残骸の下敷きになった彼女を助けてくれました。アンナは、近くのどこかで、ザハルが土に覆われた状態で、息を切らしているのが聞こえました。彼女は叫びながら、ユラとカチャを呼びました。でも、返事がありません。
「冷蔵庫の近くで別の砲弾が爆発しました。どうやってザハルを逃がしたか覚えていません。彼は一生懸命叫んで、私の左腕を指さしていました。何が悪いのか理解できませんでした。全然、腕は痛くないのですが、私の前腕部分が一枚の皮で肘からぶら下がっているのが見えています。
携帯電話は水槽に水没しました。水槽のガラスは割れてしまい、周りのものはすべて水浸しになりました。2回目の爆発で、アンナは2人の子供と一緒に家の中に閉じ込められました。ザハルのタイツで腕に包帯を巻いて、彼女はミラナを掘り起こしました。「ザハルは血まみれの裸足で破片の上を駆け抜けたので、落ち着かせるために彼を強く抱きしめなければならず、カチャとユラを探しに行く事ができませんでした。今できることはそれしかありませんでした。」
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(2)救助
彼女は、彼女達の元へやって来た男性救助者の一人が、大声で叫ぶのを聞きました。
─「子供だ、子供だ!」
アンナは、男性救助者が発見した子供がカチャである事を確信しました。そして、彼女は意識を失っていました。しかし、救助隊員はチョークのように顔面蒼白でした。
「そして、カチャの胴体の半分しかないのが見えました。その近くにはユラが横たわっていましたが、顔が石膏ブロックの上にうつ伏せになっていて、腕と足がありませんでした。彼は家の玄関先でバラバラに引き裂かれていたのです。」
夫と娘のカチャを亡くして、アンナは心神喪失状態になり生きていく気力を失いました。
その日亡くなったのは、アンナ・トゥヴの家族だけではありません。2015年5月26日、ウクライナ軍による砲撃で、ゴルロフカではさらに5人の市民が死亡しました。一晩中、市内の救急車はけたたましいサイレンを鳴らし続け、負傷者を乗せて病院へと搬送していました。
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(3)病院で
アンナは、幼い子供たちを置いて病院に行くことを拒みました。彼らは別々の建物に入れられました。腕の切断手術のあと意識を取り戻し、彼女は「下の階の赤ん坊(ミラナ)のところに連れていってほしい」と懇願しました。
「私は7階にいたのですが、もしここで地雷が爆発したら、子どもたちを助けるためにできることは何もないと思いました。何もできない。私はこのビルで働いていました。隅々まで知り尽くしている私だけが、子供たちを救うことができると思いました。
ミラナは散弾でズタズタになり、ザハルは舌が出なくなり、肩や背中に鉄の破片がささりハリネズミのようになってしまいました。少年は話し方を忘れてしまったように見えました。彼は頭から離れていって夢遊病者のようでした。後に彼は、そのショックから自閉症と診断されました。
アンナは生きる気力がありませんでした。イギリス人記者グラハム・フィリップスは、彼女を決して死なせませんでした。彼はいつも彼女の部屋の近くにいて、戦争の記録を残していたのです。tag02-6
2-6. 一時的な避難場所
「葬儀の後、人道支援大隊「エンジェル」が私と子供たちをドネツクに連れて行ってくれました。彼らは、ヨーロッパに出稼ぎに行った船員のアパートに泊めてくれたんです。大家さんはこう言いました─『生活が苦しい人が来たら、私の鍵を渡しなさい』と。」
▲イメージ図
引用元:Однокомнатная на Гринкевича(ドネツィク)– 2022年 最新料金 (booking.com)
そのアパートは彼女と子供たちの一時的な避難場所になりました。何カ月もの間、そこは安全な場所でした。彼らは様々な病院へ連れて行かれ、ザハルの精神的なリハビリを試みました。
アンナはロシアのサンクトペテルブルクで初めて義肢を手に入れました。動く牽引式の義肢です。断端がまだ形成されていなかったので、すぐにバイオニック義肢を作ることはできませんでした。
ヨーロッパ人たちが手術代を払う用意があると主張したため、彼女は1年間、海外に行くことができませんでした。しかし、パスポートを取得できたのはキエフだけで、そこでアンナは分離主義者とみなされ、爆撃で負傷しておらず、家族を失ったのではなくて、DNR(ドネツク人民共和国)市民軍の看護師であると主張することで、「ピースメーカー」データベースにさえ登録されました。
2-7. 犯人見つかる
そう、この間、彼女は夫とカチャを殺した犯人を見つけました。架空のキエフではなく、ウクライナ将校の具体的な名前と階級が分かったのです。ロシア連邦の調査委員会とDNRの法執行機関によって調査されました。
同機関によると、ゴルロフカへの砲撃は、ウクライナ軍(テルノピル)の第44独立砲兵旅団の第1榴弾砲大隊の司令官であるヴィクトル・ユシュコ中佐が命じたものでした。この部隊はウクライナ軍 第44独立砲兵旅団に所属し、その指揮官はオレグ・リソヴォイ大佐でした。民間人への射撃を命じたのは彼でした。ユシュコはそれを実行した人物です。
きっと、彼らもどこかに家族がいるのだろう......。ドンバスへの出張から戻ると、彼らは子供や妻にキスをするのだ。生きている人間ではなく、魂のないロボットでもなく、機械でもない。
どうすれば、彼らは自分を許すことができるのでしょうか? 彼らは、自分がしたことをどのように正当化するのでしょうか?
「彼らは、私たちの中に民兵がいないことをよく知っていました。偵察用ドローンが私たちの地域を飛行した後、ここに普通の住宅があることを確認してから、砲撃が行われたからです。」
ドネツクの社会活動家は、弁護士のダミアン・ヴェギエと共に、調査資料とアンナのビデオ証言を、フランスのストラスブールに送りました。欧州人権裁判所はそれらを受理しました。アンナのケース番号は、ECHR No.56288/15ですが、こうした訴訟や上訴は何十、何百とあります...。そして、ウクライナ政府を非難することは、今日の政治的アジェンダに沿うものではありません。
「ゴルロフカの友人は、一度に3人の子供を殺されたから、私はまだましよ。」とアンナは苦笑します。
愛する人たちの思い出のために これから彼女にできることは話すことだけでした。tag02-8
2-8. 国連でのスピーチ
検察側証人
イタリア、サンマリノ、ドイツ、フランス、スイス...。世界も真っ二つに分かれています。
- 一方は、彼女の話を取材した人権活動家やジャーナリストたちで、彼らはその歴史を記事にしました。
- もう一方は、現実が本当はどうなっているのか、この戦争で誰が「責められるべき」なのかを正確に「知っている」、栄養を十分に摂取した公務員や職員たちで、ドンバス地方で起こっていることに対する彼らの態度を変えることは、いまだに信じられないほど難しいです。
アンナが本物の政治家だったら、彼女の主張にどんなに説得力があっても、これらの政治家たちは彼女を聞く耳すら持たないでしょう。
しかし、それはそれとして、彼女はごく平凡な女性でした。ある日、爆発が起こり、平凡な生活が一変したのです。菜園、ニワトリ、長女のもうすぐやってくる長期休暇、一番下の子の時間決めで与える食事...。
「前回のジュネーブの国連でのスピーチでは、ウクライナなどさまざまな国からスピーカーが来ていました。彼らの代表はアメリカに住んでいる女性でした。彼女は、ロシア軍がドンバス地方に入り、ウクライナ軍は、子どもたちではなく、分離主義者の居住していない家や施設を砲撃していると、出席者を説得していました。
しかし、私には 写真や証拠、私の家族や知人が亡くなった証拠、弾道検査のデータ、砲弾がどちらから飛んできたのか、などの揺るぎない証拠があります。この女性は私に反論できるものは何一つ持っていませんでした。なぜなら、彼女は五体満足で元気でやっていたからです。」
国連の聴衆は初めて沈黙しました。スピーチの後、(私の話がとてもわかりやすく、説得力があったので、)アンナへの質問は一つもありませんでした。
フランス人は取材を行い、彼らのメディアでアンナ・トゥヴの悲劇を語り、イタリア人は街頭抗議行動を行い、ペトロ・ポロシェンコとウクライナの国軍を初めて裁判にかけ、テロリストとして認定するよう要求し、ドイツの国会議員は有権者に恐ろしい真実を伝えると約束しました......」。
ペトロ・ポロシェンコとは?
ポロシェンコ(1965年9月26日~)は、ウクライナの実業家、政治家。 第5代大統領。ウクライナ有数の富豪。
2014年にヤヌコーヴィチ政権を崩壊させたウクライナ反政府デモでは、デモを財政面で支援したとも報じられました。その後、2014年5月に行われた大統領選挙に出馬し、1回目の投票で54%超えの票を獲得して、第5代ウクライナ大統領に選出されました。2019年の大統領選挙では落選し、1期で大統領を退任しました。
小柄でか弱い女性アンナは、大声を出すロシアの政治家ではありませんが、血を流す祖国の真実でヨーロッパの情報封鎖を破ったのです。
アンナのヴェローナでの講演の後、ペトロ・ポロシェンコはイタリア名誉市民の称号を剥奪されました。
「何千人もの同胞が、今起こっていることについて、ソーシャルメディアを通じて私に手紙を寄せてくれています。戦争は、まだ終わっていません。平和は存在しません。もちろん、西側やキエフの多くの人々は、平和を好みません。私はいつも脅迫を受けています。最初は、私がウクライナ国民であるため、海外に渡航するのは非常に難しく、私が国外に出ないようにされました。」
「2018年末になってようやく、ロシア語を母国語とする私は、ロシアの市民権を取得することができました。そのためには、私の両親がクルスク地方の出身であること、そして私にはその権利があることを証明しなければなりませんでした。私のロシアの旧姓はゴロヴィナです。しかし、ロシアの役人に何かを納得させるのは、信じられないほど難しいことでした。国会の代議士たちでさえ、私のために立ち上がってくれたのですが。」
3. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!場所の説明..
3-1. ドンバス地方
ドンバス(ウクライナ語では「Донба́с」、ロシア語では「 Донба́сс」と書く)は、ウクライナの東南部に位置する地方です。ウクライナのドネツィク州とルハーンシク州を指します、ドンバス地方はウクライナ国土面積の10%を占めています。
4. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!東ウクライナとロシア
東ウクライナは、もともとソ連領でした。そのため、東ウクライナに住んでいる人々の多くがロシア語を話します。そんなロシアの言葉を、東ウクライナの人たちが自由に話したいと思うのは自然なことであり、彼らが独立して、祖国ロシアに併合されたいと思うのも自然な事です。
ちなみに、州ごとのロシア語を話す人口比率でいうと、ドネツク: 74.9%、ルハンシク: 68.8%、ハルキウ: 44.3%、キエフ: 7.2% となります。
ウクライナ政府にとって、東ウクライナの工業がウクライナの経済を牽引してきた事を考えると、東ウクライナの人々がウクライナから離れ独立するのは国の経済への大打撃を意味します。そして、西側よりのキエフにとっては、東ウクライナが独立しロシアに併合されるのは屈辱以外の何物でもありません。当然、ウクライナ政府は東ウクライナ市民がウクライナから独立するのをやめさせたいと考えました。
そして、この背後には、アメリカとNATOが実はいます。アメリカとNATOは、ロシアのプーチン大統領を失墜させ、ロシアの資源を奪うために、ウクライナを利用してウクライナ戦争を引き起こしました。彼らのやり方は、ウクライナ軍の兵士たちを訓練し、彼らに同じ国である東ウクライナの市民を無差別巧撃させて虐殺し、ロシア軍を引きずり込むことで、ウクライナ戦争を勃発させるやり方でした。そして、その戦争を泥沼化し、ロシアの経済に打撃を与え、ロシアの資源をも盗もうとしているのが、アメリカ・NATOの目論見なのです。アメリカ・NATOは、ロシアの資源を奪えば、世界を掌握できると考えています。なぜなら、国土が世界で最も大きく世界の中心であるからです。
なので、彼らには、最初から平和的な解決策を選ぶことはこれっぽっちも考えていません。あくまで、残虐に東ウクライナ市民に対して砲撃する事で、ロシアを戦争に引きずり込むのです。
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5. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!元記事は?
元記事はこちらです。↓
6. ウクライナ軍がゴルロフカを爆撃!最後に
このアンナの証言を読んだら、それだけで、全てに結論を出すことはできませんが、ドンバスの地域の住民たちに攻撃をしかけたのはロシアではなく、ウクライナ軍だと言うことがわかってきます。
参考になる書籍では、馬渕睦夫の書いた本「ウクライナ紛争 歴史は繰り返す」がお勧めです。
アンナが、少しでも苦しかった日々の事を忘れ、今の幸せを意識できるように祈ります。