「国民受忍論」を捨て、補償を | 田口裕史のブログ

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 朝日新聞12月11日付朝刊「私の視点」欄に、直野章子さんの「『国民受忍論』を捨て補償を」が掲載されている。


 「戦争被害は、国民が等しく受忍すべきものである」という論理が、長年にわたり、多くの戦争被害者への補償を拒む根拠とされてきた。いわゆる「国民受忍論」だ。

 直野さんは、これに疑問を投げかける。


 「受忍論は戦争損害に対する国の法的補償責任を否定するが、法的根拠のない政治論だ。主権在民、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の精神にも反する。その前提となっているのは、国家の戦争遂行権であり、国家のために国民が命を犠牲にして当然という考え方だからだ。

 (略)受忍論は過去の遺物ではない。東京と大阪の空襲裁判でも、国は相変わらず受忍論を主張している。安全保障や抑止力という政治論で憲法が適用されない『例外状態』を強要し、被害を不平等に受忍させる点で沖縄の米軍基地問題にも通底する。

 (略)受忍させてきたことへの償いとして、被害者の尊厳回復と戦争被害の再発防止の精神を盛り込んだ戦争被害補償制度を確立することこそ、受忍論という国家優先思想を打破する一歩となる」(直野章子「『国民受忍論』を捨て補償を」)


 直野さんの主張に深く同意する。

 これまで何度か書いてきたことだが、より根本的な問題は、私たちが、この社会をどのような論理・倫理のもとに成り立たせるか、という点にある。

 一人一人の「小さな」人間の安心と幸福をいかに実現するか。社会の論理と倫理の基本は、そこにあるべきだ。私はそう考える。

 むろん、全体の利益のために少数者の「犠牲」が求められてしまう局面が、現実世界にはあるだろう。しかし、そうした「犠牲」が生じることを極力抑える政策がとられるか否か、被害の痛みへの想像力が機能するかどうか、また生じてしまった被害に対して十分な(そして具体的な)償いが行われるか否かが、社会の在り方を根本的に左右する。


 これまで、日本に限らず、世界のいたるところで国家優先の論理がまかり通ってきた。少数者の被害を「いたしかたないこと」とみなし、切り捨てるやり方だ。

 そして、こうした歴史的経験をもとに、国家優先の論理を批判し、超えようとする動きもまた、いま世界中に広がりつつある。


 先日、韓国映画「ホワイトバッジ」(1992年)を観た。ベトナム戦争に参加した韓国人元兵士の「戦後」を描いた作品である。主人公の部隊は戦闘でほぼ全滅という被害を受けるが、じつはこれは、軍の戦略だった。より大きな戦果をあげるために、軍は彼らを犠牲にしたのだ。軍の指揮官は、戦略の正しさに満足する。そして「全体からすれば小さな犠牲だ」と述べるのだった。


 もちろん、この映画はフィクションである。 しかし、「小さな」人間を踏みつぶしてきた国家の論理に対する製作者たちの憤りが、この場面には込められていたように思う。

 

 一人一人の「小さな」人間の安心と幸福を国家の論理に優先させること。それがこの社会の根本を支える論理・倫理であるべきだ。

 そしてこの論理・倫理を前提として、個別具体的な被害に関する責任主体の明確化と補償がおこなわれ、再発防止措置が模索される必要がある。