3年めの、京都研修旅行 秀吉めぐり | 社員が、社長みたいにがんばる会社の創り方

3年めの、京都研修旅行 秀吉めぐり

先週、仲間との、3回目の「京都研修旅行」。

いつも、案内ルートを作成してくださるKさんからの

メールがすばらしかったので、ちょっとアレンジして、ご紹介します。



今回は、特定のテーマを追いかけ、京都を広範囲にまわりました。

日曜日は、比叡山。

月曜日の研修は、複数のテーマがあったのですが、
そのうちの一つが、豊臣秀吉の一生をたどるというもの。


秀吉の一生をたどるとは、いわば、
秀吉の出世からその生を閉じるまで、そして、その後・・・という

軌跡をたどること。


そこで、最初に行ったのは、

豊臣家が滅亡への道をたどる契機となった「方広寺」の鐘でした。
徳川家康の勧めで、かつて秀吉が建立し、
地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿を
豊臣秀頼が再建することになっていました。

そして、

その修営が終わり、その鐘の銘が入れられたときになって、
家康はその文言に重大な言いがかりをつけました。

鐘の銘にある「国家安康」という文字は家康の名を切ったものである。

また、
「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、
と解釈して、家康は激怒し、大阪冬の陣、夏の陣へのなだれこみます。

この方広寺の鐘は豊臣家が滅亡への道をたどる契機となったものです。

その歴史上の鐘は巨大なものですが、それが現存しています。

この大きさのものが、よく釣ってある・・。

そんなところにも、感心してしまいます。

訪れなければ、わからなことです。

そして、
その横にある「豊国神社」にも寄りました。
http://www.genbu.net/data/yamasiro/toyokuni_title.htm

秀吉は、
慶長三年(1598)八月十八日に、死去。

その死後、
遺言によって、当社の東方にある阿弥陀ヶ峰山頂に密かに埋葬され、
その麓に「豊国社」が創建されました。
その、秀吉を祀るのがこの「豊国神社」です。

秀吉が隠居後の住まいとするための伏見城の門を
移築したと言われる立派な唐門がこの神社に残っています。

その門に秀吉をしのぶことができました。
http://www.kokuhoworld.com/044.html

さらに、この後、車で移動して、「豊国廟」にも行きました。
秀吉のお墓です。
500段近くの階段を前に、ひるみ、上がりませんでしたが、下からお参りしました。
ひっそりとその場所はあり、訪れる人は全くいませんでした。
それくらいひっそりとたたずんでいます。

雨もあって、とても静かな気持ちなりました。
http://sontyou.sub.jp/tabi/toyokunibyo.htm

さらにさらに、タクシーに遠くまで走ってもらい、
次は、山崎を目指しました。

御存知のとおり、秀吉が明智光秀を破り天下をとった山崎の合戦の

舞台です。

この山崎の天王山にある「宝積寺」に行きました。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/hosyaku-ji.htm


本能寺の変の知らせを備中・高松で聞いた秀吉は、
急ぎ京へ戻り、
天王山に本陣を置き、光秀軍と天王山麓で交戦しました。

ここで秀吉軍に敗れた光秀の天下は、文字通り

「三日天下」でした。


また、天王山
という言葉もこの合戦から由来しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E4.B8.A1.E8.BB.8D.E3.81.AE.E5.8F.82.E6.88.A6.E6.AD.A6.E5.B0.86

ちなみに、山崎の合戦で敗れた光秀は
その後、「妙心寺の明智風呂」に3日間隠れます。

この明智風呂は、昨年の「京都研修旅行」で見学したところです。
http://sango-kc.blog.eonet.jp/eo/2006/02/post-145b.html

この京都研修旅行が始まったのは、3年前。


当初は、課題図書「世に棲む日々」も一巻の途中で挫折し、

新撰組

幕末

坂本竜馬

西郷隆盛


など、なにがなんだかわからず、興味の持てないままの

参加でしたが、こうして、何回か同じ地に訪れることにより、

歴史がつながって見えてくると、おもしろくなってきます。


そして、このお寺の境内には、
秀吉が戦勝して、一夜で築いたと言われる一夜の塔が現存しています。
伏見桃山時代建築の塔が残っているのも不思議でした。

また、同じく境内には、秀吉が腰をかけたという
「出世石」も残っています。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/hosyaku-ji.htm

この宝積寺は、出世、お金と縁ができるパワースポットだそうです。

今回の研修旅行では行くところ行くところがパワースポットでした。
偶然なのですが、とても効能高い旅行になったことと思います。
http://benchan2008.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-83a4.html
http://kaiun-e.jp/public_spot?area=kansai&kbn=special_ps&spot_id=958&spot_kind_cd=3&todohuken=26

それにしても、秀吉の出世はすごいですね。

この時代の百姓ですから、今とはわけが違います。

そして、一代で天下取り。うーん、すごい!

さらに、タクシーの運転手さんに、
山崎の合戦が一望できる場所に行きたい、
と伝えると、車をかなり走らせてくれまして、
ある神社の墓場まで連れて行ってくれました。
そこでは川、平野が見おろせ、山崎の合戦地がイメージできました。
(階段をのぼったら、ひざが笑いました・・・)

さらに、伏見へと車を走らせてもらったのですが、
途中、山崎の合戦の最激戦地といわれる場所を車で走らせました。

「このあたりは最激戦地で、人が沢山死んだところなので、
官舎とかしか立っていなかったんですよ。・・・・・
そして、その地に淀競馬があるんですよ。」

などと教えてもらいました。


ちょうど「淀城」のあるあたりです。

このように、豊臣秀吉をいう一人の人物を軸に京都を広範囲に廻った京都。



秀吉が天下をとった場所、
秀吉が隠居するために作った伏見城の門、
秀吉のお墓、
秀吉亡きあと、豊臣家が滅亡していく契機となった方広寺の鐘・・・。


昨年の京都研修旅行で行った醍醐寺の桜も秀吉が植えさせた
もの。

京都には秀吉の足跡がたくさん残っているのですね。

また、このルートでめぐってみたいものです。

皆さんもよろしかったら、ぜひ。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA

その鐘は、ほんと大きかったですー。