この映画はセクシャルマイノリティーに特出したものではありません。
マイノリティーを題材にし、アメリカ社会を書いた映画だとおもいます。
一つのテーマは、個人にとっての「愛」とは何か?それぞれの「愛の形」を通してそれを書き出している。主要な主人公二人は同性愛者(ホモセクシュアル)であり1970年台同性愛に開かれていない社会において、違うスタンスで社会に接している。オカマバーのダンサーとして歌手を夢見るルディは自分のセクシャルマイノリティーを隠そうとせず理解できない社会に対しいらだちをぶつける奔放な性格に書かれています。一方のポールは法律を学び勤勉で社会の目をよく理解し、社会と調和するために自分のセクシャルマイノリティーをかくして生きようとする弁護士として書かれています。この映画では二人の性的な行為も描かれていてそれは決して幻想的に美しいものではありません。そしてその決して美しく描かれなかった性行為は、もう一人の主人公「薬物依存の母親に育てられた、チビで太った知的障害のあるマルコ」の親権裁判において、二人に対し不利な状況を生むのです。
ここでこの映画の中で重要な役割をしているのは、セクシャルマイノリティーに無知で意地悪な検事や裁判官の悪役ではありません。
アメリカという国の社会そのものなのです。
アメリカという国では、障害者に対し「隔離」をします。親子であっても障害者をみることで家族の健康が侵される可能性があるのであれば隔離して無理の無い決し方がお互いのために正しいと考えるからです。特別な才能があればそれが取り上げられることはよくありますが、決して社会の中で育て社会の一員として溶けこませるようには努力しません。
権利は与えますが権利の実行はできないように「隔離」するのです。
マルコは養子先がいない障害児童として施設に隔離され何度もそこを脱走し、二人のセクシャルマイノリティーはこれに戦いを挑むのがこの映画です。
アメリカは時代によって解釈や風潮を、過去に何も無かったように変えます。
セクシャルマイノリティーにおいては、1970年代前は日本とは比べ物にならないほど迫害されていたそうです。それが今ではセクシャルマイノリティーにおいてはアメリカは世界で一番理解があり権利が認められているかのように世界に発信しています。
くじら捕獲についても同様ですが、世界中のくじらを油を取るためだけに肉も内蔵も捨て殺し続け、くじらを追って太平洋を横断して日本にたどり着いた彼らは、現在において「私達は自分たちのミスに気づく優れた存在だからくじらを殺すという愚かな行為をする日本人に教えている」と言います。ここでも生き物を食べ物として頂く行為と金儲けや遊びとして惨殺する行為を勝手に混同して意見します。
セクシャルマイノリティーにおいて日本では、戦国時代などでも武将の男娼などが広く許容されていたためか(当時日本には性病が無かったためかもしれない)歴史的に欧米社会などと異なり、同性愛に比較的寛容だといわれています。
西洋文化が入ってきた明治以降でも映画のようにセクシャルマイノリティーだからといってそれが理由で仕事上の役職を解かれるなんてことは無かったでしょう。
この映画の中で、主人公二人はとても大きな失敗をします。
「薬物依存の母親に育てられた、チビで太った知的障害のあるマルコ」という表現は親権裁判中にポールが発した言葉です。
映画の中では、二人を必要とするマルコとマルコを必要とする二人の愛を描いているように感じる方もいらっしゃるかも知れません。
しかし彼らは「愛は強者が弱者に与えるもの」というスタンスが治せません。それこそが最後の最後まで、協力者がたくさんでて女性裁判官のシンパシーを得ているにもかかわらず親権が認められない理由となり悲劇につながります。
映画の中で、マルコは二人から大きな支援と教育を受けます。しかし、二人もマルコから大きな支援と教育を受けるのです。ポールは自分のセクシャルマイノリティーを隠してきましたがマルコの親権のためにカミングアウトの道を歩みます。マルコから大きな勇気を与えられる。ルディはマルコのために窮屈なスーツを我慢し社会人として正しく生きようと努力します。マルコは二人のための存在でもあるのです。それは個人と社会の関係でもあります。この映画は、障害者を社会から隔離し、セクシャルマイノリティーを差別しながら正義を気取っててしまうアメリカ社会が持つ致命的な欠陥について訴えることになりました。
現在、世界中でも口うるさく歌われる「愛」。。一人ひとりが深く心の中でもう一度考えてほしい。製作者からはそんな思いが伝わる名作です。