「日本の歴史の秘密を暴露すると人ではありません」のお父様の御言の真意に迫る! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先々回記事末部より
 
歴史は、人類始祖の堕落の罪の蕩減復帰ゆえに繰り返されるということです。神様の眼差しで見極めれば、心の光を通してみれば、かつて逆賊であった者が忠臣であり、忠臣であった者が逆賊として転換されます。
 
このことを主張する諸星くるとは、これまでの概念から抜け出られない方々より、激しく批判されるでしょう。しかしそれは、しょうがない事だと思います。正しい見つめ方をすれば、霊界が動き聖霊が働きます。やがてそれは、結果として現れると信じて前進していくのです。
 
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徳川家康が長子と妻を殺害せざるを得ない立場に立ったことも、西郷隆盛が自害せざるを得ない立場に追い詰められていったことも、蕩減復帰ゆえに現れざるを得なかった事件です。これらの蕩減復帰が何ゆえに現れてきたのかを知るには、日本の歴史の原点まで遡らなければなりません。神様が日本に、母の国としての願いを託するようになった原点です。
 
イエス様の十字架以降に、世界的にメシヤを迎えるための基台を造る役割を担った宗教の中心こそキリスト教です。そしてまた、仏教にしても儒教にしても、イエス様を迎えるために興った宗教ですから、再臨主を迎えるためにもキリスト教に準ずる役割を担っているとも言えるのではないでしょうか。
 
この日本には、キリスト教として伝えられる前に、聖徳太子の時代以前から、百済から帰化したと伝えられる秦氏によって、景教(キリスト教のネストリウス派)の影響が及んでいたとも言われています。その秦氏のなかで最も有名な人物が秦河勝でした。彼は聖徳太子こと厩戸皇子に仕え、弥勒菩薩像を安置する広隆寺を建立し、平安京の造成にもかかわりながら、太子に多大な影響を与えたのです。
 
聖徳太子霊 対 藤原不比等の啓示の書
 
「和を以て尊しとなす」で知られる「十七条憲法」は、聖徳太子が制定したと言われ、日本書紀に記録されています。日本書紀は720年に完成し、最終編纂者となったのは藤原不比等でした。中大兄皇子とともに蘇我氏を滅ぼし、権力を奪った藤原鎌足の嫡男こそ藤原不比等です。不比等は藤原鎌足の正当性を強調するために、蘇我氏を悪人として描写し、蘇我氏により死に追いやられた山背大兄王の、その父・厩戸皇子をことさら聖人として描いたと言われています。
 
そこで、「十七条憲法」も聖徳太子によるものではなく、日本書紀の執筆者によって制作されたものではないかとも言われているのです。たとえそれが真実であったとしても、十七条憲法の内容は、厩戸皇子の神仏に捧げた心情が天を動かし、執筆者や編集者に働いて書かせたものと言えると私は思っています。
 
日本書紀を読み解くと、仏教伝来から始まる神様とサタンとの激しい霊的抗争の狭間で、厩戸皇子は神様を感動させる精誠を立てたことが分かります。その精誠により、サタンに操られる藤原不比等が、藤原家にとって有利なように編纂した記述の中に、神様は天の秘策を隠すことができたと思うのです。
 
だからこそ、日本書紀はその後の歴史を動かす啓示の書となりました。聖書に記録された人類始祖に関する記述が、蕩減となり歴史を動かし、同時性を展開させていくように、聖徳太子と息子・山背大兄王の辿った路程が、徳川家康の運命を動かし、西郷隆盛の運命を動かす原点となっていたということです。
 
東洋宗教の粋を結集した十七条憲法
 
日本書紀によると聖徳太子こと厩戸皇子の精誠の一部がかいま見れます。
 
蘇我馬子は手にした強大な権力のもと、他国に対抗できる器を持つ天皇を立てるために、厩戸皇子に絶大な期待を寄せました。595年、高句麗の僧・慧慈(えじ)、及び百済の僧・慧聡(えそう)が来朝し、厩戸皇子の仏教の師となりました。さらに、ペルシャ人との説もある覚袈(かくか)が、外典である儒教、道教、景教、バラモン教の師となったのです。
 
厩戸皇子は特に慧慈の協力のもと、すぐれた師たちとともに十七条憲法を作り上げたことになるのです。いうなれば、東洋の宗教思想の粋を結集したということです。これらの宗教は、イエス様生誕の数百年前から、神の真理を携えてくる神のひとり子を迎える霊的環境整備のために興されたものと言えます。人類始祖堕落以降、その罪の蕩減のために歴史上為されてきた大命題が、アベルの立場とカインの立場に和をもたらすことでした。神様に信仰を立てたアベルの愛によって、カインが従順屈服することにより、メシヤを迎える為の基台ができます。
 
この和の思想を第一として定めた十七条憲法こそ、人類の歴史的課題を解決に導く奥義を秘めたものとなったと思うのです。十七条憲法の現代語訳の第一条、二条、三条と第十四条を次に掲載します。
 
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第一条
一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことに従わなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
 
第二条
二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。
 
第三条
三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。
 
第十四条
十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。
 
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第十四条に「1000年の間に一人の聖人の出現を期待する」とあります。十七条憲法は、日本が民族として国家として、救世主の到来を待ち望むものであったのです。
 
それがメシヤを迎える為の基台であると言えるのは、次の厩戸皇子の行動から読み取れるのです。厩戸皇子は、蘇我馬子が立てた推古天皇を、仏教の勝鬘経で教育しようとします。勝鬘経とは、インドの一国の王妃である勝鬘夫人が釈尊の前で大乗仏教の教えをとき、それで正しいと認めた筋書きになっているのです。厩戸皇子は女性としての仏心を伝えようとしました。それは天皇家に、神仏を受け入れる血統の伝統を立てるためであったのです。もちろん、メシヤを誕生させるなどという基台ではありません。
 
厩戸皇子は用明天皇と穴穂部間人皇女を父母として574年に生まれました。皇女が宮中を見回り中、厩戸の前にさしかかったとき、陣痛もないまま産み落としたことから、この名前がつけられたという説があるのです。馬小屋で生まれたイエス様を想起させますが、十七条憲法からみると、イエス様を証する立場の洗礼ヨハネのような使命を、未来に残す役割を担ったと思われるのです。
 
日本においては国造りの最初に、メシヤを迎えるための基台を造る重要性を説いていたのです。藤原不比等のもとで、藤原氏の権力の正当性を強調するように命じられた編集者・学者たちが、知ってか知らずかはともかくも、藤原不比等による偽りの歴史書の中に、絶対消してはいけない神様の足跡を記したのです。
 
しかし、すべての日本民族の心から「メシヤを迎えるための基台」は消しさられ、「和をもって尊しとなす」という第一条だけが日本民族の心奥に刻み込まれました。それが、お父様が語ったところの人道主義世界を日本に現出させてしまったのではないでしょうか。
 
「日本の歴史の秘密を暴露すると、人ではありません。人道主義世界では、共同墓地に生きたまま埋められなければならない輩たちです。」(文鮮明先生御言選集455巻より)
 
日本民族として生まれた私たちの、心奥に刻みつけられた人道主義を払拭し、お父様直伝の神主義を貫き、真の愛の心情を培ってこそ、母国として育まれた日本民族の真の価値が発揮されるのではないでしょうか。
 
次の記事では日本に「十七条憲法」が制定されるようになった経緯を、イエス様の十字架以降、キリストの愛が世界的に広まっていく観点から見ていこうと思います。
 
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