福田和也『近代の拘束、日本の宿命』p263-4より

明治37210日、岡倉天心はセントルイスで開催される万国博覧会で公演するため、横山大観らの画家を連れて、横浜港で伊予丸に乗船した。

この日は仁川港外で、日露戦争の火蓋が切られた日。

出向前に、伊藤博文が激励に駆けつけた。

その演説がいい。

「これから諸君が渡って行かれようとする太平洋には、露艦が頻りに出没するという噂だから、たとえ商船とはいえ、この船が無事シアトルに到着し得るや否や、はなはだ心もとない次第である。

・・

不幸にしてこの船が太平洋の藻屑となるような日があったら、その時には伊藤のしかばねも朝鮮半島の土と化しているかもしれん。

いずれにしても、我々はみな皇国の民草でる。

有史以来の大国難に処して、生くるも死ぬるも、日本人としての真骨頂を発揮することを忘れないように」。

「我々はみな皇国の民草である」。

この気持ちが、伊藤をはじめ明治のエリート達の心にはあった。

この気持ちで、日本人と日本は一体だった。

制度や政策も大事かもしれないが、人も国も、所詮は生きる意欲ではないか。

やたらと国難、国難というが、もし本当の国難があるとしたら、この一体感を取り戻す以外に解決策はないのでは。

あるいは、本当は、日本に国難などない。

政治家や、メディアが、話題を作るため、つまり、飯を食うために言っているだけではないか。

むー、まあ、そんなことはないか・・・。