僕は言語能力がない。
それでも今まで生きてこれたのは、視覚能力があったからだ。
言葉で判断するのではなく、視覚的イメージで判断してきたのだ。バタバタと足音が聞こえるイメージは危険。脳みそが焼けるような匂いは病気。でも本当は、イメージは記憶されない。子供の頃見ていた世界は、今思い出す子供の頃の世界とは全く違う。明らかに子供の頃のイメージの方が、新鮮で驚きに満ちていた。生命は何の躊躇もなく瞬間から瞬間にうつり過ぎていった。未来にやるべき義務もなく、計画することもなく、したがって、今行動していることは、過去の計画に従って行動していることではなかった。その瞬間瞬間に立ち現れるイメージに従って、その瞬間瞬間に行動していただけだ。そこには言語が介在する余地はなかった。
小学校3,4年生と年齢を重ねるにつれて、言語能力が育っていくにつれて、私の中で言語とイメージが分離していった。やがて言語が主導権を握り、私に行動を命令するものとなった。もう一方の私は、奴隷となったのだ。しかし命令するものは、決して行動することができない。従って、王はますます欲求不満になり、暴君と化していくのであった。一方で奴隷は、自らの自由意志で行動することができなくなったため、やがて命がけのハンガーストライキを始めるに至った。
分裂状態はこのように、生命を停滞させ、自滅的無感動を誘発させる結果となった。そこから脱却するためには、行動自らが、何の躊躇もなく、理性を働かせることもなく、イメージのままに行動することを取り戻すしかない。そのためには、今度は新しく、分裂した自己を統合する為に、自らを訓練し直さなければならない。それは、自然状態で既に獲得していたイメージを復権させることであり、そのために、言語的命令に従わないことである。
そのようにして私は、子供の頃に実感していた生き生きとした瞬間を、取り戻してみたいと思う。
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