幕末維新力士伝(21) 衝撃・小柳殺し | 星ヶ嶺、斬られて候

幕末維新力士伝(21) 衝撃・小柳殺し

それは文久2年(1862)春は4月(初日は3月)の場所中のこと―。

七日目を終えて大関・雲竜(横綱免許)に「負けず屋」陣幕(前頭2、後に横綱免許大関)を破って4勝2預かりと意気軒高たる肥後藩抱えの小柳平助(前頭3)の身を襲った悲劇についてお話しませう。



星ヶ嶺、斬られて候 <小柳平助。小柳の名乗りは多くの名力士が用いた>




小柳は文政13年(1830)、肥後熊本(熊本県熊本市)の生まれ。

まずは大坂相撲の湊(10代、元横綱免許・不知火)の下に弟子入りをし鬼鹿毛の名で初土俵、嘉永7年(1854)2月、江戸の阿武松のの門下へ移りました。

時に阿武松(2代)は現役の大関・小柳常吉(2010年4月の記事参照)でしたが、その小柳が安政5年(1858)に没すると、その跡は元二段目17(幕下に相当)・松ヶ枝の千賀ノ浦(3代)が継承しました。


鬼鹿毛は雲生嶽(くもおだけ)の四股名で二段目に登場し、万延元年(1860)10月に恩師の名の小柳の名乗りで入幕を飾ります。

そして文久2年4月、入幕4場所目での快進撃に俄然、好角家の注目を集める存在となったのです。


七日目と言うのは、強豪・陣幕を破った日のことで、時に4月の14日。

同じ肥後藩抱えで大関の不知火光右衛門(後に横綱免許)はこの陣幕とはすこぶるあいくちが悪く、これまで7敗2分けのニクい奴(最終的には13敗2分け)。

その陣幕に勝ったとあって日頃から傲岸不遜の小柳の鼻はますます高い。


夜も更けて、贔屓筋との酒席から肥後藩抱え力士が定宿としている本所一ツ目(井筒部屋の至近)の船宿・下総屋(上総屋?)に帰った小柳でしたが、その時、間が悪くまだ起きていて酒を飲んでいたかバクチに興じていたのが殿(しんがり)峰五郎と不動山藤蔵(岩吉)の二人でした。

これを見た小柳は酔いに任せて膳を蹴るやら口汚く罵るやら―。


不動山は小柳と同じ肥後出身、大坂・湊門下で時に三段目2枚目(最高位)。

殿は常陸(茨城県)の出でしたが、不知火の前名を引き継いで時に二段目(最高位は二段目23)。

殿と小柳の間には女性を巡るトラブルがあったとも言ひますし、あるいは二人と小柳の間にバクチのもめごとがあったとも―。

いずれ元々、小柳のことを快く思っていなかった二人の堪忍袋の緒が切れました。


二人は手に手に匕首(あいくち)を持って2階で寝ていた小柳を急襲、剣術の心得のあった小柳は抵抗を試みるも相手が二人ではいかんともし難く、ついに左脇腹と腋の下に深手を負い、16日に不帰の客となりました(享年33歳)。


もとよりこの場所は雨続きで不入りであった上に、変事の出来(しゅったい)―。

結局、場所は九日目まで取り進んで中止となってしまいました(当時は十日制)。


小柳を襲った後、脱兎の如く逃げ出した不動山と殿はどうなったのか―。


殿はその後、自首、あるいは捕えられ、獄中で死んだと伝えられています。


一方の不動山は大坂の知己の寺へ逃れ、潜伏の後、北海道へ渡ったとか―。

また一説には下野(栃木県)に潜伏している所、元治元年(1864)に水戸藩尊攘激派の天狗党が挙兵、太平山(栃木市)に籠ったのでこれに参加、幕府に捕えられて処刑されたとも言われています。


天狗党は太平山から常陸に戻り幕府追討軍と戦いを展開、さらに長駆、京都を目指しますが、12月、ついに越前敦賀(福井県敦賀市)で降伏しました。

この時、なお823人の水戸藩士や農民、他国者がおり、うち352人が死罪に―。

「幕末維新全殉難者名鑑」には何人かの゛藤蔵゛を載せていますが、いずれも常陸の農民となっています。




星ヶ嶺、斬られて候 <大阪・四天王寺の無縁墓塔群に埋没する小柳平助の墓>