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家につく頃には、時刻は午後六時近くになっていた。
特に門限のようなものは無いのだし、あったとして六時程度なら普通は大丈夫な気もするのだが、自分で言うのもなんだけどわたしは父と母に過剰に愛されているし、わたしも父と母、そして双子の妹弟を過分に愛しているので、できるだけ心配をさせたくない。だから出来る限り六時までには帰るようにしているのだ。今日も無事、ぎりぎり六時までに帰って来れて一安心。
わたしは木でできた扉の、金属製の取っ手に手を伸ばした。
触れる。掴む。そして下に回す。
ぐぐっ。
ん?
そしてゆっくりと押す。
ぎぎっ。
んんっ?
鍵が開いている。
扉が開かれ、玄関が姿を現す。いつものように、きれいに並べられた父母の靴と、散らばった弟妹の靴、玄関の大きさに不釣合いな小さな靴箱と、その横にあるぬめっとした感触の傘立て。
わたしは後ろ手に扉を閉める。
なんだかいつもと違う感覚。錯覚。
「ただいま」
普段より少し大きめの声で言ってみる。奥のほうでカタカタと何かが動く音がした。
ほっと息を吐く。
なんだ。いるんじゃないか。
靴を脱ぎ、玄関のそばにある自室にカバンを投げると、わたしは家の奥へ歩いていく。
人の気配がする。テレビの声が聞こえてくる。
わたしはまたふぅと息を吐いた。玄関に鍵を掛け忘れることなんてよくあることだ。どうして悪い想像をしていたんだろう。
最初静かだったのも、もしかしたら弟妹と一緒に昼寝でもしていたのかもしれない。それもよくあることだ。別にどうということはない。
廊下の先にリビングへの扉がある。玄関の扉を二周りくらい小さく、華奢にしたような扉だ。わたしは取っ手を掴み、素早く扉を押した。
がちゃんという音が聞こえた。
目の前で、父が血まみれの母を抱きかかえていた。
かちゃんと脳内で何かが割れる音がした。
つんと生臭い臭いが突如わたしの鼻を突き刺してくる。
はぁはぁと荒い息遣いが鼓膜を震わせている。
視界のピントがぐるぐると、どこにも合わせられずに彷徨っている。
だが時が経つにつれ、それらは少しずつ正常へと舞い戻ってきた。嗅覚も聴覚も視覚も、落ち着こうと無理に稼動する。
そして、落ち着いた目は、あるものを捉えた。
母を抱きかかえる父の手。袖が引き裂かれたスーツから伸びる、灰色のごつごつした腕。
まるで岩のような、無機質な腕。
「・・・・・・」
わたしが無言で腕を見ていることに気付いたのだろう。父は母を抱きかかえたままふらふらと立ち上がると、力なく笑いながら・・・・・・唇を噛み締めて
母の顎に勢いよく噛み付いたように見えた。
ぐちゃと母の首は折れ、ごろりと頭が床に落ちた。
信じられない光景だった。
窓から差し込む光が部屋を真っ赤に染めている・・・・・・のだと思っていたが、部屋は実際に真っ赤に染まっているということにわたしは気付いた。
「・・・・・・お父さん?」
わたしの声に父はまた辛そうに顔を歪めたが、ぎっとわたしを睨みつけると、ごつごつとした腕を床に向かって振り下ろした。
バリバリバリっと床が割れる。どんな大地震にも耐えられるというキャッチコピーの一軒屋の床に、大きな穴が開いた。
「えっ・・・・・・えっ?」
とすんとわたしは腰を落とした。正確には、腰が抜けた。肉体的にも、精神的にも、色々限界が訪れていた。
意味が分からない。何が何だか理解できない。
「どう、いうこと?」
父はわたしの言葉には答えず、灰色の腕に嵌められた腕時計のようなものを見てからきょろきょろと周りを見回すと、「まだか」と呟いた。
「・・・・・・しょうがない」
そんな声が聞こえるやいなや、父の手がわたしの首を掴んだ。ぐぐっとわたしの身体が持ち上げられる。苦しくは無いが、不安定で落ち着かない。
父はわたしを持ち上げたまま、窓際まで進んでいくと、わたしを掴んでいないほうの手でバリンと窓ガラスを割った。破片が飛び散り、父の頬を傷つけた。
父の頬からは、真っ白な液体が流れていた。
「・・・・・・お父さん、じゃない?」
わたしがそう言った途端・・・・・・父の頭に何かが刺さった。窓の向こう、外から飛んできた何かが、父の頭を貫いた。傷口からしゅぱんと白い血液が吹き出る。父は咄嗟にわたしを放り投げた。
わたしは宙を浮き、手をバタつかせながら、真っ二つになっていた大きなソファの上に落ちた。
「うっ」と痛みに声が漏れる。ソファの破片が足を傷つけていた。だが、まぁ、床に落とされるよりはマシだろう。そんなことを思いながら、わたしは顔を上げた。
目の前で、父が水平方向に飛んでいった。
「ほえ?」
何だかよく分からない声が漏れる。父はそのまま台所まで突っ込んでいった。がちゃがちゃんっとびっくりするくらい大きな破壊音が響いた。
わたしはゆっくりと、窓のほうに目を向けた。
そこには人が立っていた。
金髪の少女だった。
夕日に照らされて輝く、綺麗な少女だった。すらりと長い手足とさらりと長い髪が、大人びた印象を醸し出している。ヒラヒラとした服装が夕日を照り返してピカピカと輝いている。
少女はわたしを一瞥して早足で近付いてくると、わたしの胸倉を掴んで持ち上げ、ソファから床に移動させた。
「少し、下がっていて欲しい」
「あ・・・・・・はい」
よく分からないが・・・・・・助けに来てくれた?
がちゃんっとまたしても大きな音が鳴り、台所で父が立ち上がった・・・・・・いや、もうそれは父ではなかった。
ごろごろとした岩の化け物と化していた。辛うじて顔だけが父である。
「・・・・・・お父さん、なの?」
「あれはあなたの父ではない」
わたしに背を向けて、金髪の少女はそう言った。
「顔が残っているということは擬態型。しかも『オクトバー』。初めて見るタイプだ」
「?」
何を言っているのだろう。
「よって、容赦はしない」
そう言った少女の両手には、忍者みたいな人がよくつけているイメージの・・・・・・鍵爪のようなものが装着されていた。爪の先がギラギラと鋭く光っている。
「ちょ、ちょっと待って」
つい私は少女の細い足を掴んでいた。
「それで・・・・・・お父さんを殺すの?」
「・・・・・・あれはあなたの父ではないと言った」
「じゃあ・・・・・・あれは何なの?」
「あれは・・・・・・詳しい説明を今は省くが、簡単に言うならあなたの父に成りすましているものだ。あなたの父は・・・・・・」
少女はちらりと、周囲に目を配った。
「おそらくそこらにある肉片のうちのどれかだろう」
少女はそう言うと、無理矢理わたしの手を振り蹴って走り出した。両手を真横に広げ、父の顔をした何かに駆け寄っていく。
父の顔は悲しみのようなものを浮かべていて、それでも何かを悟ったような・・・・・・よく分からない表情をしていた。
「覚悟」
少女の声が耳に届く頃には、父の顔のそれはいくつにも刻まれてしまっていた。
ぼたりぼたりと、見た目の質感とは異なる生々しい音をたててそれは床に落ちた。
「・・・・・・」
声が出ない。ただ、ぱくぱくと口が魚のように動いている。
そんなわたしの目の前に立ち、金髪少女はそっと手を差し出してきた。
「起きれる?」
何も言えなかったので私は目を左右に動かした。少女はそれでわたしの気持ちを察したのか、少し外を見たあとわたしの隣に座った。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
無言。少女は何も言わなかった。
「・・・・・・・あ」
声が出た。途端、ぼろぼろと涙が目からこぼれ、ぶるぶると身体が震え始めた。
そして、実感した。父も、母も、弟妹も、いなくなってしまったのだと。
「うぅぅうぅうぅ」
泣きじゃくるわたしの隣で少女は何も言わずに座っていたが、数十分してわたしが泣き止むと、すくっと立ち上がった。
「・・・・・・立てる?」
そう言ってまた手を差し伸べてくれた。
「・・・・・・立てない」
「そう」
「立たせてください」
「分かった」
わたしが手を出すと、少女は力いっぱい引っ張り上げた。ぐぐっとわたしは立ち上がらされた。
並んでみて気付いたが、少女はわたしと身長自体はそんなに変わらないように思えた。ただ、大人びた雰囲気なので大きく見える。
「・・・・・・あなた、何者なの?」
「魔法少女」
わたしの問いに、少女は慣れたようにそう答えた。