私は、2010年の3月ごろから、歌を聞いて東方神起にハマりました。
4月に東方神起が活動休止になりましたが、
その時はあまり分かっておらず、
ずっと応援し続けているカシオペアやビギストの皆さんの
苦しみを知らないトンペンです。
でも、先輩ペンからDVDなどを借り、彼らの魅力を知るほど、
彼らの歌だけでなく、彼ら5人が大好きになりました。

東方神起は、唯一無二のアジア最高のグループです。
日本で、ジャニーズの牙城を崩して、トップ男性アイドルグループとなり、
さらに、アーティストとして進化し続ける存在でした。
その奇跡を起こしたのは、5人の才能と、根性と、誠実さであると思います。

アイドルと言うのは、消耗品。
短命で消えてなくなるのが宿命という定説も、
彼らなら、覆してくれるのではないかと思っていました。
今は、5人の東方神起としての活動が休止され、危機に陥っています。
だからといって、5人の活躍が終わったわけではありません。
JYJと、2人の東方神起に分かれての活動ですが、
この5人なら、アイドルとしての宿命を破り、
新しい歴史を作るのではないかという夢をつないでくれているように感じます。

5人それぞれが魅力的で、一人を選ぶことは難しいですが、
私はユチョンの笑顔に惹かれ、
ロッテプレミアイベントで間近で拝見したこともあり、
すっかり、ユチョンの魅力にはまっています。

ユチョンは、ドラマ『成均館スキャンダル』で、
新たな才能と、努力と誠実さを見せてくれました。
このドラマは、他の俳優陣もお気に入りばかりで、本当に楽しみました。
突然日本での活動休止が発表され、
もう歌声が聞けないかもしれないと思ったJYJも、
このドラマでだけは、OSTとして歌声を聴くことができ、
癒された思い出があります。

このドラマで、ユチョンは、これまで韓国では見られなかった
20~40代のファンを獲得しました。
韓国では、アイドルを追いかけるのは10代のみ。
ところが、『成均館スキャンダル』で魅せた
俳優パク・ユチョンの魅力は、
コンサートに行くことのなかったファン層を、
あの極寒のコンサート会場へ誘ったようです。

韓国のアラフォー女性が書いた記事を見つけ、共感したので、ご紹介します。
韓国での東方神起への一般的な評価も感じられる記事だと思います。

**** Oh Mynewsより(2010.11.29付) ****
ぼろを纏ったミッキー・ユチョン、近くで見ると
【JYJ初のコンサート観覧記】
おばさんファン、アイドルのコンサートに行く


事件の発達は、100%『成均館スキャンダル』だった。
<東方神起>というアイドル グループの存在は認知していたし、
その中にミッキー・ユチョンがいるという事実も分かってはいたが、
顔は分からなかった。
ただし、最強、英雄など漢字称号を使う他の人々と違い、
ミッキーという英語の名前を、
それも<미키>でなく、<믹키>と使ったので
気に入らないという感じだけが、かすめたにすぎない。
外来語表記法の誤りではないかという考えのためだった。
パク・ユチョンという人物を初めて'発見'したのは、ドラマの中であった。
そうだったため、グループ東方神起で'깨방정'担当(?)と呼ばれる彼の、
端正で高尚な演技を、何の偏見なしに、見守ることができたのかもしれない。

パク・ユチョンが演技したイ・ソンジュンの姿は、私に希望を与えたし、
まっすぐな'선비'(学識が高く高潔な人)にならなければならないという
人生の目標まで提示してくれた。
ドラマのキャラクター一つに、
何がそんなに大きい意味を付与するのかと言いますが、
決して冗談で言うのではない。
パク・ユチョンが見せたイ・ソンジュンは、品格あって優雅でありながらも、
男性的魅力まで整えた'선비'(学識が高く高潔な人)であった。
その上、原則を守るのは合理的な行動というものも、
説得力あるように演技していた。

原則と礼儀でなければ実行しないイ・ソンジュンの姿からは、
ただ一度も世の中が定めた枠組みを抜け出してみたことのなかった、
幼い時期の私の姿が重った。
そんなふうに生きたので、
"君のような人だけいれば世の中が本当につまらない"という声も聞いた。
だが、イ・ソンジュンの真心と、剛直さ(信念を曲げない強い姿)は、
他人に信頼を与えたし、万人が手本とする基準になった。
決して自由な魂になれない私に、たくさん努力するべきだが、
原則通り生きても、あのようにすばらしいこともあるという希望を与えた。

不惑を控えた年齢、アイドルに陥る

私とはドラマを見るコードが本当に違う、二十年来の親友がいる。
世の中をつまらなく生きているという評価が面目を失わないように、
ドラマも分析しながら見る私とは違い、
友人は軽いロマンチック・コメディを、頭を冷やす休息用で楽しむほうだ。
それで常に好むドラマが違ったが、
今回は友人が『成均館スキャンダル』にすっかり見入った。
私より自由な魂の私の友人は、
もちろん'コロ・サヨン(ユ・アイン様)'に陥っていたが。

その友人が斎戒沐浴(身を慎み保つこと)までして、
光の速度で、狂ったようにクリックしたおかげで、
私たちは、11月27日午後7時にするグループJYJの公演を良い席で、
予約することができた。
(韓国のコンサート・チケットは、座席を指定して買う仕組みなんです。)
グループJYJは、ミッキー・ユチョン、シア・ジュンス、
ヨンウン・ジェジュン(ハングル字順配列)、三人が作ったグループだ。
キム・ジェジュンとキム・ジュンスには本当に申し訳ないが、
私には'パク・ユチョン'を見に行く公演だった。
ところが、公演まで追いかけて行くおばさんファンは、
私たちだけではなかった。
いとこ姉さん1人、姉さんの同僚一人も同じ公演を予約した!

十代の頃、人気歌手コンサートに一度行ってみたことはなかったし、
歌謡順位番組で出てくる悲鳴を理解して見たこともなかった。
アイドル歌手というのは、
大型企画会社で鯛焼きを刷り出すように作り出す商品、
歌唱力ある歌手らの立つ場所を失うようにする存在、
"悪貨が良貨を構築する"という格言を全身で見せる存在、
これが私が持ったアイドルに対する偏見だった。
バレエ、ミュージカル、オペラ、唱劇は最も良い席で鑑賞してみた経験があるが、
それよりさらに高い費用を、アイドルのコンサートに一度に注ぐという事実が、
なぜか堪え難かった。

だが、シェークスピアが英文学教科書に載るために作品を書いたのか?
徹底して大衆の嗜好に迎合した戯曲台本、
演劇舞台に上げるための通俗劇台本を書いただけだった。
皮肉にも、そのような作業の中で歴史に久しく残る珠玉のような作品が誕生した。
他の芸術ジャンルにも、こういう例はありふれている。
現在は安モノ大衆文化に過ぎなかったが、未来には不滅の古典になった例は、
多くの国の歴史の中に、無数に多い。

アイドルスターと彼らのファン層は、1990年代頃に始まった社会現象の中の一つだ。
遠い将来、韓国史は20世紀末~21世紀初めの文化現象で
"大型企画会社が作り出したアイドル グループの隆盛"という内容を記録するのではないだろうか?
そのような'歴史的現象'に対する深い理解のために、
コンサート現場を直接見るのも意味があるんじゃないだろうか?
私の偏見と違い、最近のアイドルは、容貌と歌唱力を備えた場合も多いのではないか。

この寒い日あんなにボロを着て....風邪引いたら、どうするんだろう?
(↑薄い衣装という意味だと思います…)

いよいよ11月27日土曜日、コンサートの日がきた。
場所が蚕室(チャムシル)オリンピック主競技場なので、
ほとんど1時間前に現場に行った。
一人立ち以後初めてのコンサートなので、
能力ある企画会社を交渉するのが難しかったのか?
未熟な現場進行で公演予定の時刻、午後7時よりも、
ひとしきり後に予約した席に入ることができた。
いとこ姉さんの助言で準備して行った膝毛布を座席に敷いて、
暖かく座って公演を待った。
公演は1時間も遅れた8時に始まった。

公演を待つ間、友人は私にこういう話を聞かせてくれた。

"昔、蚕室(チャムシル)主競技場でエルトン・ジョン公演を見たことがあって。
その時は遠くにあるスタンド席で、前にぶらさがって見たのに、綿棒のように見えたよ。
エルトン・ジョンがどこにいるのか、ぜんぜん分からないの。
今日は良い席だから、少なくとも、彼らは割りばしくらいには見えるかな。"

生まれて初めてアイドルの公演を見た。
現代デジタル文明の総合を、目の前に広げられたようだった。
舞台あちこちに配置されたスクリーンは適切に移動しながら、
時には公演に似合う背景を、時にはこれらの公演の姿を照らしてくれた。
(↑そうそう! 舞台上のスクリーンって、可動式のものもあったんですよね。)
きれいな姿の美男子らが作り出す夢の中のような世界、
多様な年齢帯の女性ファンらがアイドルに熱狂するのはこういう理由のためであろうか?

ダンス歌手とだけ知っていたが、
この日歌った曲のうち、いくつかはやわらかいバラードであった。
パク・ユチョンが寒さに震えて、展覧会の'酔中本当の話'を、
ピアノとギター伴奏に合わせて歌った姿が記憶に残る。
キム・ジュンスが直接作曲して、三人が共に歌った'落葉'という曲も甘美だった。
『成均館スキャンダル』のOST曲を歌う時は、
管弦楽団の弦楽伴奏が付け加えて新鮮な感じもした。

だが、この日聞かせた曲の中で最も意味深長だったのは
'Pierrot(ピエロ)'という新曲だった。
これは、誰が聞いてもJYJがSM企画に言いたい言葉を込めた歌であった。
私たちは人形でないと、これ以上干渉するなと、
自由に飛んで行きたいと、さようならと言っていた。

両者の話を皆聞いてみたこともなく、
三人が脱退した当時の記事を関心があるように読んだこともなくて、
誰が正しくて、間違ったかを評価することはできない。
だが、芸能人らの奴隷契約問題が社会的問題になったことがあったし、
大型企画会社らの不公正契約問題で沸きかえったこともあったので
一般人の目には歌手らが弱者と見えるほかはない。

紛争は終わっていないようだが、
彼らはより一層確実な決別宣言を歌に込めていた。
大型企画会社とこれらの葛藤が、
今後どのように展開して仕上げされるのか気がかりだった。

基本的なビジュアルから素敵な彼らなので、
彼らのダンスも、彼らが作っていく舞台も魅惑的だった。
だが、痛ましい思いが離れようとしなかった。
男性アイドルの音楽と商品を消費する絶対多数が女性であるからか、
この寒い天気にボロを着た(?) 姿で、
長くいなければならない状況が不憫だったせいだ。

ああして風邪引いたら、どうするのか?
この寒い天気に歌を歌って、のどを痛めたらどうするのか?
彼らも人権を持った存在で、
暖かくて快適な環境で勤める権利があるのに….
それでも最後の曲を歌う時、
全身をかばった白いトレーニング服を着て舞台に出てくると
それさえも、あまりに寒そうで、まだ気持ちを解消できなかった。
アンコール曲がなかったことは寂しかったが、
この子らも寒いでしょうから、
早く入って休まなくちゃという考えが先に働いた。

新しいアイドルJYJ,生き残りを...

公演が終わって家へ帰るバスの中で、いとこ姉さんと通話をした。
姉さんはこういう話をした。

"ジュンスが『I Can Soar』を歌う時、心が痛かったよ。
アイドルは寿命自体が短いじゃない?
大人気を呼んだアイドルグループもみな消えたことを見れば、
彼らは所属会社と決別して新しいグループを作って、
今は、HOTやジェクスキスのように消えるか、
でなければ生き残るかという岐路に立った状況だよ。
そうして、あんなに切々とあの歌を歌ったのかな。"

キム・ジュンスが『I Can Soar』を歌って、
自分たちの願いを込めたと話したことを思い出した。
soarという単語の意味のように、
新しいグループと共にまた飛翔したいという意味だったみたいだ。
アイドルグループJYJは、時代の流れと大衆の嗜好を正確に把握して、
ずっと大衆の愛を受けるスターとして、残ることができるだろうか?
でなければ、企画会社が育てたアイドルグループの限界を抜け出せないまま、
他の捨てられたアイドルの短命な後続グループのように消えていくのか?
まだ判断しにくい。

アイドル文化が1990年代に始まったので、すでに20年歳月が積もった。
それだけアイドル歌手らも進化して発展してきた。
深さがなくて、扇情的であり、芸術性もないと評価されたアイドルグループでも、
シェークスピアのように、過去の多くの大衆文化のように、
芸術性と作品性を認められる人々が出てくる時ではないかと思う。
グループJYJが、未来にも認められる大衆文化の古典になれるか、
さらに長時間後の他のアイドル グループを待ってみるべきか、
これらの未来を期待してみる。