本尊の返却を求めるのは教えに反する ちび丸vsデカ丸
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48 名前:ちび丸:2007/11/01(木) 20:07:49 ID:dWPBzMBR
「本尊とりかえし」の件は結局アンチから何の反論もなく前スレは終了しました。
「本尊の返却を求めるのは教えに反する」という根拠は何もない、ということで
決着したわけです。
というわけで、このスレでは「盗作」ということについて
教学上、的を得た非難なのかどうかハッキリさせたいと思います。
73 名前:デカ丸:2007/11/01(木) 23:11:02 ID:eSdw3edx
こんばんは。デカ丸と申します。
現役の学徒ですから、ちび丸さんとは立場が違います。悪しからず。
私も勝手に仏教の勉強をしている、不良学徒です。
(活動には殆ど参加していません…^^;)
ちび丸さんの本尊論には、半分賛成、半分反対というところでしょうか。
反論があれば、よろしくお願いします。
(アンチからの反論が無かった、なんていうのは、学徒の私から見てもウソですよ。
いくつも挙がっていたではないですか。こういう書き方は誤魔化しに見られるのでや
めた方がいいですね。老婆心ながら)
まず、弟子の義定については、有ったであろうというのが、私の立場です。
だから、蓮位房は、間違っていない。
しかし、親鸞聖人が本尊を返すように誓約書を書かせたという事実は無かったと思
います。
おそらく、当時の仏教の常識として存在したということであって、書面に書いて残
すようなものでは無かったのでしょう。
74 名前:デカ丸:2007/11/01(木) 23:11:49 ID:eSdw3edx
しかし、教団にいる立場の者が、離れたものに、返すように要求するのは、教えに
反すると思います。
なぜなら、親鸞聖人が、本尊を取り返してはならない、と仰っているからです。
つまり、そのように親鸞聖人が仰った時点で、それが浄土真宗における正しい姿だ
と結論が出たのですから、それ以降においては、そのお言葉に従わねばなりません。
例えば、親鸞会を退会する人が、本尊を返さなかったとします。
それを、高森先生にお尋ねした結果、「本人が返さないなら、取り返す必要がない」
と仰ったとします。
にも関わらず、退会者から取り返そうとする学徒がいたら、おかしいですよね。
しかし、すでにこれは800年前に、親鸞聖人が答えを出してしまわれたので、今
さら高森先生に伺うまでもなく、取り返しに行く必要はないと思います。
結論として、
退会者が、本尊を自主的に返す → ○
本尊は、本来、退会するなら返すべきだと教える → ○
退会するなら、必ず本尊を返すよう誓約させる → △(かなり×に近い)
退会者のところに、本尊を取り返しに行く → ××
ちび丸さん、いかがですか?
109 名前:デカ丸:2007/11/02(金) 12:34:24 ID:0NvOqeRH
>>91
>
>「弟子の義定があった」ことについてはちび丸さんと意見が一致しています。
>今後ちび丸さんと意見を交わすなかで出されるかもしれませんが、
>デカ丸さんの「弟子の義定があった」とする根拠を教えていただけないでしょうか?
ちび丸さんが、弟子の義定は仏教の常識だ、というような趣旨の発言をしていますの
で、それが事実とすれば、親鸞聖人のお弟子の間でも、同様の認識があったであろう
と推察しています。
ところで、ちび丸さんに質問なのですが、弟子の義定というのは、一切経のどこに根
拠があるのでしょうか?
といいますのも、当時の仏教界は、教義が形骸化し、お釈迦様の御心を正しく伝えて
いなかったと考えられるからです。
つまり、弟子の義定が仏教の常識だとしても、それが本当にお釈迦様の御心に適った
掟かどうか分かりません。
本尊を返すことによって、どのような真実が明らかになるのでしょうか?
それを知らなければ、返却する意味がないと思います。
お釈迦様が、どのような御心で、このような義定を作られたのか。
一切経のどこに根拠があるのか?
ご教示よろしくお願いします。
>また「弟子の義定が有った」ということは親鸞会の公式見解なのでしょうか?
>会員さんは講師の方から教えてもらっているのでしょうか?
活動にほとんど参加していないので、分かりませんが、講師の方からは聞いたことが無
いと思います。
549 名前:ちび丸:2007/11/08(木) 19:25:29 ID:/hYUZ1X+
>>538
>この発言が書き込まれて以来、ちび丸さんは影を潜めてしまいました。
>反論できないということでしょうか?
>それとも会員であることが認定されてしまって、出てこれないのでしょうか?
たまに見てるけど書いてあることがつまらんし、勉強にもならないんでね。
アンチがいう「反論」というのは
名無しの責任とれない、逃げ腰の発言か
「根拠をあげろ」「根拠にならない」のくり返しかないじゃんか。
今頃やっと改邪鈔随筆買って読んでるんだ。
相手が根拠をあげたら、初めて調べて、でたらめの解釈して反論する。
ジャンヌのころからのやり口なんだよね。飽きちゃった。
論議に値することを誰かが勉強して書いたら、またなんか書くかも。
これだけ書いてるの読んでも誰の流れの教学かもわからないんなら
勝手に会員だと思ってればいいじゃん。
私の書き込んでるの時間帯は、夜の御法座がある時間帯だから
M野講師も説法中の時間帯が何回もあったはずだが
「M野講師であることは明らか」だって。バカじゃんか。
日曜に書き込んだら「あまり熱心じゃない会員」だってことだし
多分また日曜に書き込んだら「管制部」なんだろ。
私にとっては興味のないことなので勝手にやってください。
550 名前:ちび丸:2007/11/08(木) 19:40:55 ID:/hYUZ1X+
改邪鈔のお言葉は意味を考えず「お言葉とおりにするのが正しい」という方々は
よく読んでください。
「いかなる山野にもすぐさぬ聖教をすてたてまつるべきに
や。たとひしかりといふとも親鸞まつたくいたむところにあらず、すべからく
『よろこぶべきにたれり。』」
御聖教を野山に捨てることは祖師が喜ばれることだそうです。
アンチ諸君はこういうことを奨励する立場ということです。
「すべてこと数箇条におよぶといへども、違変すべからざる儀において厳重
の起請文を同行に書かしむること、かつは祖師の遺訓にそむき、か
つは宿縁の有無をしらず、無法の沙汰に似たり」
金を借りても返すという誓約書は書かない、
裁判所に行っても宣誓書は書かない
結婚式でも宣誓しない、宣誓書は書いてはいけません。
「いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。」
葬式はしてはいけません。
551 名前:ちび丸:2007/11/08(木) 19:42:10 ID:/hYUZ1X+
>>550の続き
「中古よりこのかた、御遺訓にとほざかるひとびとの世となりて造寺土木の企
てにおよぶ条、仰せに違するいたり、なげきおもふところなり。」
寺なんか建てた覚如上人蓮如上人はとんでもない方々という立場ということです。
「遁世のかたちをこととし、異形をこのみ、裳無衣を着し、黒袈裟をもち
ゐる、しかるべからざる事。」
一家衆に墨衣をゆるされた蓮如上人は教えに背いているという立場ということですね。
「おほよそ造像起塔等は、弥陀の本願にあらざる所行なり。これによりて一向専修の行人、
これを企つべきにあらず。」
鏡の御影なんて作られた祖師聖人はとんでもない方ということです。
おおよそ『文字通りにしろ」って言ってる人たちというのは改邪鈔読んだことないんですな。
御本典読んでないのに改邪鈔の解釈なんてできるわけないだろ。
分際を知れよ。
556 名前:デカ丸:2007/11/08(木) 20:21:34 ID:t8WfirpB
>>550
> 御聖教を野山に捨てることは祖師が喜ばれることだそうです。
> アンチ諸君はこういうことを奨励する立場ということです。
すみませんが、こんなことを主張したアンチの人がいたでしょうか?
できれば、具体的な発言を引用していただけませんか?
このような主張をした人は、私の覚えにはありませんが。
親鸞聖人は、たとえ、お聖教が野山に捨てられるようなことがあっても、取り返し
てはならないと仰っているのです。
いかに、お聖教を取り返すことを嫌われたか、という根拠なのです。
「野山に捨てられることがあっても、取り返してはならない」と言われているのですか
ら、まして勤行をしたいという人に、返せというのは、おかしいではありませんか?
それに対して、「では、野山に捨てよというのか?」というのは、反論になっていな
いと思います。
今回の、親鸞会の対応は、学徒の私から見ても、おかしいと思います。
557 名前:デカ丸:2007/11/08(木) 20:27:58 ID:t8WfirpB
>>550
>「いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。」
>
>葬式はしてはいけません。
形に捕らわれると、こういう間違いを犯しますね。
仏教は、心を重んじます。
親鸞聖人が、なぜ「本尊を取り返さなくてよい。」と仰ったか、その心を重視しなけ
ればなりません。
これは、去ってゆく信楽房の仏縁を念じられてのお慈悲なのです。
退会しても、勤行をしたいと懇願する人に対して、「決まりだから返せ」というのは、
形に捕らわれすぎです。
「喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし」と書いてあるから、葬式をす
るなというのと同じ人です。
講師の皆さんには、もっと心を理解して頂きたいと思います。
559 名前:デカ丸:2007/11/08(木) 20:37:01 ID:t8WfirpB
>>558
>デカ丸さん…
>ちび丸自身がそういう解釈をしてるんじゃなくて、
>アンチの「お聖教は言葉通り受け取れ」というのを実行すると、
>こういう解釈になるけどそれでいいの?という皮肉だよ。
分かっていますよ。
しかし、「お聖教を言葉通りに受け取って、お聖教を野山に捨てよ」と主張しているア
ンチの人っていましたか?
私は、アンチの意見でも、傾聴に値するものは、聞かねばならないと思います。
これは、アンチの人の意見を、勝手にすり換えて、攻撃しているように見えます。
それに、ちび丸さんの発言は、親鸞会の講師の皆さんに対する批判と見れば、非常に当た
っていると思います。
それで、あのように書いたのです。
562 名前:デカ丸:2007/11/08(木) 20:46:24 ID:t8WfirpB
>
>「中古よりこのかた、御遺訓にとほざかるひとびとの世となりて造寺土木の企
>てにおよぶ条、仰せに違するいたり、なげきおもふところなり。」
>
>寺なんか建てた覚如上人蓮如上人はとんでもない方々という立場ということです。
ちび丸さん、何をヤケになっておられるのですか?
もう一文、前から読んでみましょう。
>ただ道場をばすこし人屋に差別あらせて、小棟をあげてつくるべきよしまで御諷諌ありけり。
>中古よりこのかた、御遺訓にとおざかるひとびとの世となりて、造寺土木のくわだてに及ぶ
>条、仰せに違する至り、なげきおもうところなり。
人数に合わせて、少し小さめに作るならば、寺を造っても構わないのです。
蓮如上人の時代は、本願寺でも入りきらなかったのですから、教えに反していたわけで
はありません。
集まってくる人より、大きな建物を建てることを、「御遺訓にとおざかる」と仰ってい
るのです。
申し訳ありませんが、正本堂の建立は、親鸞聖人の御心に外れていたと思います。
結局、2000畳を一杯にするための無理な勧誘で、多くの方が御縁を遠のけられてい
ます。
やっと、正本堂の御報謝が終ったと思ったら、今度は、正本堂の借金の利子まで、新た
に集められています。
あくまで心を重視するならば、親鸞聖人の御心に従って、小さめに押さえるべきだった
と思います。
568 名前:デカ丸:2007/11/08(木) 22:21:55 ID:t8WfirpB
>おおよそ『文字通りにしろ」って言ってる人たちというのは改邪鈔読んだことないんですな。
>御本典読んでないのに改邪鈔の解釈なんてできるわけないだろ。
>分際を知れよ。
ちび丸さん、あなたはお聖教は言葉ではなく、心を理解せよ、と言いたいのですね?
しかし、仏教の心を理解した人は、相手を見下したり、貶したりしないものです。
慈悲の教えなのですから。
あなたの発言は、いたずらに相手を挑発、罵倒しているだけで、仏教の心を理解した方と
は思えません。
言葉だけを学んで、心を学んでおられないのでしょうか。
608 名前:ちび丸:2007/11/09(金) 08:51:42 ID:GjC0qlBN
>>554
>なんか、ちび丸さんの返答の歯切れがわるくなってきましたが、
御答えしても何のメリットもない、勉強にもならないから
意欲は減退してます。
知らないことだったら調べたり聞いたりして勉強するんですがレベル低すぎ。
>、親鸞会の教学は全部正しいと思っているの?それともどこか間違いがあると
認識しているの?
アンチは親鸞会の教学、なめてるでしょ。
難しい言葉はわざと使われてないんですよ。
論点はかなり難しいことまで話されている。
私に採点せよといわれても無理。
631 名前:ちび丸:2007/11/09(金) 13:10:07 ID:0KJP5T/j
>>609
M野講師の予定なんて知らないよ。
講師なら法座を開いてるでしょうが。
こういう頭悪いのが続出するんだよね。
相手するのが嫌になってるんで今後も興味なければ
あんまり書かないと思いますよ。
>名無しの発言でもないし、逃げ腰の発言でもない。
「根拠あげろ」とか「根拠にならない」という議論でもない。
的外れな逃げ方ではないですか。
言葉とおりに取るとおかしな事になることは
蓮位房の件で詳しく書いています。
蓮位房は背師、二十一ヶ条は異義、偽造ということでよろしいかとお尋ねしても
誰からも返事はありませんでしたね。二十一ヶ条は異義なら異義だという学者の説が
紹介されましたが、それならそれでいいんですよ。私は。
そういう立場ならそういうことで話を進めますって何回書いたかなあ。
>>626自身が名無しじゃないですか。
なんで名無しで書いてるの?
640 名前:ちび丸:2007/11/09(金) 16:00:00 ID:LRhmEbUF
>>634はにせものです。
>>638もなぜ名無しで書いてるの?
同じことを何度も書かないといけないのは
責任もって反論してるアンチは誰もいないという証拠。
吉水門下の時代から祖師聖人に付き従っていた蓮位房が「とりかえそうとした」ということは
今までそうしてきたということ。
(信楽房が、師匠を離れた初めての人とは考えにくい。そういう主張ならそっちの方面で
話をすすめてもいいです)
主従の義定がなかったということなら、蓮位房は師匠にだまって
今まで勝手にとりかえしていたことになります。
こういうことは許されない。だから背師になる。
主従の義定があっても、信楽房に限って「とりかえさなくていい」と言われたということならば
一般的に「かえさなくていい」ということにはならない。
主従の義定というのは書面に書かれているものではない。
「弟子は師匠に従う」のが当たり前で、しかも仏法からいえば善知識は全因縁だから
絶対服従で当然。(全因縁の話も決着済み)
何遍も書いてます。
三願転入がわからないと、わからない話でしょうね。
三願転入というのは真宗の教えであって親鸞会独特の教えではないんですよ。
今日はここまで。
667 名前:デカ丸:2007/11/09(金) 21:56:05 ID:vKHeNv7n
>>640
>>>638もなぜ名無しで書いてるの?
>同じことを何度も書かないといけないのは
>責任もって反論してるアンチは誰もいないという証拠。
あなたは名無しさんには返答するのに、なぜコテハンの私の発言をことごとく無視さ
れるのでしょうか?
矛盾していませんか?
>吉水門下の時代から祖師聖人に付き従っていた蓮位房が「とりかえそうとした」ということは
>今までそうしてきたということ。
>(信楽房が、師匠を離れた初めての人とは考えにくい。そういう主張ならそっちの方面で
>話をすすめてもいいです)
当時、不文律としての弟子の義定があったという前提で話をします。
その義定を破って、本尊・聖教をお返しせずに離れていったお弟子は、めったにいな
かったと思います。
つまり、みな自主的に、お返しして離れていった。だから、「取り返す」必要は無かっ
たと思います。
668 名前:デカ丸:2007/11/09(金) 21:57:01 ID:vKHeNv7n
もし、過去に信楽房のようなお弟子がいて、その人に対して親鸞聖人が「取り返せ」、
あるいは、「取り返さなくて良い」と仰っていたならば、蓮位房が「取り返すべきでは
ないですか」と尋ねる必要がありません。
だから、弟子の義定を破って、離れていったお弟子は、信楽房が初めてであったと考え
られます。
蓮位房としては、お返しする約束なのだから、当然「取り返すべきだ」と主張されたわ
けです。
決して、背師の輩ではありません。
しかし、その蓮位房に対して、親鸞聖人は、「取り返してはならない」と仰った。つま
り弟子の義定があって、本人としては返すべきだが、返さない人から取り返すべきでは
ない、というのが親鸞聖人の結論だと思います。
私は、K森さん一派の人が、正御本尊を返さないのを是とするつもりはありません。
返す約束なのですから、返すべきです。それを、改邪抄を盾に返さないのは、おかしい
と思います。
しかし、そういう人に対する、親鸞会の対応も、明らかにおかしい。
669 名前:デカ丸:2007/11/09(金) 21:57:44 ID:vKHeNv7n
おそらく、退会する人が、正御本尊を返したくない、という事例を、想定していなかっ
たのだと思います。
退会する人は、そもそも求道する気がないわけですから、正御本尊に未練もないし、素
直に返す人ばかりだったと思います。
ところが、正御本尊を返さない、という人が現われた。
ちょうど、信楽房が、本尊を返さずに去っていったような事態が起きたわけです。(し
かし、今回の場合は、勤行をしたいから、正御本尊を頂きたいと言っているわけですから、
同列に扱えない部分はありますけど)
だから、H田支部長やF田支部長が、高森先生に、「正御本尊を返さないと言っている人
がいますが、取り返しましょうか?」と尋ねたとしても、当然のことです。
もし、高森先生が親鸞聖人であったならば「取り返さなくて良い」と仰ったでしょう。
ところが、退会者に返却を要求しているところを考えると、「取り返しなさい」という指
示が出たということでしょうか?
「何事も何事も開山聖人の召され候ように御沙汰候」と仰る高森先生のご指示とは、にわか
に信じがたいですが、M晴局長かW部弘宣部長が、そういう指示を出されているのでしょ
うか?
いずれにしても、親鸞会の対応は、親鸞聖人の精神と、かけ離れたものであると思わずに
おれません。
672 名前:デカ丸:2007/11/09(金) 21:59:38 ID:vKHeNv7n
>主従の義定があっても、信楽房に限って「とりかえさなくていい」と言われたということならば
>一般的に「かえさなくていい」ということにはならない。
>主従の義定というのは書面に書かれているものではない。
>「弟子は師匠に従う」のが当たり前で、しかも仏法からいえば善知識は全因縁だから
>絶対服従で当然。(全因縁の話も決着済み)
ちび丸さん、あなたは問題をすり替えていませんか?
誰もK森さん一派の人が、返さないのが正しい、なんて主張はしていませんよ。 私もおか
しいと思います。
返さない人に対して、取り返そうとする親鸞会の対応は、おかしいぞ、と言っているのです。
以後、ちび丸氏の反論なし
親鸞会の捏造本尊
99 :神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 01:59:33 ID:ZdkihqLl はじめまして、林と申します。 親鸞会の教義についての議論を公開させて頂きました。 ご参考にしてください。 親鸞会教義の問題点を問う http://sinran2.blog115.fc2.com/ 100 :神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 02:02:14 ID:ZdkihqLl 福田講師につづき、今度は原田講師と元会員との法論が掲載されています。 >>99 返信が遅くなって申し訳ありません。 はらりんさんが原田講師であることは先日知りました。 直接のご縁は無いのでお互い顔はハッキリしないと思いますが 、私は元会員の林と申します。 親鸞会への不信がつのり、6月17日に退会しました。 担当支部長も私の質問には答えることができなかったので原田講師に質問させていただきます。 108 :神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 09:50:46 ID:TANUj1gZ >>99 親鸞会教義の問題点を問う http://sinran2.blog115.fc2.com/ 今回の指摘は、親鸞会にとっては痛いところを突かれたな。 親鸞会は、絵像、木像の本願寺を非難しているが、「絵像、木像の本尊は間違いだ」という根拠はどこにもない。 しかし、「本尊に知識の名を記してはならない」とは、誰が読んでも分かるように書かれている。 本尊が狂っているのは、明らかに親鸞会だ。本願寺ではない。 この責任をどう取るのか。 原D講師はじめ、必死に誤魔化そうとしているようだが、このサイトの存在が知られたら終わりだな。 http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1185723824/
110 :神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 11:11:21 ID:TANUj1gZ >>99 親鸞会教義の問題点を問う http://sinran2.blog115.fc2.com/ >●あの公開討論の文面は、すでに文章が操作されています。 >自分たちの都合のいいように変更されたものです。 >全文や裏もすべて知れば、上田や斎尾がいかに悪賢く、 >悪質であるかがわかるでしょう。 親鸞会では、公開法論の敗北が認められず、こんな文章をバラまいているのか。 本当にアキレる限りだ。 こんな文章をバラまく団体こそ、「悪賢く、悪質」という自覚は無いのか。 134 :神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 21:32:48 ID:rSwyMPyU >>99 「わたしは、はじめから貫いて申し上げているとおり、 はじめから議論などやるつもりもなく、 まともな議論など、はじまってもおりません。 こんなやりとりは議論のうちに入りません。 無視だけせずに反応しているだけですよ。」 十通以上の長文メールを発信しながら、論点の見えない 発言を繰り返し、最後は 「無視だけせずに反応しているだけ」との言葉で〆る。 この親鸞会講師とされる人物は、何を怖れて口をつぐ んでいるのだろうか? 150 :神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 22:41:20 ID:TANUj1gZ >>99 親鸞会教義の問題点を問う http://sinran2.blog115.fc2.com/ >複数の親鸞学徒の方から、「お仏壇用の正御本尊は子孫の代まで残すことが >できると聞いて御下付して頂いたが、後になって、退会・死亡時には返納す >るという誓約書を出すように言われた。」という話を聞きました。 こんなのは、誰が聞いても詐欺だ。 仏壇用の本尊は、かなり高額の布施が要求されたはず。 もはや会員減少の歯止めをかけるために、ここまでするようになったか。 親鸞会が非難している本願寺でも、こんな暴挙には至っていない。 154 :神も仏も名無しさん:2007/08/04(土) 04:04:17 ID:hUOPwJxd 親鸞会の法論は相手に推測させる言葉が多い。「言うまでもない」「明らか」とか。 信心がないものだから常に逃げの部分を作っておかないと不安なのだ。 会長はずるがしこいからその遺伝子を講師はひきついどるね。 189 :神も仏も名無しさん:2007/08/04(土) 21:17:59 ID:xI9RgzVQ >>183 >●あの公開討論の文面は、すでに文章が操作されています。 本当にあの文面は文章が操作されているんだろうか。 操作されているのならば、正式に抗議して元に戻せばいいと思うけど。 190 :神も仏も名無しさん:2007/08/04(土) 21:31:24 ID:5TM2bc6b >>189 親鸞会教義の問題点を問う http://sinran2.blog115.fc2.com/
斎尾さんのブログを「都合のいいように変更されたもの」と書いたのは、事実無根ではないですか? どの文章を、どのように変更したのか、相変わらず挙げることができません。 挙げられないのですね。当然です。変更されていないのですから。 私は斎尾さんのパソコン上で、著作者の承諾がないため削除されている部分も含めて、全て読ませてもらいました(これは承諾を得た上です)。 実名をイニシャルに変えてある部分以外、一箇所も変更されている所はありませんでした。 それを知った上でお尋ねしていましたが、非を認めることなく、嘘を突き通す姿には本当に呆れました。 こういうのを「悪賢く、悪質である」と言うのではないですか? 249 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:12:14 ID:NLCjJNgR >>234 >親鸞会教義の問題点を問う >http://sinran2.blog115.fc2.com/ 林氏の間違いをいくつかあげておくね。 >実際にインターネットで、現存する親鸞聖人や蓮如上人の御真筆の御名号を 多数確認しましたが、ご自身のお名前を署名されている御名号は1つも ありませんでした。 讃銘に「愚禿釈親鸞」と署名されている御親筆はいくつもあります。 ネットで調べたぐらいではわからないでしょうが。 251 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:18:42 ID:NLCjJNgR >>249つづき >一。本尊ならびに聖教の下題の下に、願主の名字をさしおきて、知識と号する族の名字をのせておく、然るべからざる事。 >改邪鈔には、「御本尊に知識の名前を書いてはならない」と教えられていますが、 もしこういう解釈が正しいなら、同じ改邪鈔に 「聖教の外題に聖人の御名をのせられたるあり」のはどういうことに なるんでしょうか。下題はだめで外題はいいとか珍解釈が出そうですけど。 「本尊ならびに聖教」なんですから。 もうちょっと勉強してから書き込まないと恥さらしてるだけだよ。 252 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:22:18 ID:w3+Gvp8+ >>249 つまり改邪抄は間違いってわけだね。 だけど、そんな名号があるなら、何でコピー張り合わせなんかするの? ネット対策員の捏造記事かな? 255 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:28:24 ID:NLCjJNgR >>251つづき >法華経の「善知識者、是大因縁、又阿難言、善知識者、是半因縁、 仏言、不尓、是全因縁也」 というお言葉も、聖道仏教の悟りを得るために、 師匠である諸仏菩薩の指導に従わねばならないのは当然のことであって、 これを浄土真宗にそのまま当てはめることは出来ないと思います。 涅槃経も聖道の経典だが祖師は引用されてます。同じ意味です。 『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「経のなかに説くがごとし。一切の 梵行の因は善知識なり。(化土巻) 観経は一代の略経と言われます。 聖道門と浄土門の関係をよく勉強するべきですね。 256 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:30:04 ID:NLCjJNgR >つまり改邪抄は間違いってわけだね。 自分の間違いに気づかない○ホはしかたないです。 ちゃんと解説書に書いてありますよ。 258 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:32:09 ID:NLCjJNgR こういう程度の批判なら会員のひとも 安心して無視できるからよかったね。 259 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:36:31 ID:0Us6TsXx >>249 >讃銘に「愚禿釈親鸞」と署名されている御親筆はいくつもあります。 じゃあ、具体的にあげてください。知りたいので。 260 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:40:19 ID:WWtp8EI+ >>255 その引用において定義されている「善知識」とは、 「菩薩と諸仏世尊」としか書いてませんが。 263 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:52:11 ID:QX9m4yij >249 親鸞聖人の名前の書かれた名号が仮に存在したとしても、正しい本尊は記名されているべきではないでしょう。 蓮如上人の御下付された絵像が現存しても、名号の方が良いという言葉に従うよう、親鸞会では教えているのではありませんか? 知識の名を記すべきでないと教えられているのに、記名されているものが2、3あるからといって、教えを無視する。 こういう態度は、如何なものでしょう? 265 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/08/05(日) 23:54:18 ID:XejZL1yg >>251 >なるんでしょうか。下題はだめで外題はいいとか珍解釈が出そ うですけど。 珍解釈じゃないと思う。当たり前のことじゃないか。 >「本尊ならびに聖教」なんですから。 ここで本尊と聖教を同列にすること自体が珍解釈だと思うぞ。 一人でよく考えてみろ。理由が分からなかったら、理由がわか らんと、もう一度カキコするといい。 その時僕の考えを述べよう。難しい問題じゃないだろう。 >もうちょっと勉強してから書き込まないと恥さらしてるだけだよ。 恥さらしにはならんとおもうぞ。 266 :神も仏も名無しさん:2007/08/05(日) 23:57:03 ID:QX9m4yij >>262 新義=間違った教え という意味ですよ。 親鸞聖人の名前もダメです。 268 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 00:04:12 ID:wSpJX8g7 >>255 一切梵行は善行のことで、信心決定ではない。 全因縁の話は親鸞聖人が引用されていないので根拠にならない。 聖道の教えの通りにやりたいなら、まず釈迦如来に礼拝すべきでは。 296 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 08:30:23 ID:O5jzdI9P 昨日は会員でなくても参詣できましたのでひさしぶりに 聴聞させていただきました。 再掲 >>234 >親鸞会教義の問題点を問う >http://sinran2.blog115.fc2.com/ 林氏の間違いをいくつかあげておくね。 >実際にインターネットで、現存する親鸞聖人や蓮如上人の御真筆の御名号を 多数確認しましたが、ご自身のお名前を署名されている御名号は1つも ありませんでした。 讃銘に「愚禿釈親鸞」と署名されている御親筆はいくつもあります。 ネットで調べたぐらいではわからないでしょうが。 297 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 08:34:10 ID:O5jzdI9P 今は、ここまで言われるんだ、とお話の内容に驚きました。 初めてのひとにはわからないから混乱させないように言われていますので ぼーっと聴いているひとにはわからないでしょうね。 再掲 >>296つづき >一。本尊ならびに聖教の下題の下に、願主の名字をさしおきて、知識と号する族の名字をのせておく、然るべからざる事。 >改邪鈔には、「御本尊に知識の名前を書いてはならない」と教えられていますが、 もしこういう解釈が正しいなら、同じ改邪鈔に 「聖教の外題に聖人の御名をのせられたるあり」のはどういうことに なるんでしょうか。下題はだめで外題はいいとか珍解釈が出そうですけど。 「本尊ならびに聖教」なんですから。 もうちょっと勉強してから書き込まないと恥さらしてるだけだよ。 298 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 08:38:36 ID:O5jzdI9P 林氏は教学を覚えただけで教義を聴いたつもりになっているようですが テキストの文字の意味は深いのですよ。 昨日の聴聞もボーっと聴いているひとには「いつもと同じ」としか 聴こえないんですが、真宗がひっくりかえりそうになった論題が含まれていました。 再掲 >>297つづき >法華経の「善知識者、是大因縁、又阿難言、善知識者、是半因縁、 仏言、不尓、是全因縁也」 というお言葉も、聖道仏教の悟りを得るために、 師匠である諸仏菩薩の指導に従わねばならないのは当然のことであって、 これを浄土真宗にそのまま当てはめることは出来ないと思います。 涅槃経も聖道の経典だが祖師は引用されてます。同じ意味です。 『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「経のなかに説くがごとし。一切の 梵行の因は善知識なり。(化土巻) 観経は一代の略経と言われます。 聖道門と浄土門の関係をよく勉強するべきですね。 301 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 09:16:45 ID:MH/bqH7r >298 あなたは聖道の修行と、浄土真宗の区別がつかないのですね。 親鸞会では五戒を守って肉たべないのですか。 >テキストの文字の意味は深いのですよ。 原田講師と同じ理屈ですね。 もしかして同一人物ですか? 302 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 09:30:44 ID:OuRSM2pC 親鸞会らしく意図的に晦渋していますね >296 讃銘に「愚禿釈親鸞」と署名されている御親筆はいくつもあります。 それは本尊としての名号に署名をしているのですか。 違うでしょう。 そうでないので、こんなもってまわった言い方をし、会員はその言葉に安住し、問題の所在を追及しないのですね。 303 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 10:13:26 ID:rvmIKr+V >>296 蓮如上人は絵像も下付されたから絵像でいいのだ、という本願寺と同じ。 329 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 21:10:54 ID:xJo9Kc4N どんな反論がでるか楽しみにしてます。 再掲 >>234 >親鸞会教義の問題点を問う >http://sinran2.blog115.fc2.com/ 林氏の間違いをいくつかあげておくね。 >実際にインターネットで、現存する親鸞聖人や蓮如上人の御真筆の御名号を 多数確認しましたが、ご自身のお名前を署名されている御名号は1つも ありませんでした。 讃銘に「愚禿釈親鸞」と署名されている御親筆はいくつもあります。 ネットで調べたぐらいではわからないでしょうが。 330 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 21:15:23 ID:xJo9Kc4N 書き込んだことは二度と消せないから お互いにいい勉強になるでしょう。 再掲 >>329つづき >一。本尊ならびに聖教の下題の下に、願主の名字をさしおきて、知識と号する族の名字をのせておく、然るべからざる事。 >改邪鈔には、「御本尊に知識の名前を書いてはならない」と教えられていますが、 もしこういう解釈が正しいなら、同じ改邪鈔に 「聖教の外題に聖人の御名をのせられたるあり」のはどういうことに なるんでしょうか。下題はだめで外題はいいとか珍解釈が出そうですけど。 「本尊ならびに聖教」なんですから。 もうちょっと勉強してから書き込まないと恥さらしてるだけだよ。 333 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 21:26:36 ID:xJo9Kc4N 知ったかぶりはねえ。 知ったかぶりにならないためには知らないことがあったらよく調べることです。 いくらでも本は売ってますよ。 再掲 >>330のつづき >>297つづき >法華経の「善知識者、是大因縁、又阿難言、善知識者、是半因縁、 仏言、不尓、是全因縁也」 というお言葉も、聖道仏教の悟りを得るために、 師匠である諸仏菩薩の指導に従わねばならないのは当然のことであって、 これを浄土真宗にそのまま当てはめることは出来ないと思います。 涅槃経も聖道の経典だが祖師は引用されてます。同じ意味です。 『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「経のなかに説くがごとし。一切の 梵行の因は善知識なり。(化土巻) 観経は一代の略経と言われます。 聖道門と浄土門の関係をよく勉強するべきですね。 334 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 21:27:09 ID:6jI4eeeH >>330 昨晩のあなたに対する以下の書き込みは スルーですか? >>262 >>263 >>269
336 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 21:32:18 ID:hwrNdGlQ >>334 都合の悪いことは無視。 これが昔から変わらぬ親鸞会の方針です。 337 :神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 21:34:16 ID:/QN8qpo5 >>329 >讃銘に「愚禿釈親鸞」と署名されている御親筆はいくつもあります。 『讃銘に「愚禿釈親鸞」と署名されている御親筆』のなかに、 【親鸞会と同じ】「親鸞聖人が署名された御名号」が存在するのでしょうか? 存在していれば有名だと思うのですが? 有名ですか?あまり知られていませんか? 365 :学徒暦15年:2007/08/07(火) 01:11:18 ID:v6moEqDG >>296-298 現役の親鸞学徒です。林氏ではありません、念のために。 ただし、親鸞会に対しては疑問もあります。 貴方の指摘は、的を得ているようで、的外れな指摘ばかりのようです。 >讃銘に「愚禿釈親鸞」と署名されている御親筆はいくつもあります。 >ネットで調べたぐらいではわからないでしょうが。 だから、聖人のお名前を署名されている御名号が、浄土真宗の「正しい」御本尊と言えるのですか? 親鸞聖人が、名号本尊とされたのは晩年になってからと言われます。それまで礼拝されていた木像、絵像本尊は、浄土真宗の「正しい」御本尊と言えますか? また、だからといって、聖人のお名前をコピーで張り合わせることが許されますか? 366 :学徒暦15年:2007/08/07(火) 01:12:13 ID:v6moEqDG >もしこういう解釈が正しいなら、同じ改邪鈔に >「聖教の外題に聖人の御名をのせられたるあり」のはどういうことに >なるんでしょうか。下題はだめで外題はいいとか珍解釈が出そうですけど。 >「本尊ならびに聖教」なんですから。 > >もうちょっと勉強してから書き込まないと恥さらしてるだけだよ。 ある御直弟御示誨のむねを領解したてまつらざるあまり、忿結して貴前を しりぞきてすなわち東国に下国のとき、ある常随の一人の御門弟、「この 仁にさずけらるるところの聖教の外題に、聖人の御名をのせられたるなり、 すみやかにめしかえさるべきをや」と云々 親鸞聖人のお弟子の言葉ですか。確かに、聖教には署名されたものがあったのかも知れませんね。しかし、これは署名された名号があるという根拠にはならない。 また、先に述べたように、署名された名号が現存したとしても、「正しい」御本尊は署名すべきであるという根拠にはなりません。 367 :学徒暦15年:2007/08/07(火) 01:12:49 ID:v6moEqDG >涅槃経も聖道の経典だが祖師は引用されてます。同じ意味です。 >『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「経のなかに説くがごとし。一切の >梵行の因は善知識なり。(化土巻) > >観経は一代の略経と言われます。 >聖道門と浄土門の関係をよく勉強するべきですね。 あなたは親鸞学徒ではないようですから、教えを知らないのは仕方ありませんが、浄土真宗の教えは、悟りを求めて修行しなさい、という教えではありません。 また、あなたは「同じ意味です」と勝手に断定していますが、それぞれ、あなたのいう「意味」を書いてみてください。無論、あなた個人の勝手な解釈ではなく、根拠に基づいたものですよ。 369 :学徒暦15年:2007/08/07(火) 01:16:27 ID:v6moEqDG >昨日は会員でなくても参詣できましたのでひさしぶりに >聴聞させていただきました。 >今は、ここまで言われるんだ、とお話の内容に驚きました。 >初めてのひとにはわからないから混乱させないように言われていますので >ぼーっと聴いているひとにはわからないでしょうね。 会員でない、貴方に言われたくないですね。(ちび丸氏は自分は会員ではないと自称している) そんなに深い内容だと思うなら、入会して毎月参詣したらどうですか。 >林氏は教学を覚えただけで教義を聴いたつもりになっているようですが >テキストの文字の意味は深いのですよ。 >昨日の聴聞もボーっと聴いているひとには「いつもと同じ」としか >聴こえないんですが、真宗がひっくりかえりそうになった論題が含まれていました。 「ひさしぶり」に聴聞した貴方に、「いつもと同じ」としか聴こえない説法だと、何で分かるんですか? あなたは、「いつも」高森先生が、どんな説法をされているか知らないんでしょう?「ひさしぶり」に参詣したのだから。 「いつもと同じ」と思う人がいるような内容かどうかは、「いつも」聴聞している人しか判らないじゃないですか。 いつも聴かせて頂いている私から言わせれば、馬鹿みたいな発言。 ※その後、シンパ(ちび丸氏)の反論なし。
高森顕徹会長の信心決定はウソだった(2)
※高森顕徹会長の信心決定はウソだった(1)の続き
http://ameblo.jp/honzonron/entry-10033474054.html
856 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 23:43:02 ID:edPAWm7w
>これは信後のこととしか解釈できないからです。
なぜですかね。
理解できませんね。
そもそも
>九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。 帰途、T君のレポート
>を歩きながら目を通していた私は、胸が 熱くなって、そのまま彼の下宿にとってか
>えしました。「おい、きみ、よかったなあ・・・」 と、手を取りあって法悦 を語り
>合いました。
これはT森氏の文章ですかね?
862 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 02:59:30 ID:rY1iPoPi
>>856
>>九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。 帰途、T君のレポート
>>を歩きながら目を通していた私は、胸が 熱くなって、そのまま彼の下宿にとってか
>>えしました。「おい、きみ、よかったなあ・・・」 と、手を取りあって法悦 を語り
>>合いました。
>これはT森氏の文章ですかね?
ここを嫁。
これは増井氏の「念仏の雄叫び」という本から引用された部分。
http://72.14.235.104/search?q=cache:4wvkfigms1EJ:shinrankai.mondai.nukenin.jp/naze5.html+%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E3%81%AE%E3%80%80%E7%8D%B2%E4%BF%A1%E3%81%97%E3%81%9F&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp
彼(高森顕徹氏)は、私から手渡されていた恩師(伊藤康善師)の入信体験記「仏敵」にかじりついて、
無常観、罪悪観をつき進めて、ついに獲信したようでありました。後で知ったことですが、私を知るまでの彼は、
本願寺の総会所の説教聴聞に熱心に通っていたようです。説教の後で講師室を訪ねては、「地獄、極楽はありますか」
と質問を重ねていました。どの講師も即答する人がない。その応答ぶりで、その人の不信心がピンとくる。
誰に尋ねるすべもなく、彼は、悶々をしていたというわけです。
【増井悟朗著 念仏の雄叫び】
864 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 03:52:05 ID:rY1iPoPi
>>843
>>846
やはり動揺が激しいようで、こじつけ解釈が出回っていますね。
【次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。】
「今日までの悪疑」とは、無死以来の悪疑ということであり、
「疑情」以外に考えられません。
○「顕浄土真実教行証文類 一 総序 」
・円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、 難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
・もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、 かえりてまた、曠劫を逕歴せん。
「雲」は親鸞聖人において、疑情の意で用いられています。
○「浄土文類聚鈔 」
必ず無上浄信の暁に至れば、三有生死の雲晴る、
清浄無碍の光耀朗らかにして、一如法界の真身顕る。
聖道門において、「迷雲を開く」とは、「大悟する」ことを意味する。
○「碧巖録」
外道、佛に問う、有言を問わず、無言を問わず。世尊良久す。
外道讃歎して云く、世尊の大慈大悲、我が迷雲を開いて、我をして得入せしむ。
○「大佛頂首楞嚴經」
而我不知是義攸往。惟願如來宣流大慈。開我迷雲。及諸大?。
作是語已。五體投地。欽?如來無上慈誨。
865 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 06:33:25 ID:SnQ/RTR/
>>849
この文章を高森会長が書いたのは18歳以降ですよ。
ちなみに、ケコウで「獲信の記録」を彼が執筆したのも、
20歳になってから。
18歳で獲信して、ケコウが異安心だと気づいた、というのは、
如何に無理な解釈か分かります。
866 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 07:54:31 ID:14iKNSWN
>>865
現在の仏教界で最高の著作であると、平成9年2月15日号の顕正新聞で紹介された
会長が68歳までの時点では、大量の箇所の著作を引用した伊藤康善の語る信仰の世界に
強く惹かれていたんだろう。
(本当に異安心と思っていたのならば、会長の性格からいって手にとることもしないだろう。)
ケコウを異安心と気づいたというのは、ケコウに会員が流出するのを防止する組織戦略の一種でしょう。
本人にしてみれば、会報を発行する事で伊藤康善との関係が問題になることは、想定外だったんだろうな。
868 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/12(土) 10:20:44 ID:xYDRtpNB
>>856
>なぜですかね。
>理解できませんね。
かなりやばい言語能力ですね。信前にありがたーい気分で念仏を連発しました、
と「獲信体験録」を、投稿したのですか?しかもこれは本人自身が獲信したと
認める18歳の「夏」の記録ですよ。
>「はからずも夏休み数日前に」
>「親切にも休暇中」
そして、増井氏の文章ですが「九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し
合いました」とは、高森氏が18歳の夏休み後のことです。
これでもまだ、信前だと仰いますか?
あなたの「無理な」反応はごもっともだと思います。
今まで信じてきたものが崩壊するのはさぞ辛いことと思いますが、現実から目
をそらさず生きてくださいね。
875 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 12:26:53 ID:PcqmOyq2
>>864
>「雲」は親鸞聖人において、疑情の意で用いられています。
正信偈に出てくる「雲」は、たしか疑煩悩でなかった?
876 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 12:34:39 ID:0O8WyKYW
>875
疑煩悩は雲霧です
877 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/12(土) 12:38:27 ID:xYDRtpNB
■■■検証!!高森氏の「迷雲」は疑情か疑煩悩か!!■■■
高森氏の救いの体験は親鸞会会員には伏せられています。しかし、このたび貴重な
氏本人の体験録がupされました。ここには、なぜ氏が会員に対してこの体験を伏せ
ねばならなかったか、その理由がはっきりと看取できます。その理由とは、親鸞会
の教義の根幹、「一念の救済」が根本的に破壊されてしまう内容だからです。
以下、検証いたします。ポイントは2回出てくる「迷雲」という語です。
>なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。
この記述は信前であることは明らか。この「迷雲」は疑情に間違いない。この
ことは次の引用からも明らかである。
>そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、
>大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせていただきました。
この記述も信前であることは明らか。まだ「聞く」ことをしていない段階である
ためである。
>何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
これまた信前であることは明らか。二種深信がないためである。
>人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります
これまた信前。ところが、、、
878 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/12(土) 12:39:00 ID:xYDRtpNB
上つづき
>親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった
>書物により、さらにまたK光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日
>までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのまま
>でよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々
これは信後を述べていることは明らか。するとこの「迷雲」は疑情であったことが
判明する。「その」迷雲と言っていることからも、第一の「迷雲」との同一性は疑
いない。それ以外に「その」が示しうる内容はない。
■結論■
高森氏の述べる「迷雲」とは、「疑情」であり、高森氏の「疑情」は「次第に」
晴れたことは明らかである。ゆえに、「高森氏はいつとはな~しに救われた」。
以上
881 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 13:15:16 ID:PcqmOyq2
>>879
ついに、高森氏の信心についてせまるマニュアルが完成!・・・ですか。
今まで、ダミサ勧誘とか、献金の強要とか、幹部の不倫とか、いろんなこと言われていた親鸞会ですが、
ついに、「高森氏の信心」が問題にされているのですね。
親鸞会にとっては、最後の砦かな、これは。
887 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 13:40:41 ID:QGt6UamM
今日はネット対策員のsage荒らしが激しいな。
スレ違いな話題(ID:yCtSvsZd)とか無駄な改行(ID:65N6R+Fb)とか。
888 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 13:47:23 ID:ukuMDvzV
もう親鸞会、終わったな。
崩壊も時間の問題だな。
講師の首切ったり、何やってるんだか。
しょせん一つの宗教法人という、せまい世界の話なんだけど
何やってるんだか。
巨大な借金だけ残して破産するんだろ。
890 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 14:55:32 ID:PcqmOyq2
>>885
>親鸞会結成以来はボロを出さずに来ましたが、それ以前に大きなボロを。。。
>しかも獲信体験という決定的な場面の記述に、高森氏はボロを出してます。
>
>親鸞会の動揺は相当なもので、ご覧のとおり、アラシが横行してます(笑)
>これのおかげで「盛り上がったスレ」に載るといいですね(笑)
「獲信の記録」という本にも、以下のような記述があったけど、
獲信した人が「これで獲信したのだろうか・・・」と疑っているのを、高森氏が「振り返ってみると
すべてが包まれていることに気がつくのだ」とか言ってますが、これって今、親鸞会が主張している一念で疑いなく
頂ける信心と異なるのではないですか?
高森顕徹・編 『獲信の記録』 華光社 P69~71
・・・挨拶も忘れて、今あった不思議な出来事をありのまま顕徹君に語った。一同は我がことのように
喜んでくださる。だが、私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。
これが獲信したというものであろうか?
まだまだ疑いの晴れぬまま、種々ご馳走に預かる。こんな、うまく食事したことが近頃にあったろうか。
やがて、顕徹君の話に薄紙を、はぐが如く、光明は輝きを増し、歓喜は胸に張り裂けるのであった。
「如来を求めて、いくら追っかけても、人間は到底追いつけるものではない。また自分でとらえられる
位なら、他力信心なんか必要もない。弥陀は十万億土の彼方におられるものだと思っていられたか
知らぬが、何のことは無い、アンタの腹の中にいて、しかもこの宇宙を包んでいる絶対者なんだ。その
懐に入っていながら、それを追っかけ、とらえようなんて、問題ではない。追いつけないことが分かって
初めて振り返ってみると、何のことは無い。総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれて
いながら、何を悩みますかね。」
不思議だ!そう聞けば悩もうにも悩む種が無いではないか。そして顕徹君の語るどの話も皆、素直に
肯定出来るからおかしい。弥陀が智慧や才覚で分からんでもよいのだ。このままでよいんだなあ。
ああ、このままだった、このままだった。
891 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/12(土) 15:03:21 ID:xYDRtpNB
>>890
UPありがとうございます。
■■■土蔵秘事活動をしていた高森氏■■■
高・森・氏・は
土・蔵・秘・事・の・親・玉・だ
と・い・う・こ・と・が
判・明・し・ま・し・た
892 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 15:13:39 ID:SnQ/RTR/
>>890
これって高森氏が20歳の時に書いた文章ですよね。
18の時には信心決定して一念の信心を獲ていたはずなのに、
こんな体験談を平気で書いているんですね。
結論
高森氏の20歳の時の信心と今の信心は異なる。
あるいは、18歳で信心決定したというのはウソ。
893 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 15:55:38 ID:14iKNSWN
会長は自分の語る親鸞聖人の教えが事実と異なっていたならば、
その場で即刻、腹を切るといわれたことがありましたね。
今回の問題では背を丸めて屈みこみ、じっと嵐が過ぎ去るのを待つ手段を
とっているように見受けられますが、これまでとってきた親鸞会の主張から
みてみると、その方法は全然美しくないですよ。
899 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 17:28:16 ID:4YY7TDqS
高森先生のご著書である『会報』には「仏教では疑心に二つある」として
「晴れる疑心と晴れない疑心」を出され、
疑煩悩は絶対に晴れることのない疑心である、とご教示されております。
ですので、晴れる晴れないということがあるのは本願疑惑心である疑情に
限ります。
901 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 17:52:25 ID:yKhaNEt1
華光会の事が何でこんなに隠されているのか分かりました
916 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 19:41:21 ID:PcqmOyq2
>>890
>「獲信の記録」という本にも、以下のような記述があったけど、
>獲信した人が「これで獲信したのだろうか・・・」と疑っているのを、高森氏が「振り返ってみると
>すべてが包まれていることに気がつくのだ」とか言ってますが、これって今、親鸞会が主張している一念で疑いなく
>頂ける信心と異なるのではないですか?
>>893
>会長は自分の語る親鸞聖人の教えが事実と異なっていたならば、
>その場で即刻、腹を切るといわれたことがありましたね。
>
>今回の問題では背を丸めて屈みこみ、じっと嵐が過ぎ去るのを待つ手段を
>とっているように見受けられますが、これまでとってきた親鸞会の主張から
>みてみると、その方法は全然美しくないですよ。
>>901
>華光会の事が何でこんなに隠されているのか分かりました
シンパのみなさん、反論はなしですか・・・
917 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 19:45:13 ID:9l8LIwOF
>>892
カルト宗教の法の華福永代表が「天声」を聞いたときの
記述が著書によってバラバラで状況も時期も矛盾している
っていうのを思い出した。
920 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 22:03:43 ID:k4U8t1V/
その華光会の時の文章と、親鸞会での文章がまるで違う。
50年近くにもなる親鸞会の歴史の上では、一念の信心について説法しているのだから、この際ハッキリと「華光会にいましたが、そこは間違いだと分かって飛び出しました」とか表明すればいいんでないのかね?
※シンパからの反論はなくなり、
親鸞会ネット対策員の荒らしが激化する
922 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 23:01:04 ID:14iKNSWN
ネット対策員にとっておそらく初めて目にしたであろう「獲信の記録」を読んで、行った対応というのが荒しによる情報撹乱行為であることに、驚いた。
これは組織にとっても重要な問題なので、下っ端会員が下手な対応をとったならば、一気にS会の評判を落としてしまう・・・
ここは組織のしかるべき立場の講師(布教局長など)が会長先生に直接お聞きするなどして、適切な対応をとるまで沈黙した方が、
組織としても得策であると思えるのですが。
923 :神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 23:25:19 ID:PcqmOyq2
>>890
>「獲信の記録」という本にも、以下のような記述があったけど、
>獲信した人が「これで獲信したのだろうか・・・」と疑っているのを、高森氏が「振り返ってみると
>すべてが包まれていることに気がつくのだ」とか言ってますが、これって今、親鸞会が主張している一念で疑いなく
>頂ける信心と異なるのではないですか?
>>893
>会長は自分の語る親鸞聖人の教えが事実と異なっていたならば、
>その場で即刻、腹を切るといわれたことがありましたね。
>
>今回の問題では背を丸めて屈みこみ、じっと嵐が過ぎ去るのを待つ手段を
>とっているように見受けられますが、これまでとってきた親鸞会の主張から
>みてみると、その方法は全然美しくないですよ。
>>901
>華光会の事が何でこんなに隠されているのか分かりました
会員の人たちからの反論もないようですが、みなさん高森氏の信心についてのこのような記録を
初めて目にして、驚いているのでしょうね。
なぜ、華光会についてひた隠しにされてきたか、ようやく多くの人が考え始めるのではないでしょうか。
>>920にも書かれているように、「過去はこのようなことであったが、今はこうです」と高森氏自身がハッキリ言えば、
おそらく会員の人たちはついてくるでしょうに、会長自身が隠し事ばかりしているから、事態は悪い方へ流れているような気がします。
会員の人たちも、これを機に今までの絶対的な会長信仰について、一歩立ち止まって考えてみてはいかがでしょうか・・・・。
939 :神も仏も名無しさん:2007/05/13(日) 10:00:10 ID:OmGXfm98
>>920
>50年近くにもなる親鸞会の歴史の上では、一念の信心について説法しているのだから、この際ハッキリと「華光会にいましたが、そこは間違いだと分かって飛び出しました」とか表明すればいいんでないのかね?
それは無理でしょう。
18歳のときに信心決定したと言っていたのは嘘だと言わなければなりません
から。
ここで問題になっている文章は、全て「18歳のときに信心決定」してから書
いた文章。高森氏の言う「一念でツユチリの疑心もなく救われる真実の信心」
を得ていたならば絶対に間違えっこない箇所です。
それを否定するのなら、「実は18歳のときに信心決定したのは嘘で、その時
の信心は異安心で実はその後本当に信心決定して、華光会が間違いだとわか
って離脱しました」といわなければならない。
高森氏は37歳まで華光会の雑誌に年賀の挨拶を入れていたのだから、37歳以
降に本当に信心決定したことにするのか。まあ、その辺をどうするのかは知
らないけど、おそらく死ぬまで華光会との関係は隠し続けるでしょう。
944 :神も仏も名無しさん:2007/05/13(日) 11:43:37 ID:IJlty3jl
結局、高森さんもただの異安心だったのか。
華光会との関係を隠すのが最後の砦だったのに、それが完全に崩壊してしまった。
結局、天皇バンザイとやっていたのが、敗戦により崩壊し、心のよりどころをどこかに
求めていったのかな。
高森さんも初期の頃は、熱心にコツコツ努力していたんだろうけど、組織が大きくなり、
取り巻きが増えて、周り中イエスマンばかりになっちゃったから、おかしな方向へ
すすんじゃったんだろうね。
今はもう裸の王様で、会長の知らないところで幹部がいろいろ動いているんだろうな。
あわれです、高森さん。
だれか、高森さんを助けてあげて!!
947 :神も仏も名無しさん:2007/05/13(日) 12:50:21 ID:OmGXfm98
>>944
>今はもう裸の王様で、会長の知らないところで幹部がいろいろ動いているんだろうな。
>あわれです、高森さん。
光晴局長は、高森会長の指示と異なる事を会員に伝えることもよくあるそうですね。
最高会議に出ていた人が言っていました。
おそらく、とりまきの幹部に「善知識」と祭り上げられて、都合よく利用されているだけなのでしょう。
>だれか、高森さんを助けてあげて!!
無理です。彼自身の種まきで彼自身がその報いを受けているのですから。
いつも話している因果の道理そのものです。
(よく親鸞会で根拠に使われる善悪因果経は偽経らしいけどね)
※今回はネット対策員がスレッドを荒らすばかりで、シンパからの反論はほとんどありませんでした。
高森顕徹会長の信心決定はウソだった(1)
729 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 15:52:07 ID:e3ThLpeM
T森会長は、「いつとはな~しに」救われた!!!!!!!!!
■■■■■T森会長爆弾発言■■■■■
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
730 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 16:24:34 ID:8zeKdWjM
>>729
それどこに書いてあるの?
731 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 16:46:50 ID:aKvgC7n7
>>730
http://seaglet.sakura.ne.jp/cgi-bin/dictionary/html/tdv212.html
学校の伝道部に入り、一意誠らしく話してみたが、真の安心はできない。或る人は信心を戴かない伝道は奇弁だと非難する。
それについても私は非常に恥ずかしかった。穴があれば入りたい気もしたが、どうにも私を迷わせただけでありました。
名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思いながら、なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。
そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせて
いただきました。ところがいかに説教を聞いても「うまく言うない」「フフン」とあざける内心に何だかいやになり、
或る晩もあまりに自分の立場に苦しみ、ひとつ徹底的に私の理解を促したいと、布教使さんのもとに行き、自分の疑っていた
ことを問いただしてみたが、これも明解を得ず、満足せずに悲しく淋しい闇夜を帰ったこともありました。
何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、
実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、M井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、
半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、
さらにまたK光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
南無阿弥陀仏々々々々々々
733 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 16:52:22 ID:aKvgC7n7
>>731
続き
これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。
毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせて
いただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏
今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせて
いただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。
九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。 帰途、T君のレポートを歩きながら目を通していた私は、胸が 熱くなって、そのまま彼の下宿にとってかえしました。
「おい、きみ、よかったなあ・・・」 と、手を取りあって法悦 を語り合いました。 彼は、私から手渡されていた恩師(I藤康善師)の入信体験記「B敵」 にかじりついて、
無常観、罪悪観をつき進めて、 ついに獲信したようでありました。
____________________________________________________________
さて、シンパが善知識T先生の手記↑をいつものように「アンチによる捏造文章」と決め付けるかどうか、
楽しみに待ちたいと思います。
735 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 17:26:30 ID:jAVZm6It
またアンチの捏造か
736 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 18:10:21 ID:weTBzRC5
捏造ちゅうか長~い文章の一文だけヒョイと持ってきて叩いてるだけのような気がする。
こんなの血まなこになって探してる奴いるんだなあ。
・・・ってゆうかその文章全体が難しくてよく解らん。^^;
738 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 19:11:40 ID:34/s36q7
>>736
信心に関わる重要な部分だと思うんですけどね。
受け入れられないんなら別にいいですよ。
あなたの人生だし。
誰でも自分が選択したものを否定されたくないですから。
気持ちは分かります。
739 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 19:20:18 ID:aybT8oei
ほう!信心に関わる重要な部分ですか!
では徹底討論しましょう!
740 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 19:30:50 ID:aybT8oei
アンチの皆様も、いつとはなしに救われるのが真実信心ではないと思っておられるのですね!
741 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 19:36:40 ID:guRZMb96
獲信の記録 (ぎゃくしんのきろく)
【更新時刻】 2007/04/10 00:57:06
【分類】 [活動] [発行]
【参照URL】
【関連語】 化城を突破して、
【意味】 (→意味追加)
(1) 高森顕徹氏が華光会の同人であった頃に出版した著書。当時の販売価格は100円。
1948年12月25日に印刷、1949年1月5日に華光社から発行された。
また、1950年3月1日に再版された。
初版の際には『化城を突破して』というタイトルであったが、再版の際には『獲信の記録』と改題された。
内容は高森顕徹氏が関係した5人(富山県の華光会同人)の獲信の記録と華光会主筆で高森顕徹氏の師でもあった
伊藤康善氏を囲んでの座談会の模様、そして「信心数え歌」が収録されている。座談会は1948年8月下旬に高森顕徹
氏の出生した真宗末寺である遠景寺で行われた。
「信心数え歌」は親鸞会の正信聖典にも収録された。
図書紹介のページには高森顕徹氏の師である伊藤康善氏の著書『仏敵』と華光会の機関紙である『華光』が載せられている。
http://seaglet.sakura.ne.jp/cgi-bin/dictionary/html/tdv212.html
745 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 20:50:10 ID:y0rCOIyn
218 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 02/10/20 19:03
減益時代、会長は18歳の時に篤信の老婆の臨終説法を真剣に聴聞して、獲信されたと先輩に聞いた。
上記の話について、何方か詳しく知っている方がいたら、情報求む。
220 名前: 名無しさん@一周年 投稿日: 02/10/20 19:48
>>218
初耳! 臨終説法というのは、普通死にかけの人に対する説法だが、老婆に
対する誰かの説法か? 老婆が誰か死にかけの人に対してしてたのか?
もし、この篤信の老婆自身が危篤状態まで熱心に説法していたのを聴聞した
の意味なら、まさに上記の伊藤康善氏(華光会創始者)の「仏敵」の内容と
ソックリだな。
221 名前: 名無しさん@一周年 投稿日: 02/10/20 20:10
>>220
華光会の本で『われらの求道時代』ってのに、よると華光会時代の高森氏は
当時の信者が語るところでは、「『仏敵』をいついつまでに読んで信をいただき
なさい。」って指導していたらしいよ。この話が本当で減益が言うように、邪義
だったんなら高森氏は当時の邪義をひろめていたことを公式に懺悔せにゃ
ならんと思うが。
222 名前: 名無しさん@一周年 投稿日: 02/10/20 20:22
>>218
T森氏は、横田慶哉師の『吾が信念』に出てくる師の体験をさも自分の体験の
ごとく説砲で語ってたから、『仏敵』の内容をさも自分の体験のごとく語ってた
可能性もあるのでは?
747 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 23:22:04 ID:guRZMb96
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/
次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
これが高森氏の信仰体験だそうです。一念で疑惑が晴れるのが浄土真宗の救いではなかったのでしょうか。
親鸞会の人は高森氏の信仰を絶対のよりどころにしていますが、どうもそれすらも怪しく思えてきます。
753 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 23:53:32 ID:34/s36q7
とりあえず高森会長が一念で疑いの晴れた人ではないと言うことが分かった。
754 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 23:57:50 ID:KJ2CbXoq
てか、「迷雲」を何ととらえるかが問題だと思うが。
763 :神も仏も名無しさん:2007/05/09(水) 21:41:45 ID:7Zubq29u
>>731
>次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
国語辞書との一致 (1~1件目 / 1件) 検索辞書:大辞泉
提供:JapanKnowledge
しだい‐に【次第に】
[副]1 物事の程度や状態が少しずつ変化・進行するさま。だんだんと。
徐々に。「病気が―よくなっていく」
2 序列・順序に従って物事をするさま。順々に。
「数(あまた)の検非違使(けびゐし)官人等、東西に―... [さらに]
大辞林の結果を見る
類語辞書との一致 (1~1件目 / 1件) 検索辞書:必携 類語実用辞典
提供:三省堂
しだいに【次第に】
⇒だんだん【段々】 ⇒おいおい【追々】 ⇒すこしずつ【少しずつ】
821 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 13:25:55 ID:iY4RNbg4
>>820
「次第に」は解ったけど「迷雲」の意味は何なの?
822 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 13:31:01 ID:sTcRG+TK
>>821
>次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
今日までの悪疑を恥づる…とあるので、「迷雲」=「悪疑」でしょう。
823 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 13:33:18 ID:iY4RNbg4
「悪疑」の意味は何?
824 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 13:57:06 ID:sTcRG+TK
>>823
「疑情」か「疑煩悩」のどちらかでしょうね。
827 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 17:31:39 ID:2JSwZs0D
>>820
>「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで
>紅楳氏は「いつの間にやら、疑いが無くなるということもあるでしょうね。
自分は、もう疑いはないね」とのこと。
>「もう、阿弥陀仏の本願に疑いはないのですね」と聞くと、「私は、もう疑いの
心は出ないだろうね」と、なんとも曖昧な答えでした。
>この発言そのものが、未だ救われていない自力の信心の証ではないでしょうか。
他力の信心は、あっという間もない一念に「弥陀の本願に、疑心有ることなし」と
微塵の疑いもなくなった世界ですから、こんな言葉は出ようがないと思います。
高森会長
「次第にその迷雲も晴れ 」
>この発言そのものが、未だ救われていない自力の信心の証ではないでしょうか。
他力の信心は、あっという間もない一念に「弥陀の本願に、疑心有ることなし」と
微塵の疑いもなくなった世界ですから、こんな言葉は出ようがないと思います。
828 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 18:01:47 ID:I18JZn2N
■■■検証!!高森氏の「迷雲」は疑情か疑煩悩か!!■■■
高森氏の救いの体験は親鸞会会員には伏せられています。しかし、このたび貴重な
氏本人の体験録がupされました。ここには、なぜ氏が会員に対してこの体験を伏せ
ねばならなかったか、その理由がはっきりと看取できます。その理由とは、親鸞会
の教義の根幹、「一念の救済」が根本的に破壊されてしまう内容だからです。
以下、検証いたします。ポイントは2回出てくる「迷雲」という語です。
>なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。
この記述は信前であることは明らか。この「迷雲」は疑情に間違いない。この
ことは次の引用からも明らかである。
>そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、
>大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせていただきました。
この記述も信前であることは明らか。まだ「聞く」ことをしていない段階である
ためである。
>何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
これまた信前であることは明らか。二種深信がないためである。
>人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります
これまた信前。ところが、、、
829 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 18:02:26 ID:I18JZn2N
上つづき
>親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった
>書物により、さらにまたK光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日
>までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのまま
>でよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々
これは信後を述べていることは明らか。するとこの「迷雲」は疑情であったことが
判明する。「その」迷雲と言っていることからも、第一の「迷雲」との同一性は疑
いない。それ以外に「その」が示しうる内容はない。
■結論■
高森氏の述べる「迷雲」とは、「疑情」であり、高森氏の「疑情」は「次第に」
晴れたことは明らかである。ゆえに、「高森氏はいつとはな~しに救われた」。
以上
830 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 18:12:12 ID:I18JZn2N
会員の方、↑の推論に反論よろしく。
私個人としては、これ以上大きく親鸞会を揺るがすソースはないと考えてます。
正直、M晴事件など、比にならない重大な事実だと思いますがいかがでしょう?
福田-斎尾論争から、思いもよらぬ副産物が出てきました。ちなみに最初の引用者
である斎尾氏の「疑煩悩」説は、解釈としては不可能だと思います。親鸞会を除名
になっても、まだ高森氏だけは否定したくないためだとおもいますが、それでは
まだ知的誠実に欠けるのではないでしょうか?
831 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 18:50:30 ID:EL7L8lDP
>>830
その一文だけで凄まじい粘着ぶりですね。
他の親鸞会の書籍どこを読んでも一念の救いが説かれてあるのに。
あなたが一念の救いが真実だと思ってるならそれでいいじゃない。
高森先生がどうであろうと救われるまで進んでください。
832 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 19:13:37 ID:I18JZn2N
>>831
>その一文だけで凄まじい粘着ぶりですね
はい。
内容についての反論をどうぞ。
840 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 21:21:57 ID:edPAWm7w
>>828
>>なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。
>この記述は信前であることは明らか。この「迷雲」は疑情に間違いない。
信前だから「迷雲=疑情」の論には無理があるだろうね。
「それを覆い隠そうとする」の「それ」は何かというと、
>名誉獲得に常に走る我が心
なので、弥陀の本願に対するものではないと思うが。
841 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/11(金) 21:32:13 ID:I18JZn2N
>>840
>「それを覆い隠そうとする」の「それ」は何かというと、
>>名誉獲得に常に走る我が心
>なので、弥陀の本願に対するものではないと思う
あなた大丈夫ですか?「それ」とは「名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思」
うことに決まってるでしょうが!!
もしも「名誉獲得に走る我が心」なら、名誉欲を覆い隠してくれる「迷雲」って
めっちゃ善玉だよね。その迷雲、仏法に近づけてくれるじゃん(笑)。
では、それを前提に、
>信前だから「迷雲=疑情」の論には無理があるだろうね
とありますが、どう無理があるか、是非、教えて下さい。よろしく。
843 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 21:55:04 ID:edPAWm7w
>>841
まあ、どちらでもいいのだが。
「名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思う」でも「名誉獲得に常に走る我が心」でも、それを覆い隠そうとするものが「疑情」と結論づけられますか?
できないから「無理がある」と考察したまでですが。
845 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/11(金) 22:09:41 ID:I18JZn2N
>>843
>どちらでもいいのだが
石に漱ぎ、流れに枕す
>「名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思う」でも「名誉獲得に常に走る我が心」でも、
>それを覆い隠そうとするものが「疑情」と結論づけられますか?
>できないから「無理がある」と考察したまでですが。
その「できない」理由を教えて下さい。
ごまかさずに答えてくださいね。非常に楽しみです。
ちなみに「できる」理由は次のとおりです。
①引用文から、「迷雲」は、信前のものであることが明らかである。
②引用文から、この「迷雲」が晴れたことによって信後に出ていることが明らかである。
③①②より、信前信後が「迷雲」の有無によって区別されている。
④したがって、「迷雲」=「疑情」である。
では、あなたの主張を聞かせてください。かなり厳しい立論になると思いますが、
頑張って下さい。よろしく。
846 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 22:31:15 ID:7+svXfgd
「定水を凝らすと雖も識浪頻りに動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う、
而るに一息追がざれば千載に長く往く」(親鸞聖人)
このように親鸞聖人も煩悩のことを雲にたとえておられます。
だから迷雲というのは疑煩悩のことでありましょう。
847 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 22:33:39 ID:edPAWm7w
>引用文から、この「迷雲」が晴れたことによって信後に出ていることが明らかである。
なぜ「信後」であると言えますかね。
>次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
>ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
悪疑を恥づるに余念がないのも、
「そのままこい」「そのままでよい」を有り難く思うのも、信前でもあり得るでしょう。
848 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 22:37:03 ID:LuyMuowc
信前とも信後とも取れない文章を、勝手に信前信後と決めつけているからタチ悪い。
849 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 22:39:12 ID:+Ej4+v9B
迷雲が何かは何かわかりませんが、華光におられたときは異安心に迷われて、その後、18のときに信心決定されたということは考えられますね。だから振り返って土蔵秘事に類する異安心とさとられたという考えも成り立つますね。詳しくはわかりませんが。
850 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/11(金) 23:00:05 ID:I18JZn2N
>>847
>悪疑を恥づるに余念がないのも、「そのままこい」「そのままでよい」を有
>り難く思うのも、信前でもあり得るでしょう
やはりあなたは立論を避け、私の分節化した論拠を批判するだけでしたね。
では、華光会発行『華光』第5巻の第5号
>これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、
>ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無
>造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせ
>ていただけます
も信前のことだと主張されるのですね?
また、
>九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。 帰途、T君のレポート
>を歩きながら目を通していた私は、胸が 熱くなって、そのまま彼の下宿にとってか
>えしました。「おい、きみ、よかったなあ・・・」 と、手を取りあって法悦 を語り
>合いました。
も信前だと主張されるのですね?
是非、返答をお願いします。
851 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 23:10:50 ID:edPAWm7w
>>850
避けてませんよ。
よく読んで下さい。
>「迷雲」が晴れたことによって信後に出ていることが明らかである。
と主張されているので、
「なぜ信後に出ていることが明らか」なのか、と聞いているのです。
私は、「信前」とも「信後」とも、どちらか一方に決められるものだとは主張していません。
断定できますか? と言っているのですよ。
852 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/11(金) 23:17:33 ID:I18JZn2N
>>851
>断定できますか?
はい。
>これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、
>ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無
>造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせ
>ていただけます
>九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。 帰途、T君のレポート
>を歩きながら目を通していた私は、胸が 熱くなって、そのまま彼の下宿にとってか
>えしました。「おい、きみ、よかったなあ・・・」 と、手を取りあって法悦 を語り
>合いました。
これは信後のこととしか解釈できないからです。
853 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 23:22:17 ID:LuyMuowc
断定できっこないね。
とにかく「次第に」で突っ込みたくて仕方ないんだろ。
855 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 23:35:19 ID:4tV1t5/u
次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
疑情が消え失せ極楽往き間違いなしという人生最大の喜びが瞬間的に起こったのなら、
「次第にその迷雲も晴れ」などと書くのは、不自然だ。
何かしらの喜びの変化が起こった後の感激が表されているのは確かだけれど、
瞬間的に起こったと強調するのは、やはり無理がある。
※高森顕徹会長の信心決定はウソだった(2)へ続く
高森顕徹への無条件服従
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1173109475/
741 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 10:42:49 ID:grcIfmwi
>>738
>>だから目標は、頂いたご縁を、善知識から頂いたわが身の勝縁として
>>させて頂くものです。だから、当然、喜んでさせて頂くものですし、
>>努力目標ですから、やらされてすると思うこと自体、いけないと
>>思います。
>
>
>こんなのは、やらされてすると言わないの??
いえ、そんなことはありません。
「教学聖典6(1)問「我々の凡智で納得できなくても、ひたすら親鸞聖人
の教えにしたがえば、必ず救われるのだ」と教えられた蓮如上人のお言葉と、
その根拠を書け。
答(1)
「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも開山のめされ候ように
ご沙汰候」と仰せられ候 (御一代記聞書)」
とありますように、自分の計らいをいれず、高森先生お一人を善知識と
無条件で従ってゆくことが、信心決定に早く到達すると思います。
あなたのように、高森先生の仰有ることを疑って、あれこれ考えている
から信仰が遅遅として進まないと思います。
>だから、これは蓮如上人の言葉じゃないって。
>しかも「無条件服従」って勝手につけたタイトルでしょ?
高森先生は無二の善知識です。高森先生の言われることに間違いは
ありません。高森先生のお言葉は親鸞聖人のお言葉と思って進んで
ゆくことが早く信仰が進んでゆく道だと私は思います。
743 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:03:41 ID:cZW0pM7i
>>741
> いえ、そんなことはありません。
> 「教学聖典6(1)問「我々の凡智で納得できなくても、ひたすら親鸞聖人
> の教えにしたがえば、必ず救われるのだ」と教えられた蓮如上人のお言葉と、
> その根拠を書け。
これは、「親鸞聖人の教えにしがたえば」と書いてあるでしょ。
どこに高森先生に従えと書いてありますか?
>>今日より、法に依りて人に依らざるべし、(乃至)「法に依る」とは、法に十二部有り。この法に従ふべし、人に従ふべからず。
>> (教行信証化土巻)
> 高森先生は無二の善知識です。高森先生の言われることに間違いは
> ありません。高森先生のお言葉は親鸞聖人のお言葉と思って進んで
> ゆくことが早く信仰が進んでゆく道だと私は思います。
だったら、善知識に無条件服従せよ、という高森先生のお言葉をあげてください。
講師が勝手に言っているだけだよ。
745 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:19:25 ID:grcIfmwi
>>743
>> いえ、そんなことはありません。
>> 「教学聖典6(1)問「我々の凡智で納得できなくても、ひたすら親鸞聖人
>> の教えにしたがえば、必ず救われるのだ」と教えられた蓮如上人のお言葉と、
>> その根拠を書け。
>
>これは、「親鸞聖人の教えにしがたえば」と書いてあるでしょ。
>どこに高森先生に従えと書いてありますか?
私は高森先生が教えられることは親鸞聖人のみ教えと同じだと信じています。
今まで高森先生から聞かせて頂いたことで、自分なりにこれは親鸞聖人の
み教えと一致する。間違いないと思って、高森先生が勧めておられることは
親鸞聖人のみ教えそのままであると信じて従っています。
もし、あなたが上のようなことを主張するのなら、高森先生が勧めて
おられる中で親鸞聖人のみ教えと違う点を具体的に明らかにして
頂かなければ、あなたのいうことを信じられません。
746 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:20:59 ID:grcIfmwi
>>743
>>>今日より、法に依りて人に依らざるべし、(乃至)「法に依る」とは、法に十二部有り。この法に従ふべし、人に従ふべからず。
>>> (教行信証化土巻)
>
>
>> 高森先生は無二の善知識です。高森先生の言われることに間違いは
>> ありません。高森先生のお言葉は親鸞聖人のお言葉と思って進んで
>> ゆくことが早く信仰が進んでゆく道だと私は思います。
>
>だったら、善知識に無条件服従せよ、という高森先生のお言葉をあげてください。
>講師が勝手に言っているだけだよ。
そんなことはありません。確か講師の方が朝晩のお勤めのときに聖則で
高森先生のお言葉に無条件で従い、信心獲得を本と致しますとか、
言っていたように思います。高森先生が善知識のお言葉に無条件に従って
ゆくことが、早く救われる道であると思われなければ、このようなことは
言われないと思います。
748 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:32:58 ID:EPRgW7vK
>>733
733 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 00:26:02 ID:frIHyJGR
なぜ、浄土信仰は亜流なのかと言うことですが、それは阿弥陀仏の浄土の教えは思想史の上からいっても、
また、宗教学的な見方からいっても、
釈尊の本来の教えとは言えない色々な状況証拠があるのです。
思想史的にいうと、阿弥陀仏信仰がインド本土では流行したことは立証できません。
法顕、玄奘、義浄という中国僧で法を求めてインドまで旅行した人々は、
阿弥陀信仰については、なんら報告をしていないのは奇異なことで、もし、インド、釈尊以来の教えであるなら、
その筋道をたどることがある程度できるはずです。
>だったら、善知識に無条件服従せよ、という高森先生のお言葉をあげてください。
講師が勝手に言っているだけだよ。
顕正新聞の記事は高森会長に無断で講師が勝手に「善知識に無条件服従せよ」
といっているということ?そんなことありえないでしょう?
会長が検閲もせずに会の機関誌を発行するわけないと思います。
会長自身も善知識への無条件服従の教えを認めている、というのは常識と思いますが。
「こんなことが知りたい」1にも、「善知識はさとりを得る道の大因縁、全因縁なり」だとか、
般舟三昧経に、「善知識があったら十里、二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬うて、
身肉手足をも供養すべきである」という引用がありましたが、間接的に会長が自分を仏のごとく崇拝しろ、
身肉手足をも供養しろ、といっているのと同じになりませんか?
749 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:38:18 ID:EPRgW7vK
親鸞会における無条件服従の勧めの教えの例
【顕正新聞 昭和49年12月】私達が助かる否かは全く善知識の御化導によるしかない。
その御化導に私見をはさんでいては万劫聞いても助からない。
ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、
私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、
会長先生の御下にぬかずかねばならない。
【顕正新聞 平成4年9月】
赤尾の道宗が蓮如上人から、
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたとき、
「はい畏まりたる」と無条件服従している。
この人の言うこと、どこまで本当だろうか、と思っていては仏法を聞き開くことはできない。
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたら、「はい」と答える心構えが信前信後を通じて尊いのだ。
【親鸞会 顕真学院・講師部聖則より】
会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。
【親鸞会 会員粛正規定】
会員粛清規定第3条(2)組織破壊行為
(1) 支部長の指示に従わない。
(2) 講師部を批判する。
(3) 本会の機密を漏洩する。
(4) 本会の和を乱す。
(5) 本会の指示に対する批判的言動。
(本会の指示、方針、通達、活動目標等を批判する)
751 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:43:12 ID:EPRgW7vK
教祖を生き仏扱いし、礼賛し、拝む嵐の例
(当然高森会長がチェック、許可済み):
【顕正新聞 昭和42年~平成15年】
・こういう高森先生のお姿に、ある者は七百年昔の親鸞聖人を偲び「昭和の親鸞聖人」と驚嘆するのであり、
ある者は限りなき信頼感が沸き出でて「絶対の善知識」と仰ぐのであり、求めても求めても無碍の大道まで
導く僧侶に一人もめぐり遇えず、真の善知識を求めてやまなかった者には「無二の善知識」
「全世界唯一の名匠、善知識高森顕徹会長先生」と欽慕せずにおれないのである。
・今まで周囲の方が善知識高森先生高森先生と仰言るので私も心十分もないのに
善知識高森先生と簡単に云っていた気がするのです。先生、でも今は違います。
絶対無二の弥陀の真実の暖かい慈悲一杯の善知識高森先生と判りました。
・高森先生は、無上仏のお力の偉大さを、全身全霊で讃嘆しておられます。
まるで大宇宙に立っておられるようで、ただ善知識の仰せにひれ伏し、
無上仏が尊く思われてなりません。
【顕真 平成16年7月】
高森先生はまさに、大悲仏智そのままに、時には大教育者であられ、また、『なぜ生きる』や、
種々のご著書の大哲学者・大文学者であられます。大いなる感動で、賛仰申し上げずにおれないのです。
広大なご恩徳に報いられない懈怠の愚かさを懺悔申し上げ、高森先生こそ、まさに親鸞聖人であり、
阿弥陀さまであらせられますと、日々尊く拝しながら、ただただ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ばかりでございます。
756 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 12:05:46 ID:eA/STgNy
>>749
749 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:38:18 ID:EPRgW7vK
親鸞会における無条件服従の勧めの教えの例
【顕正新聞 昭和49年12月】私達が助かる否かは全く善知識の御化導によるしかない。
その御化導に私見をはさんでいては万劫聞いても助からない。
ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、
私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、
会長先生の御下にぬかずかねばならない。
【顕正新聞 平成4年9月】
赤尾の道宗が蓮如上人から、
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたとき、
「はい畏まりたる」と無条件服従している。
この人の言うこと、どこまで本当だろうか、と思っていては仏法を聞き開くことはできない。
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたら、「はい」と答える心構えが信前信後を通じて尊いのだ。
【親鸞会 顕真学院・講師部聖則より】
会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。
【親鸞会 会員粛正規定】
会員粛清規定第3条(2)組織破壊行為
(1) 支部長の指示に従わない。
(2) 講師部を批判する。
(3) 本会の機密を漏洩する。
(4) 本会の和を乱す。
(5) 本会の指示に対する批判的言動。
(本会の指示、方針、通達、活動目標等を批判する)
>>750>>751
これは高森先生のお言葉に従って進んでゆくことが早く信心決定できると
いうことではないでしょうか。
会報4集の中にも
「阿難がある時釈尊に「善知識はさとりの道の半因縁と思えばよいので
しょうか」と尋ねた時、「そうではない、善知識は全因縁である」と
答えていられる。」
とあるように善知識は全因縁だから、ひとえに高森先生のお言葉に
無条件で従ってゆくことが大事であると思います。
758 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 12:31:55 ID:EPRgW7vK
>>756
756 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 12:05:46 ID:eA/STgNy
>>749>>750>>751
これは高森先生のお言葉に従って進んでゆくことが早く信心決定できると
いうことではないでしょうか。
会報4集の中にも
「阿難がある時釈尊に「善知識はさとりの道の半因縁と思えばよいので
しょうか」と尋ねた時、「そうではない、善知識は全因縁である」と
答えていられる。」
とあるように善知識は全因縁だから、ひとえに高森先生のお言葉に
無条件で従ってゆくことが大事であると思います。
>善知識は全因縁
この法華経の聖道門の教えは自因自果の「因果の道理」的にはどうなんでしょうかねえ。
「五重の義」的にもおかしいような気がしますが。
いずれにせよ、親鸞会では高森会長を善知識とあがめて無条件服従し、
「まさに親鸞聖人であり、 阿弥陀さまであらせられますと、日々尊く拝し」、
「全世界唯一の名匠、善知識高森顕徹会長先生」と欽慕し、
「善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、
会員が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、 会長先生の御下に
ぬかずかねばならないと教え、
「十里、二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬うて、
身肉手足をも供養すべきである」と指導している団体ということを認められるという
ことですね。
以上は善知識だのみ信心の邪義以外の何者でもないとは思いませんか?
771 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 13:44:52 ID:cZW0pM7i
>>758
> いずれにせよ、親鸞会では高森会長を善知識とあがめて無条件服従し、
> 「まさに親鸞聖人であり、 阿弥陀さまであらせられますと、日々尊く拝し」、
> 「全世界唯一の名匠、善知識高森顕徹会長先生」と欽慕し、
> 「善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、
> 会員が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、 会長先生の御下に
> ぬかずかねばならないと教え、
これが善知識だのみの異安心である根拠、
>>一 本願寺聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。(改邪鈔・18)
善知識を、弥陀如来に譬えるのは、覚如上人が禁止されている。
正本堂を、浄土に譬えるのも、同様。
>>如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり、あさまし、あさまし。(同)
智者に笑われているのは、誰ですか?
777 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 14:20:46 ID:jdAB9COz
>>771
>> いずれにせよ、親鸞会では高森会長を善知識とあがめて無条件服従し、
>> 「まさに親鸞聖人であり、 阿弥陀さまであらせられますと、日々尊く拝し」、
>> 「全世界唯一の名匠、善知識高森顕徹会長先生」と欽慕し、
>> 「善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、
>> 会員が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、 会長先生の御下に
>> ぬかずかねばならないと教え、
>
>これが善知識だのみの異安心である根拠、
高森先生は「曠劫多生のあいだにも出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずば苦海をいかでかわたるべき」の御和讃の
説明で、「善知識を全因縁というのは「善知識の力によって
救われる」ということではありません。それは善知識だのみ
の異安心といって間違った信仰です。釈尊にさえ我々を救う
力はないのですから、善知識にあるはずがありません。善知識
に救われたと思っている人があれば、完全に間違っています。
しかし親鸞聖人は法然上人によって救われたと仰言っている
ところがあります。「曠劫多生のあいだにも出離の強縁知ら
ざりき本師源空いまさずばこの度むなしく過ぎなまし」
このお言葉だけを見れば善知識だのみです。阿弥陀仏の本願
を親鸞聖人に教えられたのは法然上人ですが、法然上人に
救われたのではない、阿弥陀仏の願力によってです。
親鸞聖人が法然上人に救われたと仰有るのは、法然上人が
そのまま阿弥陀仏、阿弥陀仏と法然上人が重なっておられ
るのです。「阿弥陀仏に救われた」も「法然上人に救われた」
も、こうなると同じです。弥陀に帰命したすがたが法然上人
に信順したすがたなのです。」と言われているように、
善知識一人を信じて進むことは、善知識だのみにはならないと
思います。
779 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 14:31:04 ID:EPRgW7vK
>>777
>「まさに親鸞聖人であり、 阿弥陀さまであらせられますと、日々尊く拝し」、
明白に、親鸞会は高森会長を阿弥陀仏と同一視して日々尊く拝むことを許可しています。
さて、親鸞聖人の教えのなかで、善知識を阿弥陀仏と同一視して
日々尊く拝むことを許可する教えがある箇所を指摘できますか?
できるわけないですよね。
780 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 14:33:53 ID:EPRgW7vK
>>777
また、般舟三昧経のなかの、
「十里、二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬うて、
身肉手足をも供養すべきである」という教え。
この教えも真宗には本来ないのにもかかわらず、高森会長が勝手に採用したのだと
思っています。
親鸞聖人の教えの中で、
「善知識を仏の如く敬うて、 身肉手足をも供養すべきである」という箇所を
指摘できますか?
できるわけないですよね。
781 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 14:34:39 ID:cZW0pM7i
>>774
>確かにアニメの中にありますね・・・。だからといって、教えに
>反することになるのでしょうか?正御本尊を粗末にすることは
>やっぱり謗法罪になるのではないでしょうか?
「善知識高森先生」監修のアニメでしょ?
本尊を粗末のするのは謗法罪。
だからといって、取り返してよいと教えられてるの?
>>777
>「曠劫多生のあいだにも出離の強縁知らざりき
>本師源空いまさずばこの度むなしく過ぎなまし」
これは法然上人がおられなかったら、教えを知ることが出来なかったという意味。
善知識に無条件服従せよ、という根拠にはならない。
783 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 14:41:13 ID:EPRgW7vK
>>777
>法然上人によって救われたと仰言っている
ところがあります。「曠劫多生のあいだにも出離の強縁知ら
ざりき本師源空いまさずばこの度むなしく過ぎなまし」
このお言葉だけを見れば善知識だのみです。
いえ、この和讃が善知識だのみの教えとはまったく思いません。
別に本師源空拝め、とも本師源空に帰命すべし、とかいってないからです。
あなたの善知識だのみの定義とはなんですか?
いくら善知識が「阿弥陀仏一仏に帰命せよ」と教えていても、一方では
「ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく」
とかいって
「善知識は実は阿弥陀仏の化身である」というように指導していたら、知識帰命と
変わらないのではないでしょうか?
790 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 15:49:41 ID:jdAB9COz
>>780
>親鸞聖人の教えの中で、
>「善知識を仏の如く敬うて、 身肉手足をも供養すべきである」という箇所を
>指摘できますか?
「教学聖典5問34「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても
解決せねばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
お言葉と、その根拠を示せ。
答え34仏法の為には、身命をも捨て、財宝をも惜しむ
べからず」とあります。この仏法のためというのは、
正しい仏法を教えてくださる善知識のみ教えも当然
入るので、身命をも捨ててゆくとは、無条件で教えに
従ってゆくことになります。
792 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 16:21:37 ID:DZZ72zX0
>790
間違った教えに身命を捧げても、どんどん間違っていくだけ。
高森先生が善知識と「私は確信しております」というのは、
高森先生が悪知識と知れた時、崩壊する。高森先生が善知識であるというのは、信者の信念だけが根拠。
客観的にみれば、嘘つき学生勧誘・ダミーサイト作りを未だやめられない宗教団体の代表役員。
改善もしようとしない、高森代表役員を果たして善知識と呼んでいいのか?
何故、苦痛の種を世間に蒔き散らしながら、教義だなんだと戯論を続けるのか?
おまえ達が、真っ先にしなければならないのは、苦痛の種蒔きをやめることだ。
高森代表役員が、これを止めることができないならば、高森代表役員は善知識を装った悪知識と言わざるをえないね。
797 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 16:50:01 ID:EPRgW7vK
>>790
>後生の一大事は、どんな犠牲を払っても 解決せねばならぬものである」
と教えられた、存覚上人の お言葉と、その根拠を示せ。
これも高森氏の勉強不足か、さもなくば巧妙なレトリックです。
原典を巧妙に改変しているし。おそらく高森氏による確信犯でしょう。
あなたはただ高森氏の指導を妄信するばかりで、原典の持名鈔をたずねたことなど
一度もないから矛盾ばかり露呈させているのでしょうね。
こんなはずはないのに、と思っておられるんではないでしょうか?
そもそも、これは明らかに信心決定後の佛恩報謝のことを述べたものであり、
断じて信前のものに対して
「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても 解決せねばならぬものである」
と教えられたものではありません。
原典から引用:
これによりて善導和尚の解釈(観念法門・意 六三七)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、
仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむ
べからざるこころなり。このゆゑに『摩訶止観』(意)のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を
捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ
仏法の恩を報ぜんや」といへり。恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひにはおよばず。
まして順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんは
ものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。
そして、信前のものには佛恩報謝はできません。
「釋迦彌陀の慈悲よりぞ, 願作佛心はえしめたる,
信心の智慧にいりてこそ, 佛恩報ずる身とはなれ」(正像末和讃)
802 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 17:02:22 ID:jdAB9COz
>>797
>原典の持名鈔をたずねたことなど
>一度もないから矛盾ばかり露呈させているのでしょうね。
>こんなはずはないのに、と思っておられるんではないでしょうか?
>
>そもそも、これは明らかに信心決定後の佛恩報謝のことを述べたものであり、
>断じて信前のものに対して
>「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても 解決せねばならぬものである」
>と教えられたものではありません。
そうですね。信後の気持ちを言われたものですね。それを通して、
以下の蓮如上人のお言葉でも分かるように、信前の人に対して
このようにしなさいと高森先生は勧められたと思います。
「御一代記聞書百箇条(70)身を捨てて求めよ 蓮如上人仰せられ候、
「信決定の人を見て、『あの如くならでは』と思えば成るぞ」と
仰せられ候。「『あの如くになりてこそ』と思いすつること、浅ましき
事なり。仏法には身を捨てて望み求むる心より信を得ることなり」と
云々。
809 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 17:49:27 ID:EPRgW7vK
>>802
>そうですね。信後の気持ちを言われたものですね。
ん?私は
高森氏の作成した
「教学聖典5問34「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せねば
ならぬものである」と教えられた、存覚上人のお言葉と、その根拠を示せ。」
は質問もおかしいし、解答も間違っている、と主張しているのですが、
それを認められた、と理解していいのでしょうか?
>信前の人に対して このようにしなさいと高森先生は勧められたと思います。
信前のものでも信心決定のためには、命がけで財産も捨てるほどの報恩のマネをしろと
いう説ですか?
御一代記聞書百箇条を根拠にされても弱いですね。
所詮は御一代記聞書なぞ、弟子の作で信用しがたいから。
あなたがたは会長がそういっているから、で通じるかもしれませんが
世間では全然通用しません。
やはり蓮如上人の著作とか親鸞聖人の著作では
「信前でも後生の一大事の解決のためには命がけで報恩すべし説」は
示せないのでしょうか?
812 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 17:56:29 ID:jdAB9COz
>>809
>信前のものでも信心決定のためには、命がけで財産も捨てるほどの報恩のマネをしろと
>いう説ですか?
親鸞聖人は「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなをきく
人はながく不退にかなうなり」と火の中わけても聞きなさいと言われて
います。命がけで求めなければ、信心は得られません。
814 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 18:18:12 ID:cZW0pM7i
>>812
> 親鸞聖人は「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなをきく
> 人はながく不退にかなうなり」と火の中わけても聞きなさいと言われて
> います。命がけで求めなければ、信心は得られません。
これがどうして、無条件服従の根拠になるのか?
もともと、無条件服従という教えがあるかという話だろ。
815 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 18:29:21 ID:rnB1KIkw
>>814
>これがどうして、無条件服従の根拠になるのか?
>もともと、無条件服従という教えがあるかという話だろ。
火の中かきわけても聞かなければならないものが仏法です。
その重さが知らされれば、そのみ教えを説かれる善知識に
命がかかるのは当然なことです。
816 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 18:29:35 ID:EPRgW7vK
>>812
>親鸞聖人は「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなをきく
人はながく不退にかなうなり」と火の中わけても聞きなさいと言われて
います。命がけで求めなければ、信心は得られません。
>>814でも指摘されていますが論点がずれていますね。
その和讃は
「信前でも後生の一大事の解決のためには命がけで報恩すべし説」
の根拠になりません。
そもそもその和讃には報恩について、あるいは善知識に無条件服従すること
についてはまったく述べられていません。
「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」の部分は「信前のものは報謝のために
財産をも捨てろ」などという説の根拠になりません。
機法二種深信を示した趣旨の和讃とも解釈できます。
たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて→機の深信
仏のみなをきく 人はながく不退にかなうなり→法の深信
「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆ」くのと、「仏のみなをきく」
のは同時。
822 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 18:41:41 ID:cZW0pM7i
>>816
>
>機法二種深信を示した趣旨の和讃とも解釈できます。
>たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて→機の深信
>仏のみなをきく 人はながく不退にかなうなり→法の深信
あれ、「仏のみなを聞く」=「聞其名号」=「二種深信」だろ。
「たとい大千世界に…」は信前のはず。
いずれにしても、阿弥陀仏のお力で救われるという根拠。
善知識は関係ない。
825 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 18:43:57 ID:EPRgW7vK
>>822
>あれ、「仏のみなを聞く」=「聞其名号」=「二種深信」だろ。
「たとい大千世界に…」は信前のはず。
ご指摘感謝します。
834 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 19:12:49 ID:rnB1KIkw
>>822
>>機法二種深信を示した趣旨の和讃とも解釈できます。
>>たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて→機の深信
>>仏のみなをきく 人はながく不退にかなうなり→法の深信
>
>あれ、「仏のみなを聞く」=「聞其名号」=「二種深信」だろ。
>「たとい大千世界に…」は信前のはず。
>
>いずれにしても、阿弥陀仏のお力で救われるという根拠。
>善知識は関係ない。
このお言葉は善知識のご説法を命がけで聞いて、求めていかなければ
弥陀の救いにあえないというお言葉です。遊んでいたら弥陀の救いに
あえる訳ではありません。命がけで善知識の説かれる弥陀の本願を
聴聞してこそ、信をうることができるのです。
843 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 21:27:00 ID:cZW0pM7i
>>834
>このお言葉は善知識のご説法を命がけで聞いて、求めていかなければ
>弥陀の救いにあえないというお言葉です。遊んでいたら弥陀の救いに
>あえる訳ではありません。命がけで善知識の説かれる弥陀の本願を
>聴聞してこそ、信をうることができるのです。
命がけで聞けと言われているのは弥陀の本願だけ。
善知識の言うことに、何でもかんでも従えという教えではない。
どうしてこれが、無条件服従の根拠になるのか?
844 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 21:53:54 ID:7PBSLCwF
たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて→法蔵菩薩が誓いによって起こした真心ならざることなき行
仏のみなをきく →それによって成就された名号をいただく
人はながく不退にかなうなり→金剛の信心を得、往生が定まる
847 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 22:34:23 ID:cZW0pM7i
>>843
無条件服従についても反論なし。
親鸞会教義の「要の中の要」である無条件服従の教えも、親鸞聖人の教えに反する邪説であった。
ID:rnB1KIkw君、よく頑張った。健闘は称える。
だが、いい加減に、目を覚ましなさい。
一切衆生必堕無間
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1173109475/
883 :神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 13:29:34 ID:5rkVFZ+n
>>880
>日蓮正宗で南無妙法蓮華経を唱えれば、幸せになれます。
「南無妙法蓮華経」という言葉が日蓮の造語で仏教ではありません。
885 :神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 13:45:57 ID:BlT6S20Z
>>883
一切衆生必堕無間も高森の造語で仏教ではないよ。
891 :神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 14:54:11 ID:5rkVFZ+n
>>885
>一切衆生必堕無間も高森の造語で仏教ではないよ。
親鸞聖人も「念仏誹謗の有情は阿鼻地獄に堕在して八万劫中大苦悩ひまなくうくとぞ
ときたまう」と言われています。阿弥陀仏はすべての人を本願で
唯除五逆誹謗正法と教えられているから、すべての人は念仏誹謗の
有情となり、阿鼻地獄(無間地獄)に死ねば堕ちるといわれている
のです。
これを高森先生は分かりやすく、一切衆生必堕無間と教えられた
だけです。
893 :神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 14:55:57 ID:BlT6S20Z
>>891
>阿弥陀仏はすべての人を本願で
>唯除五逆誹謗正法と教えられているから、
どこに「全ての人が五逆誹謗正法」なんで本願文に書いてあります?
897 :神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 16:36:03 ID:1/iZItWZ
>>893
>>阿弥陀仏はすべての人を本願で
>>唯除五逆誹謗正法と教えられているから、
>
>どこに「全ての人が五逆誹謗正法」なんで本願文に書いてあります?
阿弥陀仏の本願の中に「十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念
若不生者不取正覚 唯除五逆誹謗正法」とあります。これについて
口伝鈔(真宗聖典p707)には『観無量寿経』は機の真実なるところ
を顕せり、これすなわち実機なり、いわゆる五障の女人韋提をもって
対機として、遠く末世の女人・悪人にひとしむるなり。
実機とは、逆謗の屍のことですから、すべての人は五逆謗法となります。
900 :神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 17:38:57 ID:jOPdC2JA
>>897
『観無量寿経』に顕されている機は、十悪・五逆の悪人で謗法罪は
含まれていないよ
だから『観無量寿経』の機を根拠にするなら
> 実機とは、逆謗の屍のことですから、すべての人は五逆謗法となります。
は論理の飛躍だよ
902 :神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 17:51:24 ID:BlT6S20Z
>>897
>『観無量寿経』は機の真実なるところ
>を顕せり、これすなわち実機なり
観無量寿経のどこに私たちが謗法だと顕していますか?
また、これは本願の唯除五逆誹謗正法を説明した文章ではないでしょう。
912 :神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 22:41:56 ID:d/BWWdwy
>>902
>『観無量寿経』は機の真実なるところ
>を顕せり、これすなわち実機なり
>
>観無量寿経のどこに私たちが謗法だと顕していますか?
>また、これは本願の唯除五逆誹謗正法を説明した文章ではないでしょう
観無量寿経には韋提希夫人の姿を通して、全人類の姿を明らかにされて
います。そこで、教行信証信巻(真宗聖典p386)の中に、
「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕して具に一劫の重罪を受く。
誹謗正法の人は阿鼻大地獄の中に堕して、この劫若し尽くれば復転じて
他方の阿鼻大地獄の中に至る。是の如く展転して百千の阿鼻大地獄を
経」と。仏出づることを得る時節を記したまはず、誹謗正法の罪極重
なるを以ての故なり。(乃至)「何等の相か是れ誹謗正法なるや」
答えて曰く「若し仏も無く仏の法も無し、菩薩も無く菩薩の法も無し」
(乃至)「汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法の無みする
従り生ずることを知らず。」
つまり、ここでは五逆罪を造る人は謗法罪も造っていることを教えられ
しかも、五逆のものも、謗法罪のものも、ともに無間地獄で苦しむと
教えられています。ですから、すべての人は必堕無間となります。
920 :神も仏も名無しさん:2007/03/31(土) 01:21:59 ID:UX9WuBJD
>913
>912で感動する?この人の解釈はおかしいよ。この箇所はいわゆる逆謗摂取と言われている。
「涅槃経」の阿闍世王の救いが長々と引用されたあとに出てくる問題だ。
すなわち阿闍世王ははじめ提婆にそそのかされた謗法の輩として描かれ、
さらに父王を害すという五逆罪を犯す。そのような阿闍世王が、
釈尊の治療によって、重罪が微薄となり不退心を生ずることとなる。
「大経」には「五逆と誹謗正法は除く」とある。「観経」には五逆の往生が説かれるが
謗法については説かれていない。今の「涅槃経」には五逆謗法を造業した阿闍世が救われる。
どの経も真教であるのに、この教説の違いは一体どういうことか?と問いを出して、
親鸞は「論註」をまず引き、次に「散善義」を引いて抑止の意を明らかにする。そういう箇所。
大体、すべての人間が謗法である、などという考えはひとりよがりもこの上ない。
あなた自身、わたし自身が、自分の造ってきた業を振り返ったとき、
また現前の苦果の原因をさかのぼったときはじめて、謗法罪を犯していたとか、
五逆罪を犯していたからとか反省できるわけで、知りもしない他人に対して、
原罪のごとく、公理のごとく、全人類は謗法罪などと規定するから、
嘘つき勧誘などと他人の立場もわきまえない行動をしても、何ら反省もしない人格が形成される。
彼らにとっては、善の中の善行為をしているに過ぎず、謗法の他人を救う道に引き入れる善い事をしている、
と脳内では解決しているから。反社会的だろうが他人に苦痛を与えようが全くおかまいがない。
こうした自分の理念を他人に押しつける、公理とする宗教構造を理解し改善していかないと、
宗教対立の世界が繰り返され、傷つけあう時代のまま、進化することはない。
本尊を取りかえすことは、あってはならない
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1173109475/
745 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:19:25 ID:grcIfmwi
>>743
>> いえ、そんなことはありません。
>> 「教学聖典6(1)問「我々の凡智で納得できなくても、ひたすら親鸞聖人
>> の教えにしたがえば、必ず救われるのだ」と教えられた蓮如上人のお言葉と、
>> その根拠を書け。
>
>これは、「親鸞聖人の教えにしがたえば」と書いてあるでしょ。
>どこに高森先生に従えと書いてありますか?
私は高森先生が教えられることは親鸞聖人のみ教えと同じだと信じています。
今まで高森先生から聞かせて頂いたことで、自分なりにこれは親鸞聖人の
み教えと一致する。間違いないと思って、高森先生が勧めておられることは
親鸞聖人のみ教えそのままであると信じて従っています。
もし、あなたが上のようなことを主張するのなら、高森先生が勧めて
おられる中で親鸞聖人のみ教えと違う点を具体的に明らかにして
頂かなければ、あなたのいうことを信じられません。
753 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 11:47:04 ID:cZW0pM7i
>>745
>
> もし、あなたが上のようなことを主張するのなら、高森先生が勧めて
> おられる中で親鸞聖人のみ教えと違う点を具体的に明らかにして
> 頂かなければ、あなたのいうことを信じられません。
親鸞会では、「退会するときに御本尊を返却する」という誓約書を書かされる。
>> 一 念仏する同行、知識にあいしたがわずんば、その罰をこうぶるべきよしの起請文をかかしめて、数箇条の篇目をたてて連署と号する、いわれなき事。
>>(乃至)次に、「本尊・聖教をうばいとりたてまつらん時、おしみ奉るべからざる」よしの事、またもって同前、さきに違すべからず。(改邪鈔・9)
起請文とは「誓約書」のこと。覚如上人は、「本尊を返せと言われたら、文句を言わずに返します」という誓約書を書かせることを厳禁されている。
>>聖人のおおせにいわく、「本尊・聖教をとりかえすこと、はなはだ、しかるべからざることなり。(乃至)当世たがいに違逆のとき、本尊・聖教を
>>とりかえし、つくるところの房号をとりかえし、信心をとりかえすなんどということ、国中に繁昌と云々 返す返すしかるべからず。(口伝鈔・6)
また、親鸞聖人も、「本尊を取りかえすことは、あってはならない」と言われている。
教えに反していることは明らか。
761 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 12:55:46 ID:jdAB9COz
>>753
>また、親鸞聖人も、「本尊を取りかえすことは、あってはならない」と言われている。
>教えに反していることは明らか。
退会するとき、正御本尊を返納するのは、大切なものだから、粗末になっては
無上仏に対して申し訳ないということからできたものではないでしょうか?
768 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 13:31:20 ID:cZW0pM7i
>>761
>
> 退会するとき、正御本尊を返納するのは、大切なものだから、粗末になっては
> 無上仏に対して申し訳ないということからできたものではないでしょうか?
>>たとい、かの聖教を山野にすつ、というとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくわれて、ことごとくその益をうべし。(口伝鈔・6)
アニメ6部、見てないの?
774 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 13:54:15 ID:jdAB9COz
>>768
>>>たとい、かの聖教を山野にすつ、というとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくわれて、ことごとくその益をうべし。(口伝鈔・6)
>
>アニメ6部、見てないの?
確かにアニメの中にありますね・・・。だからといって、教えに
反することになるのでしょうか?正御本尊を粗末にすることは
やっぱり謗法罪になるのではないでしょうか?
781 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 14:34:39 ID:cZW0pM7i
>>774
>確かにアニメの中にありますね・・・。だからといって、教えに
>反することになるのでしょうか?正御本尊を粗末にすることは
>やっぱり謗法罪になるのではないでしょうか?
「善知識高森先生」監修のアニメでしょ?
本尊を粗末のするのは謗法罪。
だからといって、取り返してよいと教えられてるの?
>>777
>「曠劫多生のあいだにも出離の強縁知らざりき
>本師源空いまさずばこの度むなしく過ぎなまし」
これは法然上人がおられなかったら、教えを知ることが出来なかったという意味。
善知識に無条件服従せよ、という根拠にはならない。
794 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 16:37:38 ID:DZZ72zX0
本尊回収の件についても、親鸞が言っていることと違うことをして、
言い訳がましい答弁をしている。善知識は親鸞の宗教を継ぐ者なのだろう。
それならば、親鸞の言うように行動しなければ、嘘だろう。高森先生は、そうした所からも、
善知識とは言えないな。信者の思い込みで作りあげられた虚像の善知識だ。
799 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 16:52:52 ID:jdAB9COz
>>794
>本尊回収の件についても、親鸞が言っていることと違うことをして、
>言い訳がましい答弁をしている。善知識は親鸞の宗教を継ぐ者なのだろう。
>それならば、親鸞の言うように行動しなければ、嘘だろう。高森先生は、そうした所からも、
>善知識とは言えないな。信者の思い込みで作りあげられた虚像の善知識だ。
これはあくまでも謗法罪を造ってはならないという配慮からであり、
謗法罪は、無間地獄へ堕ちる恐ろしい無間業です。
それを造らせないための御心から言われているのだと思います。
806 :神も仏も名無しさん:2007/03/29(木) 17:18:17 ID:cZW0pM7i
>>799
> これはあくまでも謗法罪を造ってはならないという配慮からであり、
> 謗法罪は、無間地獄へ堕ちる恐ろしい無間業です。
> それを造らせないための御心から言われているのだと思います。
親鸞聖人、覚如上人には、謗法罪を造ってはならないという配慮はなかったのか?
君の大好きな「御一代記聞書」には、
>>蓮如上人へ、ある人申され候。開山の御時のこと申され候。「これは、いかようの子細にて候」と、申されければ、仰せられ候。「我も知らぬことなり。何事も何事も、知らぬことをも、開山のめされ候うように御沙汰候」と、仰せられ候。
とあるが、なぜ親鸞聖人、覚如上人と同じようにしないの?
しかも、覚如上人は
>>念仏する同行、知識にあいしたがわずんば、その罰をこうぶるべきよしの起請文をかかしめて、
>>数箇条の篇目をたてて連署と号する、いわれなき事。 (乃至)次に、「本尊・聖教をうばいと
>>りたてまつらん時、おしみ奉るべからざる」よしの事、またもって同前、さきに違すべからず。
と、御本尊を返すという誓約書を禁止しておられるが、反論は?
※その後、親鸞会シンパからの反論なし
三業で信心の有無は計れない~異安心問題について
http://life8.2ch.net/test/read.cgi#psy/1173109475/
419 :神も仏も名無しさん:2007/03/24(土) 21:59:41 ID:rDUN0hyt
以下の内容に答えられる会員の人はいないのでしょうか?
200 :神も仏も名無しさん :2007/03/18(日) 23:48:39 ID:gVaZJXNG
>>199
>「三業で信心の有無は計れない」←これは正しい
では、以下の内容は正しいですか?もし、これが正しいとすると、「あの人は、あんなことを言っているから
異安心だ」と言えないと思うのですが、いかがでしょうか?私の理解が間違っていたら、すみません。
「三業で信心の有無ははかれない」とは、
「あの人は○○だと言っているから、信心決定したのだろう」とか、
「あの人はあんなことをやっているから(言っているから)、信心決定しているはずがない」
ということは言えない、ということである。
420 :神も仏も名無しさん:2007/03/24(土) 22:34:47 ID:rDUN0hyt
親鸞聖人が、どこかに「人間は、縁がきたらどんなことでもしてしまう」と言われていたと思いますが、
これには、「教義的に間違ったことも言ってしまう」ということも入るのでしょうか?
それとも、「どんなこともしてしまう」の「どんなことも」には、「教義的に間違ったことを言う」ことは入らないのでしょうか?
もし、縁がくれば教義的に間違ったことも言うのであれば、「あの人はあんなことを言っているから、異安心だ」とは
言えないように思うのですが、間違っていますか?
会員の人は、このようなことについて、何か聞かれたことはありますか?
423 :神も仏も名無しさん:2007/03/25(日) 00:12:29 ID:XOVT5bic
>>420
こんな所でマジで答えても仕方ないかも知れないが…
親鸞聖人は、衆生済度のために浄土三部経を1000回読誦しようとされた。
このような間違いをされたことについて、アニメ解説で
「親鸞聖人は間違いをされた、だから尊敬できるのです。
もし親鸞聖人が間違われない方だったら、私は尊敬できません。」
というお話があった。
つまり、善知識にも間違いはある。
存覚上人は、著書が真宗聖典にも収録され、
真実信心の人として扱われているが、教義的に間違ったことを言ったため、
覚如上人から破門された。
もし、教義的に間違ったことを言ったら異安心とすると、
三業で信心を計れることになる。
また、信心決定したら、教義的に間違ったことを言わないなら、
信心決定した人は、教学を勉強する必要がなくなる。
つまり、教義的に間違ったことを言う可能性はある。
502 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 08:26:40 ID:by/Em1lu
470 :神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 20:46:37 ID:aMrQVYxm
ところで誰か除名されたビデオ講師についての情報キボン。
教学講義でもひそかに話題になっていたのだが、
情報が錯綜していてよく分からない。
473 名前: 神も仏も名無しさん 投稿日: 2007/03/25(日) 21:37:39 ID:XOVT5bic
>>470
http://hsaio.exblog.jp/
498 :神も仏も名無しさん :2007/03/26(月) 01:34:47 ID:mbgGFhCe
>>495
結局、高森会長以外に真実の信心を得て会員を指導する存在がいると都合が悪いから排除したんだろうね。分かりやすい反応だ。w
ブログをよく読むと、お互い本心では同意しているところがあるのではないか。
別におばあちゃんが善知識だっていいじゃない。だけど会長以外の善知識の存在は認められないから、
上田氏が言ってもいない(少なくとも意図していない)ことを必死にあげつらってるの。
頭のいい福田氏だから、どこがすれ違ってるかは分かってるんじゃないかな。
分かった上でわざとすれ違わせているように感じた。
こういう内部での教義論争がもっと活発になるといいね
503 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 08:30:21 ID:by/Em1lu
>>498
>こういう内部での教義論争がもっと活発になるといいね。
親鸞会って、しばらく会員を続けていると、質問できなくなる雰囲気があるって、先輩が言ってた。
それで、自分を騙しながら、会員つづける人もいるんでしょうね。
分からないことは、素直に聞けばいいと思う。そして、会員の中でおおいに議論が起こればいい。
会長先生や講師部の人にどんどん質問すればいいのでは。
親鸞会の先輩たちはよく、「質問大歓迎だよ」とか言ってたしね。
504 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 08:38:45 ID:by/Em1lu
>>422
>直後の>>201で答えてるやん
>お前の目は節穴かよ
201では以下のように書かれているけど、
>>201
>異安心は真宗の教学にあるから
>「あの人は、あんなことを言っているから異安心だ」と解る
これだと「三業で信心の有無を計れる」ということですよね。
これって正しいの?間違っていない?
それとも、「あの人はあんなことを言っているから異安心だ」とはいえるけど、
「三業で信心の有無は計れない」ということなの?
506 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 09:35:03 ID:MUIyR068
>>504
>それとも、「あの人はあんなことを言っているから異安心だ」とはいえるけど、
>「三業で信心の有無は計れない」ということなの?
そういうこと
異安心は求道者が道を外さないように親鸞聖人が教えていかれたもの
異安心が解らないのなら何のための教学かということになる
異安心はハッキリ解るが真実の信心はハッキリ解らない
ハッキリ解らないというのは全く何も解らないという意味ではなく
おおよその見当はつくけれども100%の断定は出来ないという意味
508 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 10:39:41 ID:tTx5+jE3
>>506
教学の意味が分かってないねぇ…
教学は、真実信心か、異安心かの判定基準です。
だから、正しく教学を学べば、真実信心か、異安心かハッキリします。
異安心なら、異安心とハッキリするし、
真実信心なら、当然ですが、真実信心とハッキリ分かります。
ただし、これは自分自身の信心について分かるということです。
他人の信心については、推定することしか出来ません。
だから、「あの人は、信心決定している」と断言はできないのです。
同様に、「あの人は、異安心である」とも断言できません。
509 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 11:15:04 ID:F8BG00qD
>>504は他人の信心を計れるかどうかという質問だと思うが?
あと、「あの人は、異安心である」は断言できますよ。
極端な話すれば
「創価学会員は真実の信心を得ていない」は断言できるでしょ?
異安心と断言できる人と断言できない人がいるということ。
511 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 11:25:12 ID:by/Em1lu
>>509
>>504は他人の信心を計れるかどうかという質問だと思うが?
そうです。他人の信心について、断言できるのかどうかということです。
断言することにより、問題が生じないのかということです。
>あと、「あの人は、異安心である」は断言できますよ。
>極端な話すれば
>「創価学会員は真実の信心を得ていない」は断言できるでしょ?
>異安心と断言できる人と断言できない人がいるということ。
たしかに・・・でも、素朴な疑問だけど、なぜ学会員なら、真実信心を得ていないって分かるの?
それなら極端な話をすれば、親鸞聖人の
「さるべき業縁の催せば、いかなる振る舞いもすべし」の「いかなる振る舞い」の中に、
「創価学会に入会する」も入るのでは?(笑)「キリスト教、イスラム教を信仰する」は「いかなる振る舞い」には入らないのでしょうか?
「キリスト教の信者が浄土真宗の真実信心を得ているなど、そんな馬鹿な話があるか」と思う人もあるでしょうし、まあ親鸞会会員なら
誰もが疑いもなくそう思うのでしょうが・・・では、親鸞聖人の「いかなる振る舞い」には、真宗以外の宗教を信仰する、または関わる、
という内容は入らないのですか?
もし、入らないのなら、そのように判断した理由を教えて欲しいです。別に屁理屈とかじゃなくて、素朴な疑問として、純粋にききたいです。
上記の親鸞聖人のお言葉を、「このようなことだけは絶対にしない、とは言い切れない親鸞である」って
高森先生は訳していたような・・・。
512 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 11:41:05 ID:F8BG00qD
>>511
「さるべき業縁の催せば、いかなる振る舞いもすべし」
というお言葉は「縁が来れば」どんな事でもしてしまうという意味ですから
真実信心を得た人が創価学会やキリスト教、イスラム教を信仰する縁など
まず来ないと思われ。
514 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 11:46:07 ID:qmKQBd3X
>>509
>異安心と断言できる人と断言できない人がいるということ。
「異安心と断言できる人」と「異安心と断言できない人」の違いは何ですか?
例えば、親鸞会会員でなければ、異安心と断言できる、とか。
何を基準に言っているのか教えて下さい。
515 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 11:53:24 ID:F8BG00qD
>>514
親鸞聖人の教えに合っているかどうかが判断基準。
合っていなければ間違いなく異安心と断言できる。
合っていても真実信心とは断言はできないが異安心とも断言できない。
516 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 11:54:26 ID:qmKQBd3X
>>512
>「さるべき業縁の催せば、いかなる振る舞いもすべし」
というお言葉は「縁が来れば」どんな事でもしてしまうという意味ですから
真実信心を得た人が創価学会やキリスト教、イスラム教を信仰する縁など
まず来ないと思われ。
これは縁が来たら、入るけど、救われた人は、まずそんな縁が来ないから
こららのものに入っているかどうかで、真実の信心か否か判断できるという意味でしょうか
?
517 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 12:01:11 ID:qmKQBd3X
>>515
親鸞聖人の教えに合っているかどうかが判断基準。
合っていなければ間違いなく異安心と断言できる。
合っていても真実信心とは断言はできないが異安心とも断言できない。
これは親鸞聖人の教えに合っているかどうかというのは、その人の
言った言葉を聞いて一箇所でも間違いがあれば、異安心と
断言できるということでしょうか?
518 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 12:04:51 ID:by/Em1lu
>>515
>親鸞聖人の教えに合っているかどうかが判断基準。
>合っていなければ間違いなく異安心と断言できる。
以下の親鸞聖人や存覚上人の言動は、親鸞聖人の教えに照らせば、
合っているの?合っていないの?
また、そのことから真意の安心か異安心かを判断できるの?
>>423
>親鸞聖人は、衆生済度のために浄土三部経を1000回読誦しようとされた。
>このような間違いをされたことについて、アニメ解説で
>「親鸞聖人は間違いをされた、だから尊敬できるのです。
> もし親鸞聖人が間違われない方だったら、私は尊敬できません。」というお話があった。
>つまり、善知識にも間違いはある。
>
>存覚上人は、著書が真宗聖典にも収録され、真実信心の人として扱われているが、
>教義的に間違ったことを言ったため、覚如上人から破門された。
>
>もし、教義的に間違ったことを言ったら異安心とすると、三業で信心を計れることになる。
>
>また、信心決定したら、教義的に間違ったことを言わないなら、
>信心決定した人は、教学を勉強する必要がなくなる。
>
>つまり、教義的に間違ったことを言う可能性はある。
521 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 13:02:16 ID:tTx5+jE3
>>515
>親鸞聖人の教えに合っているかどうかが判断基準。
>合っていなければ間違いなく異安心と断言できる。
>合っていても真実信心とは断言はできないが異安心とも断言できない。
「さるべき業縁の催せば、いかなる振る舞いもすべし」
この「いかなる振る舞い」の中には、親鸞聖人の教えに合わない言動は含まれないということ??
523 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 14:23:03 ID:ROyOqSq1
アンチも批判一辺倒じゃなくて自分の意見を展開してみれば。
批判なら誰でも出来るよ。
530 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 15:57:14 ID:DCAgYXxn
>>508
>だから、正しく教学を学べば、真実信心か、異安心かハッキリします。
この「正しく」がクセモノだな。
教学というのは所詮は不十分きわまりない伝達手段の言語によって
各々の体験のを仏教的に解釈し、それを体系的っぽく述べたもの。
「教学が信心をはかるものさしになる」というのは幻想に過ぎない。
531 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 16:21:04 ID:obEjbobL
>>530
その通りだと思う。
532 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 16:21:05 ID:LsYsKr+e
>>530
じゃあ充分な伝達方法って何?
言葉にできないことでも言葉で伝えるしかないでしょう?
あなたは何がものさしになると思ってるわけ?
533 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 16:54:05 ID:DCAgYXxn
>>532
ものさしになるものは何もありません。
信心のものさしがなければならない、と思うのも、
あってほしい、と願うのも自由でしょうけど、
ないものはないのですから諦めてください。
人の頭の中で何が思われているいるのかすら分かる方法がないのに、
真実信心か、異安心かハッキリする伝達方法などありえないでしょう。
真宗的にも、「信心の有無は三業では判別できない」が正解ではなかったですか?
「ある人が信心決定しているかどうか」は高森会長ですら何度も誤認して
いるということは、過去の顕正新聞を読めば一目瞭然とおもいますが。
大体信心もないくせして他人の信心を云々する自体が笑止な発想に思えます。
信心があるといっている高森会長のマネでもしなさい、と教えらていれる弊害では
ないでしょうか。
537 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 17:03:34 ID:LsYsKr+e
>>533
結局あなたも何も解らんということですか
批判するだけで自分の意見は無いんですね
540 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 17:23:32 ID:DCAgYXxn
>>537
>結局あなたも何も解らんということですか
>批判するだけで自分の意見は無いんですね
意見いっているんですが。
「真実信心か、異安心かハッキリする伝達方法などありえない」って。
「正しく教学を学べば伝達できる」という考えは正しくない、って。
あなたがたがは、「高森会長が信心を獲ている、この会長についていけばきっと信心が獲られる」
という信仰をもっているという現実、事実がある、ということは認められると思います。
吹けば飛ぶようなお粗末な信仰ですが。
繰り返しますが、私は高森会長が実は信心を獲ていないのではないかと考えていますが
それを証明する方法もまた、ないのです。
この世には絶対の信念などありえない、という立場もまた認めなければならないのではない
でしょうか。
あなたがたの信じている絶対の幸福だってあることの証明なんて結局はできないのですから。
親鸞聖人が、高森会長がその世界に出たといっている、なんて全然証明になっていませんよ。
そして、あーだこーだ言い合って、「痛い」とか書き込まないといられなのものもまた、
吹けば飛ぶような信心しか持てない凡夫の常なんでしょうね。
542 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 17:35:34 ID:Pwatx/Qq
結論は520で、出ていますね。
これ以上はいくら続けても・・・
544 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 17:54:32 ID:/WoTJTZ4
>>540
あなたは人の言ってる事を正しくないと否定的な意見を並べているだけで
じゃあ何が正しいのかという意見が全く無い
だから批判するだけで自分の意見が無いと言われてる
545 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 18:08:15 ID:tTx5+jE3
>>509
>あと、「あの人は、異安心である」は断言できますよ。
結局、これは間違いってことでいいのね?
546 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 18:27:27 ID:lXUum5gv
>544
わからんことはわからんという結論が何故わからん?
548 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 18:59:48 ID:/WoTJTZ4
>>546
わからんというのは結論じゃない
アキラメだ
551 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 20:30:09 ID:DCAgYXxn
>>540
>アキラメだ
そうですね。
諦らかに見ているのです。
繰り返しますが真宗的にも、「信心の有無は三業では判別できない」んですよ、
あなたから見て明らかな異安心の三業が、実は真実信心の人の深い御心から出ているものとはいえない
なんて、信心を獲ていないあなたには絶対にいえませんよね?
(それは、実は信心を獲ていると仮定したとしても教学が博識であったとしても、
高森会長にすらいえないのですが)
要は信心といっても畢竟、本人の心に属すること。
他人が異安心とかいって他人を非難すること自体が無意味ということ。
561 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 23:27:21 ID:H37FAax1
で、結局、
「『三業で信心の有無は計れない』から、『○○は異安心だ』と断言することはできない」
ということでいいんですかね?
562 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 23:30:38 ID:tTx5+jE3
>>561
でも、F田支部長は断言してますよ~
565 :神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 23:59:40 ID:Fz91qaLw
>>561
はいはい、そういうことでいいから
もう粘着しないでね^^
566 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 00:08:15 ID:pHFegtbo
>>565
>はいはい、そういうことでいいから
>もう粘着しないでね^^
えっ、いつ私が粘着した?何いってるの?
ちなみに、あなたの言う、「そういうことでいい」とは、
「『三業で信心の有無は計れない』から、『○○は異安心だ』と断言することはできない」
ということでいいということですよね。
では公開法論にもあるように、親鸞会で「○○は異安心だ」と断定しているのは間違いですね。
なぜ親鸞会では、このように間違ったことが言われているのだろうか・・・
組織を守るために特定の人を異安心にして、会員が接触をもたないようにしたいのかな・・・?
567 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 00:10:16 ID:2yMpGY4W
>>566
あら?
昼間からずっとそればかり言ってたのはあなたじゃなかったの?
そりゃまた失礼
568 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 00:13:01 ID:2yMpGY4W
>>566
だからそういうことでいいよ
どうせ反論しても聞く耳ないんだから
569 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 00:14:19 ID:2yMpGY4W
>>566
公開法論といっても親鸞会が公開してるわけじゃないからね
いくらでも捏造できるわけ
571 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 00:19:07 ID:pHFegtbo
>>569
>公開法論といっても親鸞会が公開してるわけじゃないからね
>いくらでも捏造できるわけ
そうか・・・じゃあ、親鸞会発行の「法戦」シリーズも、親鸞会が捏造している可能性もあるのですか?
572 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 00:19:45 ID:2yMpGY4W
>>570
過去レス読めば反論レスありますよ
何度も貼るの面倒くさいから自分で探してくれ
じゃあな ノシ
573 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 00:21:58 ID:2yMpGY4W
>>571
あら、馬鹿なの?
親鸞会で公開してるのになんで捏造?
574 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 00:22:44 ID:2yMpGY4W
馬鹿の相手しても仕方ないから寝るわ ノシ
575 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 01:05:51 ID:pHFegtbo
>>572
>あら、馬鹿なの?
>親鸞会で公開してるのになんで捏造?
だからさ、相手にとっては勝手に公開されてるかも、ってことでしょ。
あなたの理論だと、親鸞会が勝手に公開して捏造してると言えるでしょ。
この理論言い出したのあんたじゃん。
馬鹿はどっち?
それって、全部論破されてない?論破されていないレスあげてみ。
無理でしょ。
577 :神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 01:19:38 ID:pHFegtbo
ID:pHFegtboさんは親鸞会会員ですか?
やはり、親鸞会の会員は自分の言った言葉を、相手の立場にたって考えることが
できないのだろうか・・・。いつもこうなのかなぁ。
575 :神も仏も名無しさん :2007/03/27(火) 01:05:51 ID:pHFegtbo
>>573
>あら、馬鹿なの?
>親鸞会で公開してるのになんで捏造?
だからさ、相手にとっては勝手に公開されてるかも、ってことでしょ。
あなたの理論だと、親鸞会が勝手に公開して捏造してると言えるでしょ。
この理論言い出したのあんたじゃん。
馬鹿はどっち?
--------------------------
その後、親鸞会シンパからの反論なし
親鸞会から見た仏教と科学
このブログのテーマとは直接の関係はありませんが、面白かったので
196 :名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 22:43:21 ID:f1XnYJpo
仏法は科学の遥か先をいっている大宇宙の法則です。
科学に反すると言う人は科学が仏法に追いついていないことを知らないのです。
200 :名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 23:09:44 ID:eTxc88Nz
>>196
>仏法は科学の遥か先をいっている大宇宙の法則です。
>科学に反すると言う人は科学が仏法に追いついていないことを知らないのです。
だから、高森会長や渡部弘宣部長が以下のように言っている、「仏教が真理であることは、科学によって証明されている」
という表現は、おかしくないですか?
これらの著述の内容は、「仏法でいう真理」と、「自然科学的な法則」を ごっちゃにしていませんか?
「さて、仏教である。因果律に基づく仏説は、科学そのものといっていい。」
「『般若心経』の「色即是空、空即是色」が、現代物理学の先端をいくアインシュタインの相対性理論に現れる式、E=mc2(Eはエネルギー、mは物質の質量、cは光速度)と同じ意味であるとは、多くの物理学者が指摘するところ。」
「仏教の世界観が真理であることは、現象学が論理的に証明した後、量子力学、素粒子物理学などで 実証されている。」
「仏教は因果の道理にもとづき徹底的にかかる宇宙創造説を否定し宇宙の万有は因果の道理に順った 生物の自己創造で万有は変化流転して止まず、何ら支配的な神は認めない。これは立派に科学的に 証明し得るというより、寧ろ科学そのものというべきであろう。」
205 :名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 23:28:00 ID:7VHReAl1
>>200
おかしくない
仏法も科学的真理もどちらも正しいから同じで当たり前
207 :名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 23:31:57 ID:8gG/0I/V
>>205
>仏法も科学的真理もどちらも正しいから同じで当たり前
昔求法太子が燃え盛る炎の中に飛び込んだら、蓮の池になったという話しを聞いた事があるんだけど、これって科学的真理と同じにならないんですけど。
210 :名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 23:48:14 ID:7VHReAl1
>>207
そういうたとえ話をまともに受け取ってる人がいるのか
そこまで素直な性格ならW部さんの話も信じなさいよ
212 :名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 23:49:32 ID:8gG/0I/V
>>210
>そういうたとえ話をまともに受け取ってる人がいるのか
仏法は真理だから勿論まともに受け取ったんですが、
あなたはあの話しがウソだと思っているの?
213 :名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 23:51:49 ID:8gG/0I/V
>>210
親鸞会「キリスト教ではイエスが水の上を歩いたとか、非科学的な事ばかり言っている。それに比べて仏教は科学的だ」
キリスト教「そういうたとえ話をまともに受け取ってる人がいるのか。そこまで素直な性格なら炎が蓮の池になった話も信じなさいよ」
216 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 00:25:30 ID:abmrnDGC
>>207と>>213ならキリスト教の方が科学的だな。
実際にバジリスクはそうやって水の上を走ってるんだから
どっちの方が科学的かはさておき、
一方を「非科学的だ」となじり、一方を「譬えだから」と許容するのは妙な話ですね。
220 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 00:46:54 ID:UiFNpoR0
>>211
たとえ話っていう意味わかってる?
求道太子の話は仏法を聞く心構えを示されたものであって
そこで科学的真理を持ち出すのは詭弁
たとえというのは一分しか表さないのだから
221 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 00:53:02 ID:YI6Acbs3
>>220
つうか、般若心経の「色即是空 空即是色」をアインシュタインの相対性理論のことと
同一視したり、
加えて浄土思想、阿弥陀信仰と関係のない般若心経を持ち出して
「だから阿弥陀信仰も科学と一致する」とかいうのも詭弁だけどな。
222 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:03:58 ID:AGepoJE5
>>220
だったらキリスト教の非科学的と思える部分もそうだとなぜ思わないのですか?
225 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:09:01 ID:UiFNpoR0
>>222
キリスト経は科学的な部分がほとんど無いから
部分だけでなく全体を見ないと
226 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:11:09 ID:YI6Acbs3
そういや浄土真宗の歴史には、一向一揆で民衆を戦闘に駆り立てるときに
「退者無間地獄 進者極楽浄土」とかいうスローガンを掲げて
人々を死に追いやったのだっけ。
>>225
阿弥陀仏の救いとか浄土とかに、「科学的な部分」ってあります?
ほとんどなくない?
227 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:11:58 ID:AGepoJE5
>>225
どこをどうよんで科学的な部分がほとんど無いと断言できるんですか?
わたしからすれば仏教は科学的な部分がほとんど無いですけど…
228 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:17:42 ID:UiFNpoR0
>>227
そこでW部さんの出番です
229 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:21:38 ID:iyKHd0bc
>>227
ヒント:
キリスト教は未だに天動説
仏教は2600年前から地動説
230 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:28:02 ID:YI6Acbs3
>>229
須弥山を世界の中心とするのが仏教の世界観では?
須弥山の存在と、そこが神々の住む世界であることの科学的証明って・・・為されたことないでしょ。
231 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:30:45 ID:AGepoJE5
須弥山というのはインド起源の天動説で、
仏教経典にもとづいた世界観です。
それは地球を想定した地動説とは相容れない、
真っ向から対立するものでしたとさ。
232 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:35:14 ID:iyKHd0bc
ヒント:三千大千世界
233 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:38:43 ID:YI6Acbs3
>>229
因みにいうとね、ローマ・カトリックも現代では
ガリレイ裁判が科学的視点から誤りであったことを認めてる。
そもそも中世あたりからのキリスト教思想家の方向性というのは
「存在の原因とは何か」という因果律の観点から
世界観を構築するという方向性を持っていた。
それはキリスト云々というより、その時代の思想家達の素養として認められるべきなんだろうけどね。
そうした背景を元に、観察や実験といった試行錯誤を繰り返したり
時の宗教的権威を批判したりしながら、徐々に「科学的視座」というのは培われていった。
「宗教的権威が言ったんだから絶対に間違いないことなんだ」という結論を
安易に振りかざすことこそが、非科学的な態度とも言えるんじゃないかなあ。
234 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:39:38 ID:AGepoJE5
>>232
どうとでも受け取れる言葉です。
世界をせいぜい世間という意味にとることもできるし、
人が感じる境界の数ともとることができる。
むしろ仏教的観点からいくとそういう解釈の方が無難ですね。
235 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:45:25 ID:iyKHd0bc
>>234
どうとでも受け取れるなんて言っちゃあおしまいよ
その一言ですべてを否定できるから楽なセリフだね
236 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:47:11 ID:AGepoJE5
>仏教では、古代インドの宇宙観を受けつぎ、世界は須弥山を中心に立体に広がっている
>と解いてきたので、西洋の地動説とは衝突することになった。
>地動説が広まることにより仏教の権威が失われることを恐れた天台宗の僧円通は、
>インド起源の須弥山宇宙説を正しいものとして『仏国暦象編』を著わし、仏教天文説を
>目に見える形で表わした時計仕掛けの「須弥山儀」を最初に考案した。
こんなことが書いてありましたね。
現在の仏教が須弥山世界観を放棄してたとえ話だと言い換えたのは
西洋からもたらされた地動説にさんざん敗れ去った結果だと言えますね。
地動説が伝わる前では、仏教では天動説がさも真理のように教えられてたんでしょうね。
これから科学が進歩するにつれて同じことが起こるんではないでしょうか?
新しく発見された真実が、仏教の教えと合わなければその教理をたとえ話にし、
教典の中で同じ意味に解釈できるものがあれば、仏教は2600年前から知っていた。
科学はやっと追いついたって具合にね。
237 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:56:56 ID:AGepoJE5
>>235
三千大千世界の一言で仏教が地動説だったって決定づけるのが杜撰すぎるだけです。
238 :名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 01:57:56 ID:YI6Acbs3
>>235
君が「三千大千世界」と言って主張したかったことを明確に語ればいいんじゃないかな?
因みに大分前の新聞で読んだんだけど、メソポタミアとか中近東のあたりの古代文明でも
「世界を無限大の広がりとして捉える」という考え方はあったらしいよ。
あとさ、「数え切れないほどの仏様の浄土がある」という
大乗仏教期から起こり始めた浄土思想が「科学的」であり、
「宇宙には数え切れないほどの銀河がある」という天文学的観察の結果と一致するとか主張したいんだったら、
それぞれの「銀河」が「仏の浄土である」ってことを実証してからにしてね。
山科本願寺についての議論
http://makimo.to/2ch/life7_psy/1139/1139650663.html
115 名前: 元々ぼら夫 2006/02/20(月) 14:20:30 ID:p6YnA4hh
新スレはここでつか?乙~♪
山科の本尊についてレスしよ~と思ってみたら、前スレ埋まってた。なので、ここにカキコするねん。
出先なので、正確な引用でけへんが、実悟さんのもの以外に『帖外御文章』に山科造営の
ことを蓮師が述べとる罠。「本尊すえおく」って。「据える」は設置する意。置く意。
もし山科の本尊が掛け軸であるなら、「かける」「たてまつる」「奉懸」とかが
適切な表現です罠。「お~い、かあさん、床の間に掛け軸すえおいといてぇな」
ゆわれたら、漏れだったら箱ごと、床の間に置くと思うけどwま、普通に読めってこった。
(^-^)/
549 名前: 元々ぼら夫 2006/02/26(日) 08:35:44 ID:M1xr1eeR
>>487
誠に申し訳ありませぬ~。家についたら疲れて寝てしまいました。
さて『山科御坊事』の(1)でつが、科段にわけるとしたら、
①実悟さんがこれを書こうとした理由、に始まり、②現在の山科御坊跡地の状態、
③往時の山科御坊の阿弥陀堂並びに御影堂の荘厳。とゆ~ふ~な構成と言えるでしょう。
詳細については、また、お参りから帰ったらカキコしまつ。ではでは行ってきま~す。
m(_ _)m
576 名前: 元々ぼら夫 2006/02/26(日) 21:42:25 ID:M1xr1eeR
乙~♪
ところで、s会の上層部の人たちって「大の大人」と呼べるような年齢なの?なんか、
不倫疑惑の話とか見とると、号泣したり叫んだり。まさに茶番劇が繰り広げられてて、
いい大人のくせに精神のコントロールが不安定なんちゃうか?と思ってしまいますわ。
ま、そこにカリスマ的魅力があるんやろw。漏れなんか、普通にイキロ♪って思うてまう、実際。
さて、スレの流れに反してまうが、『山科御坊事』(1)現代語訳(原文と対比できるよう
にしてみますた)カキコさせていただきまする。誤りあれば訂正夜露死苦(永ちゃん風)。
(^-^)/
579 名前: 元々ぼら夫 2006/02/26(日) 22:08:30 ID:M1xr1eeR
『山科御坊事』(1)
①本書著述の動機
さて、山城国宇治郡山科野村の里には、文明9(1477)より享禄4(1531)年まで、わずか55年の
あいだ本願寺の御坊がありました。蓮如上人の建立になるものです。どうして、
早々に(なくなってしまったのでしょう)、(山科の地にある)機縁が浅薄だったからでしょうか。
今は草むらとなってしまった事、嘆くばかりです。その御坊の昔の事象を知ることができるまま、
おおよそ上申せよとの由(を承り)、望まれるまま(年月の)前後が相違している事が
あるけれども、あれこれ書きつけて見ていただくことにします。
続
582 名前: 元々ぼら夫 2006/02/26(日) 22:36:04 ID:M1xr1eeR
>>579~つづき~
②往時と現在
(焼失前は)おもいのほかの繁盛で、特にすぐれて珍しいことでありました。しかし、
(釈迦の説法地である)霊鷲山(リョウジュセン)や給孤独園(キッコドクオン)の類のように(終いにはさびれはて)、
(境内にあった)白鷺池も蘆(アシ)の(生い茂る)原っぱとなってしまいました。鳥たちの
住みかと化してしまったので、(この事をみると)(事物には)限りがあるという(諸行無常の)
道理が知られます。
続
585 名前: 元々ぼら夫 2006/02/26(日) 23:04:31 ID:M1xr1eeR
>>582つづき
③山科造営の発端~内陣荘厳
この地は、法敬坊(順誓:蓮如高弟)が、とくに選ばれた場所(勝地)とか言うことで、
兼ねて、従善(善従:金森の道西)が「法所となるでしょう」と申されたということ
(聞書【199】参照)と(照らしあわせても)不思議な事であります。その後、
堺の御坊にある座敷をひとまず取り寄せて、移築されたと承っております。仮御坊が建ち、
ほどなくして、御影堂が建ち、また本堂もなくてはいけないということで、阿弥陀堂も
建てられました。
続
591 名前: 元々ぼら夫 2006/02/26(日) 23:31:18 ID:M1xr1eeR
長々スマソ☆
>>585つづき
三間四面(※柱4*4本)で、四方に小さな縁があり、東側(※参拝入口側)には六尺の縁が
設けられていました。向かいには、さま障子(※巻障子)があり、格子戸のようで
現在ある(石山本願寺等の)諸堂と同じ様式であります。左右の脇は、唐様のさま障子、
これもまた、諸堂と同じでありました。さまには彫り物が施されていました(名は失念)。
本尊は木像(安阿作)。今(石山)と同じ。
左方(北側)に聖徳太子絵像。讃文は今と同じ。蓮如筆。・六高僧御影。
右方(南側)に、法然聖人お一人の御影。讃文は今と同じ。蓮如筆。
続
639 名前: 元々ぼら夫 2006/02/27(月) 15:23:43 ID:CCW8/WU8
夕方出かけなならんので、イマノウチにカキコ☆
>>591つづき
両方(太子、六高僧・法然御影前)ともに、三具足(ロウソク立て・香炉・花瓶)と燈台(室内照明具)
があり、御命日の時だけ(燈台の明かりを)ともしました。御影堂の上壇も三間四面。
中央に開山親鸞聖人。左方(北側)前住職蓮如上人御影。その脇の壁に蓮祐禅尼
(※蓮如二番目の奥方)(香炉を置く)。御影前の卓(つくえ)以下の荘厳は現在(石山本願寺等)と同じ。
右(南側)には代々御影一幅(第二代如信~存如まで)。卓・三具足・燈台以下、今と同じ。
続
640 名前: 元々ぼら夫 2006/02/27(月) 15:51:33 ID:CCW8/WU8
も~ちょい☆
>>639つづき
なお、南の余間には、無碍光(如来)の泥字(掛け軸)。蓮如の筆によるもの。讃文は現在と同じ。
始めの一行を蓮如自ら書き、二行目からは蓮誓(蓮如四男)に書かせられました。
左右の脇には、夢中の善導大師(※観経疏製作の発端となった感夢)の御影、法然上人の御影。
この二幅は商人がもって参ったのを買ったものです。善導は半身金色。法然も光を放ち、
互いに向き合っている御影です。この二尊の前には何も置かれず、親鸞聖人前だけ
三具足を置かれました。
続
641 名前: 元々ぼら夫 2006/02/27(月) 16:13:14 ID:CCW8/WU8
小さな事からこつこつと♪
>>640つづき
なお、(御影堂)南側の一間には、初めは廬山寺の恵遠(4世紀末中国で、白蓮社という念仏結社を
始められた方)の唐筆の墨絵の像をかけられ、前にこうたて(※屏風のようなものか)を置き、
花を立てられました。後には蓮如の筆になる不可思議光如来の名号をかけられ、
三具足を置かれました。これは実如の時代からの事です。
終了~☆間違いあったらご指摘よろ~。「押し板」(多分、今の寺院内陣に見られるような
造りつけの飾り棚)については、すっとばして訳しても~たw。あとは、直訳調に出来たかなと。
642 名前: 元々ぼら夫 2006/02/27(月) 16:53:29 ID:CCW8/WU8
ま、直訳調重視(原典と対照できるように)努めたんで、読みにくいかもしれへん。
堪忍な。で、>>624タソ、漏れの稚拙な現代語訳と原典を対照してもろうて、読んでみたら?
文章ってのは、一語一語意味を取るだけじゃ駄目。もちろん一語に含まれる意味が
わからにゃ話にならんが、流れ(前後)の関係性をふまえなければ、本当に読んだことには
ならへん。音楽かてそ~やろ。一音一音を聞いたところで、それは単なる音であって、音楽やない。
音の時間的経過(文章で言えば、前後の関係)があってはじめて音楽といえるんちゃう?
ま、読み解いてみ。
665 名前: 逃がさない 2006/02/27(月) 21:32:47 ID:3ZrclY5L
>>645
結局、ボラ夫の現代語訳のどこが根拠なんだい?
人の事を勝手な解釈というからには説明の義務があるだろ。
666 名前: 終わらせない 2006/02/27(月) 21:35:51 ID:3ZrclY5L
>両方(太子、六高僧・法然御影前)ともに、三具足(ロウソク立て・香炉・花瓶)と燈台(室内照明具)
があり、御命日の時だけ(燈台の明かりを)ともしました。御影堂の上壇も三間四面。
中央に開山親鸞聖人。左方(北側)前住職蓮如上人御影。その脇の壁に蓮祐禅尼
(※蓮如二番目の奥方)(香炉を置く)。御影前の卓(つくえ)以下の荘厳は現在(石山本願寺等)と同じ。
右(南側)には代々御影一幅(第二代如信~存如まで)。卓・三具足・燈台以下、今と同じ。
続
さあ、これがどういう意味か、はっきりさせてもらおうか。
673 名前: 元々ぼら夫 2006/02/27(月) 22:26:51 ID:CCW8/WU8
>>666
お前さんさ、人の現代語訳断りもなくうpしといてさ、解説しろって何様なんだよ。
一言断るのが筋ってモンちゃうの?藻前らには社会常識ってモンないの?大人の意見として
ゆわせてもらうよ、恥ずかしいことやけど。ま、明日は忙しいんで、後日総括したるけど。
ホンマ、漏れもお人好しやな~☆ま、s会だろ~とH願寺だろ~と、教学にコンシャスネスなのはえ~ことや、
ってな思いでやってまつ♪本日はここまで。(^-^)/ホナねん☆
676 名前: 名無しさん@3周年 2006/02/27(月) 23:25:42 ID:3k1+IMp4
>>673
ああ、根拠としてあげたんじゃなかったわけだ。
じゃあ、よけいなもんあげるんじゃないよ。
消えな。
680 名前: 元々ぼら夫 2006/02/27(月) 23:47:36 ID:CCW8/WU8
寝んねする前にと♪
>>676
先に答えありき(T森君の考え)が、君らの勉強法。故に原文から読む癖をつけさせるために
わざわざまわりくどい方法をとっとるんやん。偉そうな事ゆ~とる前に、自分自身で
読めるようにスキルアップしな(人の現代語訳にたよらないでもい~よ~にさw)。
漏れもちゃんとぐ~の音もでんぐらいの総括用意しとるから、楽しみに待っててね~。
ま、月末は、お寺の新聞づくり&発送作業で忙しいので、少しばかりお時間頂戴いたしますが。
m(_ _)mオヤツミ~☆
929 名前: 元々ぼら夫 2006/03/03(金) 22:49:57 ID:RYOSdqsa
乙~☆
すんませんねぇ、お待たせしても~て。やっと、お彼岸の参詣案内を発送しおわんぬ♪
ま、一息ついでにカキコしまつね。まず、『山科御坊事(1)』を先入観なくフツーに読んでみる。
タイトルには『山科御坊事並其時代事』とあるから、フムフムこれは、山科本願寺の事
及びその時代の事を述べようとする書物なんだな、とわかる。(1)の書き出しは、
わづかに55年のあひだ、とあるから、なるほど、半世紀しか存在せんかったお寺なんだ
って読み手は受け取る罠。
~つづく~
931 名前: 元々ぼら夫 2006/03/03(金) 23:27:56 ID:RYOSdqsa
>>929つづき
で、今は鳥のすみかと化したこの地に、なんで本願寺が建ったんかいな?
という理由について、法敬(順誓)坊(蓮如の上足の弟子、御一代記聞書・実悟記に、
蓮如から頂いた名号が焼けてしまったが、それが六体の仏になったと見て、不思議な事だと
思って蓮師に話すと蓮師は、仏が仏になるのは別段不思議ではない。悪凡夫が
弥陀たのむ一念で仏に成ることこそ不思議なことよ、と答えた、というエピソードが
ある)(ナンマンダブナンマンダブ☆)そういった法敬坊が、この土地を特に選んだと言う。
~つづく~
932 名前: 元々ぼら夫 2006/03/03(金) 23:47:12 ID:RYOSdqsa
>>831つづき
さらに、善従(『山科御坊事』本文では従善となっとる)坊(金が森の道西)が、かつて、
まだ山科建立など話にも上がらなかった頃、用事で山科近辺を通り過ぎる途中、
わざわざ籠から降りて、その場所を指し「この道すじに仏法がひらけるであろう」
と言った。皆は年寄のもうろくと思っていたが、今、山科本願寺が建立され繁昌するのを
見及んで、不思議なことやと言いあったという。(『聞書(200)』)
そんないきさつをもつ土地が山科であったんやなあ、と読み手は思う罠。
~つづく~
936 名前: 元々ぼら夫 2006/03/04(土) 00:01:53 ID:RYOSdqsa
スマソ>>932のレスアンカーは>>931也。疲れとるんやろか♪
>>932つづき
そういった土地に、堺にあったお寺の座敷がひとまず移築され、仮の御坊が建った。
ほどなくして、御真影(木像)安置のための御影堂が建ち、お墓所でなくお寺としては、
阿弥陀堂がなきゃならんってことで、阿弥陀堂が建ちました、と。で、阿弥陀堂は
どないな様相だったん?というと、三間四面で、今現在ある石山本願寺の諸堂と同じ
様式だったと。それでご本尊は何?とくれば、木像本尊(安阿という仏師が造ったもの)
と実悟さんはゆ~とる訳でつね。
~つづく~
940 名前: 元々ぼら夫 2006/03/04(土) 00:23:01 ID:+9+Sbzhu
>>936つづき
故に、な~んの先入観もなく、この書を読めば、現在なんにも無くなっちゃった山科御坊→
建立前の土地にど~ゆ~いきさつがあったんか→建立の当初(堺御坊座敷移築→仮御坊→
御影堂建立→阿弥陀堂建立)→そして、その本尊と荘厳、と見るのが至極フツーの読み方やね。
で、それだけじゃものたりへんって方のためには、『帖外御文章』(62)が建立当初を、
蓮如上人みずから述懐しとりますので、リクエストあれば、解読しましょか?これも『山科御坊事』の
記事を裏付けるものになる。ま、明日もあるんで、本日はここまで~☆
(^-^)/バイチャ♪
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1140844380/
150 :元々ぼら夫:2006/03/05(日) 00:05:26 ID:uY01nH5A
乙!
『帖外御文章(62)』山科御坊阿弥陀堂仏壇造立の箇所。
「しかるのち、阿弥陀堂の仏壇いまだこれをつくらせざる間、同じくこれを企て
つくりければ、いくほどなくして出来せり。則まづ本尊を6月15日にはすえ奉りけり。
かくて月日をおくるところに、あまりに白造の仏壇なればみぐるしきと申しけるほどに
漸に諸方へうるしをあつらへおき、すでに閏7月2日より、奈良塗師をやとひ、これを
ぬらしむるほどに、9月20日ごろに出来せり。その後やがて絵師をよびよせ細色をさせ、
又杉障子に蓮をかかせ、同仏壇のうしろ障子にも蓮を書せけり。」
153 :元々ぼら夫:2006/03/05(日) 00:23:45 ID:uY01nH5A
う~、こんな時間になってもた~。
>>150
解説はまた後日ねん☆ま、問題は「すえ奉りけり」。果たして、名号にせよ、絵像にせよ、
掛け軸を「据える」と表現できるのか、またそんな例が、他の古文法にあるのか?
あと、本尊安置の仏壇の形式。「仏壇のうしろ障子にも蓮を書せけり」とある。
うしろ障子がある仏壇となれば、形式的には「出仏壇」と言えよう。果たして、
軸を掛けるのに、出仏壇の形式をとる例があるのか否か?ってトコも探っていかな
ならん。そ~すっと、山科の本尊がいかなる形態のものだったのかが見えてくる。
(^-^)/ホナ
221 :名無しさん@3周年:2006/03/06(月) 08:26:59 ID:ja+8gMcX
>>150
>>153
なんか新しい根拠が出てくるのかと思ったら何にもないし
「山科」の現代語訳は中途半端に前半しかせずに
自分の「解釈」を披露しただけだが
結局、木像本尊の根拠として主張するようなものはない、ということだな。
現代語訳するならせめて一章を通してするべきだ。
わざと問題にされたところを省くのはボラらしいとは言えるが。
そこまでして木像本尊に執着したいかい?
根拠はないということで決着なら
じゃあ、次、絵像本尊に行こうか。
226 :元々ぼら夫:2006/03/06(月) 09:40:49 ID:9ypPN3y/
おは♪
>>221
う~ん。解釈じゃなくて、そ~としか読めないってことなんだけど。寺院建築史
的に見ても、山科の阿弥陀堂中尊は「木像」だったとしか言えへん。それは『帖外御文章』が
根拠。「据える」という表現は、ある一定の大きさのものを置く、ってことやし、
山科の内陣は、道場形式の中尊も含めすべて押板(現代で言えば床の間)の形式ではなく
うしろ障子があるような「出仏壇」形式。則ち、今の本山内陣のように、中尊を
安置する仏壇がうしろの壁から離れて独立しとる。この形式で本尊が掛け軸で
ある例があるなら大発見やで。多分w
247 :元々ぼら夫:2006/03/06(月) 17:08:23 ID:9ypPN3y/
>>226つづき
確か、守口にあるお寺さんで重文指定のとこがあった。そこは、内陣後方の壁が
すべて押板になっとる。今は中尊に木像が安置されとるが、当初は、すべて掛け軸が
奉懸されていたのだろう。そういった建築様式。確か、蓮如さんの500回遠忌の時に
つくられた記念誌(写真も豊富でええ仕事やな~って感心したの本。一般には売らなかった
んかな?)に、H松令三先生が、本尊について歴史的考察されとるから、読んでみると
目からウロコかもねん☆ま、詳細な考察もせんと「像形を廃した」なんて結論は安易に
出せへんってこった。(^-^)/ホナ
248 :元々ぼら夫:2006/03/06(月) 17:41:03 ID:9ypPN3y/
>>247つづき
s会の教学の問題点はT森タソのゆ~ことは、すべて正しいという前提のもとに出発するために、
明らかにおかしいトコも、弟子が弁護せなならなくなる。もっと自由に学ぶ態度を
持ち、自由に批判できるよ~にならなければ、社会に通用する集団にはなりえんやろね。
ま、漏れの調べた限りにおいては、山科御坊の阿弥陀堂中尊について、名号であったと
いえるよ~な積極的な史料はない。あれば、紹介してほしいッス、ホンマ。それに反し、
実悟さんの文書、蓮如さんの帖外御文から見ると、山科の中尊は木像形態やったと
見ざるをえん。わかった?
260 :名無しさん@3周年:2006/03/06(月) 21:03:33 ID:dZX2JV3s
>>226
>「出仏壇」形式。
出仏壇は、木像が下付されて寺号免許が出るようなところにしか
特許が出なかったんじゃなかったけ?
本願寺系統の寺は道場が寺号免許を受けて寺院化していったんだから
寺院では「木像で出仏壇」しかないのが当たり前だろ。
ましてや御名号を御本尊にするのは真宗しかないんだから
「出仏壇だから木像本尊」とは言えないな。
>実悟さんの文書、蓮如さんの帖外御文から見ると、山科の中尊は木像形態やったと
見ざるをえん。わかった?
「木像本尊であってほしい」と思う人が読めばそう読めるが
「どっちかな」と思っているひとには判断がつかないような文章は
根拠にならんと言っているだろ。
「山科」の後半も現代語訳してみたら?
待っててあげるよ。
277 :元々ぼら夫:2006/03/06(月) 23:52:24 ID:9ypPN3y/
乙!
まず、安置=据えるって読み方はおかしい罠。安置≧(重さのある一定の大きさをもった
ものを)据える、安置≧(掛け軸)をかける。君らの訳し方は誤魔化し多し。安置=据える
という定義づけ自体が間違っとるわけ。わかる?あと『山科御坊事(1)』は全文現代語訳
しますたよん☆ちゃんと過去スレ見てから、ものゆうておくれ。(^-^)/ホナねん☆
279 :元々ぼら夫:2006/03/07(火) 00:09:48 ID:8grL5JQd
あと、歴史的事象を明らかにしていく作業とゆ~のは、どれだけ広範な史料を集められるかに
かかっとる。文書はもちろん、物証として残っとるもの、ことごとく精査せなならんって事。
T森タソがいくら声高にゆ~ても、証拠はくつがえせん。歴史資料が語るものをあながちにw
軽く扱うべきではないってこった☆ま、あながちにwそうとも言えんのやけどw。
ここで唐突に【クイズ!】上記の文章に「あながち」という語句が2箇所使われていましたが、
それぞれの「あながち」は、用法として同じ意味を表しているか、否か?
(^-^)/ホナねん寝ん☆
288 :名無しさん@3周年:2006/03/07(火) 08:20:06 ID:6UTDbOYX
>>277
>安置=据えるって読み方はおかしい罠。
じゃあ、国語辞典の編集者がおかしいということだな。
根拠をしめさないといけないのはあなただよ。
343 :元々ぼら夫:2006/03/08(水) 10:54:07 ID:sHvd3J39
>>288
辞書がおかしいんでなくて、あなたの辞書の用い方がおかしいんやない?
漏れの使うてるのは、角川のむかしのちっこいのと、三省堂の最新版やけど、「すゑおく」
の元、「すう」の用例として「持仏すゑ奉りて」(源氏物語)をあげとる。持仏とは
邸内敷地内に置く仏像。これを現代語訳すれば「仏像をご安置たてまつって」と
なる。じゃ果たして、名号すなわち掛け軸状のものを飾るのに「すゑ置く」とゆ~
用例があるんかってこと。山科阿弥陀堂の中尊が、掛け軸状のものだとするなら、
これを明らかにせなならんわけ。勉強の仕方わかった?
354 :元々ぼら夫:2006/03/08(水) 13:50:38 ID:sHvd3J39
乙~♪今日はあったかいなりね~。
で、も一丁>>260
え?書き方悪かったんやろか。岐阜の照蓮寺本堂(重文)は、出仏壇形式でなく全面押板
すなわちすべて掛け軸を懸ける形態である(現在は中尊木像)。初期真宗寺院いわゆる
道場形態を残すもの。つまり、山科の形態とは違うわけ。で、それをふまえていただいて、
何故に山科は出仏壇形式にしたんやろ~か?っつ~問いが提起されるやろ。
もし、掛け軸を懸けるならば、押板(床の間的)形式の方がフツーに考えてカッコええと思わん?
掛け軸全面もよう見えるし。
~つづく~
355 :元々ぼら夫:2006/03/08(水) 14:07:35 ID:sHvd3J39
>>354つづき
で、出仏壇形式にして仮に掛け軸を懸けるとしよう。まず懸け軸を懸けるための
屋根が必要。また、左右からくる風の対策も必要。「ご本尊が揺れてまつ~」じゃ困る罠。
故に厨子のような前面だけ空いた箱型と仮定できそうだ罠。現代のよ~に照明などない時代、
果たして厨子に吊された名号なり絵像なりを参拝者が見たらどうか?暗くて何も見えへんがなw。
中尊がまっ暗で、脇掛けばかり目立つ不自然な本堂になってまう事は容易に想像できる。
ま、常識的に当時の寺院建築様式を考えてみても、出仏壇の中身が掛け軸っつ~のはナンセンス
366 :元々ぼら夫:2006/03/08(水) 17:50:54 ID:sHvd3J39
帰り途~♪
>>355付け足し。
>>260出仏壇とか金柱の認可制とかってのは、蓮如さん健在の時からあったん?大体、
寺格とか僧班とか封建体制がかっちりしたんは、江戸期からやない?ま、この体制
すなわち宗教性よりも権威偏重になったんが、H願寺教団の堕落につながっとると、
漏れは思っとるんやけどね。はじまりは蓮如さんの「一家衆」なんかもしれへんがw
いずれにせよ、今は山科建立時の事を話しとるわけやから、関係ない話。結論的に、
山科御坊の阿弥陀堂中尊がお名号軸やったってことは史料的に見ても無理ぽ。
(^-^)/ホナねんねん☆
392 :名無しさん@3周年:2006/03/09(木) 11:44:46 ID:nHrwEzZP
結局シンパは沈黙しちゃいましたね。
ボラ夫さん、お疲れ様でした。
405 :元々ぼら夫:2006/03/09(木) 17:05:54 ID:kOoCfwxI
乙~♪
>>392
ん~、別に論破するつもりも、したつもりもないんやけど。ま、フツーにもの読んだら
こ~ゆ~風に読まんとつじつまがあわんやろってことだけ。もし、新たな史料が
発見されりゃ、それもふまえなならんやろし。【速報】山科別院で建立当時の本尊
発掘さる!【宿直室押入れから】なんてことがあるかもwしれへんしね。ま、現時点では、
例のk正新聞のよ~な記事は、単なる「勇み足」に過ぎん。あと、s会員サンに対しては、
会でゆわれた事をなんでも鵜呑みにせんと、まず自分で調べてみなってゆいたいね。
ま、狭義的にムリかw
(^-^)/ホナ☆
※このあと、親鸞会シンパからの反論無し