Honey Girl との出会い 移住への道 Vol.3 | ハワイの水着HONEY GIRL:サーフィンのための水着ブランド

Honey Girl との出会い 移住への道 Vol.3


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楽しい時間というものは何故にあんなにあっという間に過ぎてしまうのかカップラーメンの3分は永遠の時間に感じられるのに、ハワイでの3週間豪遊トリップはカップラーメン待ってる間に終了。。。 波乗り以外に特にすることもないわけで、一ラウンド6時間とか普通に毎日波ばっかり乗った結果、どっからどう見ても土人化した私、遂に日本へ帰国する日がその瞬間ドイツへ行かなければならなかったことを思い出し愕然

父親の陰謀に安易に乗ってしまったバカな私。陸に囲まれた南ドイツ。湖はあるみたい。でも波なんてない。激しくショック。。。でも2年半は帰れない。そう、日本へ帰って1週間もしないうちに、私はまだまだ寒い4月のドイツへと旅立ちました

で、ヨーロッパではドイツを含め、イギリスとスペインに結局2年半を過ごしたわけだけど、この2年半について書き出したら終わりが見えなくなるのでほとんど省略で失礼します。簡単にいうと、毎日遊んでました。その間、どうしても我慢できず仕送りを貯めて一度ハワイへ旅行も。スペインでは滞在先として大西洋に面したそれはそれは小さな田舎町を選び、日本からわざわざボディーボードを送ってもらい波乗りする気マンタンでした。が、どうやら冬にしか波の立たないエリアで、少し肌寒くなって、そろそろスペインも引き払おうという時になってやっと波が立ってた。ウェットスーツがないと冷たくて海なんて入れなかったのですが、どこからともなくたくさんのサーファーが集まってきたのを見ただけで相当感動したのを覚えています。このヨーロッパで過ごした相当濃い2年半も別の機会に思い出してみると面白いかも。。。

ところで、この2年半で一番重要だったのは、どうやってこの後波乗りする為に波のある国へ移住するか。だったわけで、ない知恵絞って色々と考えた結果、大学へ行く!というのが一番可能性のある手段だということに気づきました。私の父親は、大学中退させてヨーロッパへ遊びに行かせるほど日本の大学がキライ。なんですが、母は世間体なんかを相当気にするタイプ。(これを利用する手はない。ママに頼んで海外の大学行かせてもらお~♪)というわけで、ヨーロッパ滞在中に、様々な大学の情報収集を開始。

波のあるところならどこでもよかったけど、ハワイに関してはどちらかといえばNG。旅行で何度か行ってみて、“あんな楽しいところで大学行ったところで勉強なんて絶対出来ない。”というのが理由。そういうところは意外と真面目な私。なので、カリフォルニア、オーストラリアの大学中心に情報を収集。様々な大学から資料が送られてくる中、オーストラリアのゴールドコーストにある大学に入学願書を提出。そして見事入学許可をもらいました。っといっても、向こうの大学って、日本の高校でよっぽどひどい成績でなければ(私の場合は大学2年までも含む)大抵入学させてくれるわけで。これで一安心だったわけです。

がーっ。運命というものはどこでどう変わるかわかりません。入学許可をもらってほどなく、ノリで唯一取り寄せてたハワイの大学の案内が届いていたのです。行くつもりなんて毛頭なかったはずなのに、とりあえず見てみよ。と封を開け、資料に目を通す。。。

“あらま楽しそうやっぱハワイかしらってゆうか、ここしかないかも~!え~!ま~じ~で~???”

というわけで、気づけばHawaii Pacific Universityに入学願書出してました。そしてこちらも入学おっ系。オーイエスハワイもう心はハワイへ飛んでいました。ゴールドコーストの大学には丁重にお断りを入れ、12月初め、ヨーロッパ留学最終地点のイギリスから日本へと帰りました

日本へ帰国し、先ずはハワイ行きの航空チケットを手配。新しい学期が始まる日までに行けば、いつ行ってもOKだったわけだけど、この日時の選択の素晴らしさは私の悪運の強さを証明することになります。直感で選んだ日は“1995年1月16日”。この日の夜20時には飛行機へ乗ってハワイへと旅立ちました。この日付を聞いてすぐ何の日だったか覚えているあなたは多分関西人。そう。あの阪神淡路大震災の前の日を出発の日に選んでいたのでした

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