津市の海難事故と亡霊話の手記 | 不思議なできごと

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できるだけオリジナルな、或いはそれに近い怪異譚を公開してゆきたいです。


 今回は昔からうわさ話として広く知られている怪談話で、松谷みよ子著『現代民話考 5 死の知らせ・あの世へ行った話』やフジテレビの『奇跡体験!アンビリバボー』でも紹介された『津市の海難事故と亡霊話』です。
 この事故は、昭和30(1955)年7月28日、三重県津市の中河原海岸で、市立橋北中学の女子生徒が水泳の授業を行っていた。ここの海岸は遠浅で波も穏やか、子供でも足がつく海岸から50mほどのところを泳いでいた。しかし突然、静かだった海を大波が襲い生徒達は次々と波間から姿を消し、36名が死亡、生存者は9名という悲惨な事故となってしまった。というものです。そしてこの時難を逃れた生徒の中から、防空頭巾をかぶった人たちに海の中へ引き込まれそうになったと話す人がいて、この話が噂となって広まっていったというものです。
 この夏古い雑誌をめくっていましたら、偶然その事件について記事が掲載されていましたので、ここに転載します。


[※橋北(きょうほく)中学水難事件とは、昭和30年7月28日、三重県津市立橋北中学の一年生の女子36名が、市内の海岸で、海水浴中に水死した事件で、責任を問われた先生たちの裁判は話題を呼んだが、結果は不可抗力であるとして、無罪の判決がくだされた。筆者は助けられて生きのこった9人のうちの1人。]


津市海難1

戦災の犠牲者を埋めた浜辺。その死者たちのアブラによりて枯れた松の根(写真上左)

運命の7月28日を前に、死者の霊安かれと女神像に祈る弘子さん(写真上右)



恐怖の手記シリーズ3
私は恐怖の手からのがれたが・・・
ある水難事件・被害者の恐ろしい体験



 夏が来ても、ここ三重県津市の海岸には人っ子ひとり見えません。そのわけをはじめて公開いたします。
弘子25歳

「弘子ちゃん、あれを見て!」私のすぐそばを泳いでいた同級生のSさんが、とつぜん私の右腕にしがみつくと、沖をじっと見つめたまま、真っ青になって、わなわなとふるえています。
その指さすほうをふりかえって、私も思わず、「あっ!」と叫んでSさんの体にしがみついていました。私たちがいる場所から、20~30メートル沖のほうで泳いでいた友だちが一人一人、吸いこまれるように、波間に姿を消していくのです。
 すると、水面をひたひたとゆすりながら、黒いかたまりが、こちらに向かって泳いでくるではありませんか。私とSさんは、ハッと息をのみながらも、その正体をじっと見つめました。
 黒いかたまりは、まちがいなく何十人という女の姿です。しかも頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいておりました。
白い顔が近づいて、夢中で逃げようとする私の足をその手がつかまえたのは、それから一瞬のできごとでした。
 思いきり足をばたばたさせて、のがれようとしましたが、足をつかんだ力はものすごく、下へ下へと引きずりこまれてゆきます。

津市海難2

心霊術の実験で写された写真の中に死者の姿があらわれた(アメリカにて)

 そのとき、左のほう50メートルぐらいのところに、校長の沢田先生の立っているのが見えました。
「先生、助けて!」
 だが、波の音にかき消され、先生のところまでとどきません。つい先ほどまで、いっしょに叫んでいたSさんは、いつの間に水中に没してしまったのか、姿が見えなくなっています。
 もう自分の力に頼るしかありません。死にたくない。どうしても生きたいと願いながら、したたか海水を飲みこんで、私も魔の手にひかれるまま、海中に沈んでいきました。
 しだいにうすれていく意識の中でも、私は自分の足にまとわりついてはなれない防空頭巾をかぶった女の白い無表清な顔を、はっきりと見つづけていました。
             
 意識をとりもどしたのは、浜辺でした。
「あ、気がついたぞ」私の顔をのぞきこんで叫んだ人々の顔が、私には、海の底で見た女の白い顔に見えて、ふたたび気を失っていきました。
 この事件で36人もの友だちが水死したということを聞いたときは恐怖と悲しみで気も狂わんばかりでした。
 助かったのは、わずかに9人。その中で、私がもっとも重症で、肺炎を併発し生死の境をさまよって、20日間の入院生活をつづけねばならなかったのです。
 その間、私は「亡霊が来る!亡霊が来る!」と、うわごとを言っていたそうです。
 私は退院すると、この恐ろしい思い出を一刻も早く忘れようと努力しました。それをどこから聞きつけたのか、新聞記者がたずねてきて、私に「亡霊を見たそうだが」と、しつように聞きます。だが、いっさい話をしませんでした。
 いったい、文明の開けたこの世に亡霊の存在を信じてくれる人がいるでしょうか。たとえ話しても、あの事件で頭がおかしくなったんだろうぐらいで笑われるに違いありません。だから、自分だけの胸の中でじっと耐えているほか方法がなかったのです。ところが、あの海岸と恐ろしい事件を結びつける実話を耳にする機会がおとずれました。
 それは事件から三年後、私が三重県立津女子高一年になった夏のことでした。

この浜から人影の消えた理由


 学期末試験の準備も一段落して、夕涼みをしていたとき、一人の恰幅のいい老人の訪問を受けました。
 津市郊外の高宮で郵便局長をしているYという人です。
「私は、長年、霊魂の研究をしてきました。あの事件のときに、あなたは、きっと亡霊を見ていると思ったのでおたずねしました」
 事実、私はあの事件のことを、そろそろ忘れかけていたのです。はたして自分の見たのが亡霊だったろうか、あれは夢の中のできごとではなかったかしらとまで、考えられるようになっておりました。
「いや、あの海岸に亡霊が出ても決して不思議じゃない」
 Yさんは、ゆっくりと、次のような話をはじめました。
 あの事件のちょうど10年前。終戦まぎわの昭和20年7月28日、B29の大編隊が津市の上空を襲った。市内に落とされたおびただしい数の爆弾は、みるみるうちに死傷者の山をつくり、防空ごうのない人々は大きな建物の地下室を求めて、右往左往していた。
 そのなかでも、警察署の地下室に逃げこんだ人々の最期はあまりにも悲惨だった。近所の建物から出る煙が地下室に入りこみ、警察署は焼けなくても、地下室にいた人は皆、煙にまかれて窒息した。
 死者は250名をこえていただろう。その処理に困った市当局は、海岸へ捨てることに決めたが、漁師たちが反対したので、一部は油をかけて焼き、残りの大部分は砂浜に穴をほって埋めてしまったのだ。「あの浜辺の松の木を見てみなさい。みな枯れている。あれは、死体のアブラで枯れたのだよ」
 山本さんの言葉に、私は吸いつけられるように引きよせられていきました。

津市海難3

海岸に立つUさんとYさん。二人は霊魂の不滅を信じている

「あなたたちが遭難したのは、ピタリ10年前と同じ7月28日だったのです。これは、ただ偶然といって片づけられるものじゃない。」
 私は、あの日の防空頭巾をかぶった女の白い顔を、まざまざと思いだしていました。
 -ああ、やっぱり私の見たのは幻影でも夢でもなかった。あれは空襲で死んだ人たちの悲しい姿だったんだわ-。
 私の放心したような顔をじつとみつめていたYさんは、また話しだしました。
「あの日、事件を知ったのは郵便局長会議で昼食中に聞いをラジオの臨時ニュースでした。私は、そのときぼんやりと10年前の光景を思いうかべていたので、思わず、『あたりまえだ!』とどなっていました。みんなの驚きと非難の目をあびながら、空襲のときの状況を説明してあげました。私には、二つのできごとを切りはなして考えられないのです。
 それから三年間、あなたのように生きのこった人たちをたずねて話を聞いてまわりました。その結果、9人のうち5人までが亡霊の姿を見たといっているのです。また、浜辺にいた生徒たちの何人かも、それを見たといっています。しかし、だれもが恐怖にとりつかれて、決して自分から口を開こうとはしません。あなたの見たのは、防空頭巾をかぶり、モンペをはいた女の人たちではなかったでしょうか」-私は、大きくうなずいておりました。

この女神像に祈るのみ


 私は、津女子高校を卒業すると近所にある三津自商事というガソリン・スタンドの事務員として就職しました。
 水難事件以来、六年余の月日がたっていましたので、私も当時のショックから完全に立ちなおり、海の底で見た亡霊のことを、自分から積極的に調べたいと思うようになっていました。
 だが、調べるほどに、無気味な事実を知らされました。
 私たちの水難事件の前日(注・27日)、海から大きな火の玉がとびあがり、浜辺にある家の屋根に落ちたのを、海で釣りをしている人々が何人も見ていたこと。
 そしてその家の娘さんが私と同様に遭難し、しかも死亡している事実も……。
 また、私たちの事件のあと、7月になると毎年一人ずつ、不思議な死に方をしていること。
 それは腰までつかって釣りをしていた人が、突然何ものかにつかれたように、沖に向かって歩きはじめ、そのまま海中に没して、死体さえもあがらないという事件が過去四年間続けて起こっているのです。
 まさに恐怖というほかはありません。そのうちの一人はYさんの親友でWという人でしたが、幸いそのときは助けられたものの、病院で20日間も、「亡霊を見た。亡霊を見た」とうなされつづけ、ついに意識不明のまま他界しています。
 最近では、K電話局の局長をしていたNという人が、宴会のあと、一人で海岸へ歩いてゆき、そのまま行くえ不明となり、三日後、海岸に死体が打ちあげられた事件がありました。Nさんには家庭の不和はないし、人に恨まれることもなく、新聞には原因不明の死として報じられたに過ぎませんでした。
 だが、私には原因がはっきりわかる気がします。
 これは自殺でも他殺でもない。WさんもNさんも、あの海にいる死霊に招きよせられたとしか、私には思われません。
 私たちの遭難事件から一年たったのち、浜辺の片すみに多くの死者の霊が安らかに眠るように祈って、海の守りの女神像も建てられました。
 もうすぐ、運命の7月28日はやってきます。今はだれも訪れなくなってしまったこの浜辺に立ち、どこまでも青い空と海を見ていると、あの恐ろしいできごとも信じられないようです。
 荒れ放題の女神像に今年こそ、恐ろしいことが起こらないように、祈らずにはおれません。
(女性自身昭和38年7月22日号より。掲載した写真もこの記事のもの)