聖書には、人間の明るい部分と暗い部分、つまり善悪の両面が描写されている。
例えば、ルツ記のような心温まる、純粋さ、良心が描かれた美しい事実が語られる一方、人間の暗部としか言えないおぞましい、邪悪な側面も、また事実として語られている。
今、通読している士師記19章では、ベニヤミン族における、女性に対するいまわしい犯罪、ここに表現するにも憚れる事件が起きる。
そして、他のイスラエルの部族が、「イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。」と、憤り、ベニヤミンに対し、裁きの為に戦いを挑み、ベニヤミン族の大部分が死滅する。
この殺戮もまた、悲惨なものである。殺す側の部族も、その結果に激しく泣き、悔やむ光景が描かれている。
なぜこのような事を含む士師記が、聖書に採用されているのだろうか。
神から離れた人間の悪。限界のないさまよい。悲惨。神は、私たちにその現実を告げる。
思えば、人類の歴史も、その繰り返しなのかもしれない。
とても恐ろしい、想像を超える悲惨な史実が物語っている。
このどうしようもない、救いようのない人間の業を、救うために、神は来られた。神しか救えない。しかも、尊きイエス様の血による贖いしかなかったのだろう。
今の世はどうであろう。残念ながら、人間の慾、邪悪な側面がさらに露出しているような気がする。
私達は、その悪に打ち勝ち、世の光、地の塩として、輝いていく必要があるのだろう。
そのような役割を与えていただき、いつもともにおられ、励ましてくださる神に感謝。
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